ちょっと今から幸せを呼ぶ呪文
八雲たけとら*
ちょっと今から幸せを呼ぶ呪文 (約2,000字)
夕暮れ時の公園は、なんとも静かな空間だった。
近くの学校からチャイムが鳴り響くと、まるで「さあ、もう終わりだよ」とでも言うかのように、空がどんどん暗くなっていく。
茉奈にも、それが伝わったようで、どんどん人が少なくなる公園の真ん中で一人、立ち尽くしていた。
その時間が楽しければ楽しいほどに、終わることは寂しいものだ。出来ればずっと、そのまま今日の一日が続いてほしい。そう思うのは、一日を楽しめた証拠なのだ。
「茉奈」
私は茉奈へ声をかける。もう帰ろうか、と言おうと思って。
茉奈は、ゆっくりと振り返った。今にも泣きそうな、そんな顔をしていた。
――三時間前
昼食のナポリタンを食べ終えた後、茉奈は食器を片付けることもなく、座ったままだった。
何度か「茉奈、片付けは?」と言うのだけど、生返事だけで動く気配がない。
どうしたものかと思っていると、隣に座っていた美奈子から「そうねぇ」と聞こえてくる。
「もしかしたら、茉奈、この後、暇なんじゃないかなぁ」
言葉の響きが、わざとらしい。
要するに「片付けた後やることがないから、片付けに気が向かない」のだろうか。私がいまいち掴みきれない茉奈の機微が、美奈子には手に取るように分かるらしい。父親としては、少し面白くないところだ。
「そうしたら、茉奈、午後は公園にでも行こうか」
私がそう言うや否や、茉奈から「ほんとっ!?」と元気な声が聞こえてくる。先程までの無気力はどこにいってしまったのか。
「片付けしてくる!」
こちらが言うまでもなく、てきぱきと動き始める茉奈。隣には、したり顔の美奈子。
「……はいはい。ツボどころは、さすがですね、お母さん」
美奈子は、えっへんと胸を張った。
私が動きやすい格好に着替え終わるまでに、バトミントンセットや、レジャーシート、ボールやシャボン玉などなどの必要なアイテムは、茉奈が全部準備し終えていた。汗ふき用のタオルと、水分補給用の水筒までセットしてある。
「……いつもこんななの?」
美奈子に聞くと「せっかく、お父さんと出かけられるもんねー」と茉奈に話しかける。そうか、と少し笑顔になりかけるのだが、茉奈は「いつもやってるもん」と真顔で返してくる。美奈子は大笑いしていた。
出発間際「はい、お父さん」と美奈子が紙切れを差し出してくる。ご丁寧にもテープで止めてあって中身が見えない。
「なにこれ?」
「そうねぇ。あなたを助ける呪文書、かな」
「……呪文?」
「もし、どうしようと思ったら開いて。唱えれば、きっと大丈夫だから」
それからは、何を聞いても、ただ笑うだけで何も答えてくれなかった。
歩いて十五分。少し大きめの公園に着くと、さすが「いつも」来ているのだろう。慣れた様子で「あっちなら木のかげがあるよー」と教えてくれる。
遊び内容も、こちらが提案する前に、茉奈が「次はねー、バトミントン!」などと仕切ってくれる。困ることもない。最近は、こんなに生き生きと遊んでいたのか。
去年の春のこと、私に出世の話が舞い込んだ。給料が増えて、部下もできたが、休みは減ってしまった。
部下のフォローで休日出勤したり、元々休みだったのに電話がかかってきたり。プライベートが、何割か犠牲になった。
元来、仕事はそこまで嫌いじゃない。最初はストレスだったが、慣れてきてからは、これで昇給ならば割が良いとまで思ったくらいだ。
でもそのせいで私と茉奈と関わる時間が減って、美奈子と茉奈と関わる時間が莫大に増えた。いつの間にか、美奈子ならば分かることでも、私には分からなくなってしまった。いつの間にか。
「茉奈……大きくなったなぁ」
ふとフリスビーを取ってきた茉奈に、そんなことを言う。一応、毎日会ってるのだけど、時折知らない茉奈に出会うことがある。長年会ってなかったかのように、成長に驚くことがある。
茉奈が不思議そうに首をかしげるので「なんでもないよ」と笑いかける。今日は目一杯、茉奈と過ごそう。
それからというもの、なけなしの体力をフル動員させて、茉奈と遊んだ。
中でも心臓が一番ついてこなかった。オフィスワークを繰り返していると、やはり体力は落ちていくものだ。へとへとになりながら、それでも三時間はあっという間に過ぎた。
日が暮れて、チャイムが鳴って、そして今、目の前で茉奈は泣きそうになっている。今日が終わってしまうから。
私は、狼狽える。泣きそうになるとは思わなかったから。いくら楽しかったとはいえ、泣くほどだとは思わなかった。どうしようか。
「……あ」
その時、思い出した。美奈子が持たせてくれたアレのことを。
そっと紙切れを取り出して広げると、一行だけ文が書いてあった。ふっと笑ってしまう。
さすがですね、お母さん。
「茉奈」
私がそう笑いかけると、茉奈が「なぁに?」と聞いてくる。さぁ、呪文の出番だ。
「今日の晩御飯、一緒にカレーライス作ろうか」
一日が終わるのが悲しいなら、まだ終わらせなければ良い。とは、なかなか名案である。私も、こんなことを思いつけるようになりたい。
ぱっ、と笑顔を咲かせる茉奈を見て、もう少し休みを増やそうかなと、そんなことを考えた。
〈完〉
ちょっと今から幸せを呼ぶ呪文 八雲たけとら* @yakumo_taketora
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