泣かない季節
帆尊歩
第1話 笑わない季節
同僚の山野が倒れた事を聞いたのは、出社して一時間程度が経ったところだった。
その日は、訪問のアポがほとんどなく、どうやって時間を潰そうかと思って、手帳とにらめっこをしていた所だった。
課長に呼ばれた。
「今日の予定は?」年下の上司は多少は気を遣ってくれる。
「新規のアポはないので、ルーティンで三、四件回ります」
「山野さんのところを回ってください」
「えっ」
「インフルらしいです」
「そうなんですか」
「新規じゃないんだけれど、アポが三件あるらしいので。危ういところなんで、つなぎとめる意味で行って来てください」
「分りました」
まあ、気の向かない仕事だ。自分の取引先でもないし、これからどうなると言うことでもない。おそらく、今日行けばもう二度と行くことはないだろう。
どうと言うことはない仕事だ。
俺は再来年、五十五になる。
役職定年なんて、かっこいい物がうちの会社にあるとは思えないが、俺が課長になることはないだろう。
一応名刺には課長代理と書かれているが、これは営業用の肩書きで、次の課長と言うことではない。あとは定年まで、だましだましやって行くしかない。
自分の取引先ではないから、気は楽だ。
無難にこなして三件目、受付に出てきた若い娘を見て俺は驚いた。
あいつにそっくりだ。
まだ俺が若い頃付き合っていた女に似ている。
いやそっくりだ。
年齢が合わないから、本人ではない。
では娘とか。
いや、世の中そんな偶然があるわけない。
そもそも妊娠したとは言っていたけれど、
名前は千尋とつけると言っていたけれど、
本当に妊娠したかどうかは怪しい物だ。
俺はその時、結婚していたので、急に腰が引けた。
あいつはそんな俺の態度に、愛想を尽かして離れて行った。
だから、妊娠も嘘だったのだろうと思っていた。
結果その一年後、俺は妻と離婚して、現在に至っている。
もしあの時、妻と別れてあいつと一緒になっていたら、これくらいの歳の娘がいたかもしれない。
あり得ないことなのに、なんとなく名札に目がいった。
あいつとは違う苗字だ。そもそも何十年も前につきあっていた女だ。その似ているという事だって怪しい。
「すみません。山野がインフルで、代打です」
「そうですか、山野さんにはお世話になりました。最後にお会い出来るかと思っていたのですが」
「最後?」
「ああ、結婚するんです」
「それはおめでとうございます。お幸せになってください。結婚は忍耐ですよ」
女子社員は忍耐という言葉が壺にはまったのか、大声で笑った。
あれ、笑うと目尻が俺に何なんとなく似ている?まあ、世の中に似ている人間なんて、五万といるだろう。
「すみません。わたしこの時期いろいろありまして、笑わないと決めていたんですが、笑わせてくれて、ありがとうございます」
「まあ、笑う門には福来たるなんて言いますからね」
その後、連絡事項を確認して、俺は帰社した。
「千尋ちゃん」
「はい」
「今日来る予定の山野さん、来れないって。別の人が来るらしいよ」
「そうなんですか。別に良いのに」
山野さんは取り引き先の親父で、別にどうと言うことはないけれど、くだらない営業トークのせいでなんとなく親近感があった。
今日が出勤最終日だったので、結婚の報告でもするかと思っていた。
三年前のこの時期、私は両親から実の親子ではないと言うカミングアウトをされて、笑えなくなっていた。だからといって、泣くことも出来なかった。だから今の季節は、笑うことも、泣くことも出来ない季節だった。そんな私に山野さんは笑えと言ってくれた。
それだけのことなのに。
なんとなく山野さんには、結婚の報告をしたいなと思っていた。
仕事上だけの付き合いではあったけれど、きっと喜んでくれたのではと思っていた。
私の本当の母は不倫で私を産み、今の両親に私を託して三年前に亡くなった。
私の父親については、堅くなに語らなかったらしい。私には育てのお父さんがいたので、どうでも良かったけれど、心のどこかに結婚の報告をしたいという気持ちがあったと思う。それをどこかで山野さんにすり替えていたように思う。
やって来た山野さんの代理の人は、どこか自分に似ているような気がした。
母のせいで、笑わないと心に誓ったから、誰も分らないけれど、私が笑うとこのおじさんの目尻によく似ている。そのせいか私はこのおじさんに、結婚の報告をしてしまった。
「それはおめでとうございます。お幸せになってください。結婚は忍耐ですよ」忍耐という言葉に私は大笑いをしてしまった。
そう、本当は、本当のお父さんに、結婚の報告をして、こんな風に言ってもらいたかったんだなと思って、それがおかしくてさらに私は笑った。
母の事を憎んでいた私は、この季節は泣き笑いはしないと決めていたのに。
そしておじさんは、営業訪問を終えて、自分の会社に帰って行った。
私は、明日から有休に入りそのまま退職する。
あのおじさんに会うことはもう二度とないだろう。
泣かない季節 帆尊歩 @hosonayumu
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