すべては流転する

 向かい風はどんどん強くなっていき、行く手を阻む。扉が完全に開き、滞っていた流れが解放されたのだ。地上を彷徨っていた魂や、留め置かれていた土地神たちが、一斉に黄泉に下っているのだとわかった。


 元より、ここは死を迎えた魂がやってくる場所だ。生きたまま足を踏み入れることなど本来は不可能なのだろうし、またそうした人間が帰ってこられる道理などないのだ。


 風と共に深遠へと向かっていく光の群は、心なしか安堵しているように感じられた。やっと本来行くべきだった場所へ行ける。もう誰のことも呪わなくていい。そう言っているようだった。

 しかし、どれくらい歩いただろう。出口はまだか。風に逆らって必死に足を動かしていたが、


「……キズナ?」


 気が付くと、左手の抵抗が消えていた。手を引いていたはずのキズナの姿が、そこになかった。そして、アサヒとヨツユの姿もだ。

 いつの間にか風も止み、辺りは静寂と闇に包まれていた。一度立ち止まってしまえば、どちらに行けばいいのかわからなくなってしまっていた。


 どうすればいい。


 これほど心細いと思ったことは、今まで生きていてなかったかもしれない。帰れないかもしれないという恐怖が、心を浸していく。

 その時、


「――シン」


 それは、懐かしい声だった。落ち着いた、柔らかな女性の声。胸がいっぱいになって苦しくなり、目の奥から熱いものがこぼれ落ちそうになる。


「シン。会いたかったわ。母さんと一緒に、いきましょう」


 思わず振り向きそうになったが、刹那、遠く視線の先に瞬いた光が、それを思い止まらせる。

 何があっても、決して振り返るな。月読はそう言った。

 母は――アオイは、最後の時、シンに「生きろ」と言ったのだ。ここで共に黄泉へ行こうなどと、言うはずがない。


「シン」


 三度みたび名前を呼ばれて、その背に触れようというのか、手を差し伸べられる気配が近付いてくる。


 振り向きたくなる衝動を必死で抑え込み、歯を食いしばってシンは前に足を踏み出す。先程感じた懐かしさとは程遠い、ぞくりとする冷たい感触が迫ってくる。

 その時、前方からふわりと風が吹いてきて、その冷たい気配ごと、後ろにさらっていくのがわかった。


「おっと、振り返るなよ、少年。そのまま行け」

「またね、お兄ちゃん」


 刹那に聞こえたのは、小さな男の子の声と、軽薄そうな青年の声だった。それきり、シンは再び静寂に包まれる。

 シンは拳を握ると、顔を上げて走り出した。




 気が付くと、シンは闇の中を抜けて、岩戸のあった広間に戻っていた。闇はぽっかりと口を開けて、風がその中に吹き込んでいく。その影響か、周囲には地響きが鳴り、徐々に天井が崩れ落ちているところだった。土埃が舞い、視界が悪い。ここに置いてきたはずのサクラの姿も見当たらなかった。


 落ちてくる天井を避けながら周囲に目を走らせるが、後の三人の姿が見えない。


「キズナ! アサヒ! ヨツユ! いないのか!?」


 天井が崩れてきて、シンは腕で頭を庇いながら、入り口の近くまで後退せざるを得なかった。


「キズナ――ッ!!」


 強く名前を呼んだ瞬間、不意に目の前に見知った少女の姿が転び出た。


たた……」


 キズナが頭を振りながら立ち上がる。アサヒとヨツユの姿もそこにあった。


「遅えよ。何やってたんだよ」

「……うるさいわね」


 転んだ拍子に手のひらを擦りむいたのだろうか、キズナは痛みに顔をしかめるようにしながら、手や身体のあちこちに付いた土埃を軽く払う。だが、そんな悠長なことをやっている余裕はない。

 一瞥して互いの無事を確認し合うと、四人は下りてきた階段を上り始めた。広間は崩れていき、黄泉への入り口も見えなくなっていく。




 一体どれくらいの魂が、黄泉へ向かっているのだろう。向かい風は一向に止む気配がなかった。押し戻されそうになる足を必死に動かして、シンたちは進んだ。

 この階段も、どんどん崩れ落ちていく。このまま出られないかもしれないと、そんな考えが浮かんでしまう。


 だが、まだ生きている。こんなところでくたばってたまるか。そう思いながら、ここから出ることだけを考え、走り続けた。


 不意に、一際大きく嫌な音がして、頭上に影が差す。

 避け切れない。そう思った時、シンとキズナは大きく突き飛ばされ、尻もちをついていた。

 思わず目を瞑って開いた瞬間、キズナの悲痛な声が耳に飛び込んでくる。


「――アサヒ! ヨツユっ!!」


 ほんの一歩のところで、アサヒとヨツユがうつ伏せに倒れていた。その下半身は落ちてきた岩に押し潰され、暗がりの中でも地面に血が染みているのがわかった。

 キズナは半狂乱になりながら彼女たちの名を叫び、岩をどかそうとする。シンも手を貸そうとしたが、たった二人の力では、それはびくともしなかった。


「……行ってください、キズナ様」


 アサヒが喘鳴と共に、言葉を紡ぐ。


「やめてよ……っ、わたしなんかのために……!」


 泣きじゃくるキズナに向けて、ヨツユも懸命に笑顔を作ってみせる。


「あなたは、わたしたちの心を、ただの作られたものだと思っていたのかもしれませんが……。いえ、もしそうだとしても、わたしたちはあなたと共に在れて、幸せでした。この気持ちに、偽りはないのです」


 二人は可能な限り顔を上げて、弱々しく微笑む。


「早く行って。生きてください」


 ぱらぱらと壁や天井の欠片が周囲に降り注ぎ、止まる様子はない。


「……行くぞ」


 シンは胸を引き裂かれるような思いで、キズナの手を引いた。キズナはそれに逆らわなかった。




 果てしなく続くと思われた階段を抜け、やっと一階まで戻った。建物も地鳴りに包まれてヒビが入り、いつ崩壊してもおかしくなさそうだ。

 必死に外に転がり出て、座り込んで肩で激しい息を繰り返した。もう立てそうにない。


 そう思った時、地下に向かっていた風の流れが変わった。吸い込まれていた風が、今度は地上に噴き出してくる。

 それは、涼やかで緑の匂いのする、新しい風だった。勢いよく逆巻く風は、空まで渡って雲を打ち払い、一面に青い空を、彼らの前にもたらした。これが、空か。光が溢れ、枯れていたはずの大地には急速に緑が芽吹き、周囲にどんどん広がっていく。


 シンの目に、涙が溢れた。風に吹かれているせいか、胸がいっぱいなせいかわからない。けれど、止まらなかった。


 その時、土を踏む音がして、振り向くとハヤテが二人の帰還を喜ぶように、シンとキズナに顔を擦りつけてきた。その温かさが、何より愛おしかった。


「ひふみよい……むなここのたり……。ふるべ、ゆらゆらとふるべ……」


 キズナも同じように空を見上げて、祈りの言葉を呟く。彼女の手の中に残されていた四つの勾玉から柔らかな光がふわりと流れ出て、風と共に空に溶けていった。


 すべては移ろい、変わっていく。終わるものがあれば、また始まるものもあるのだろう。そうして、世界は回っていく。でも、自分たちはまだ生きている。


 俺は、この日見た光景を、一生忘れないだろう。


 シンは、そう思った。

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