還りゆく場所-3

「……誰か来たの?」


 鈴を転がすような、可憐な声だった。しかし、どこか弱々しく、疲労が滲んでいるような気配がした。

 暗がりからぼんやりと浮かび上がったその人影は、キズナたち巫と同じく、白い着物と緋色の袴をまとっていた。長い黒髪はそのまま背に流しているが、耳の脇で一本だけ細い三つ編みを作っている。


 黒い水晶のような瞳に、それを縁取る長いまつ毛、整った鼻梁に、薄紅色の唇は、絶世の美女と称えられるべきものだろう。しかし、その頬はやつれて青白く、生気がなかった。この空間の薄闇が、余計にそう見せているのかもしれなかった。


「そこにいるのは……キズナ?」


 その女性は、キズナの姿を認めると、疲労の色の濃いその顔に、花の咲くような微笑みを浮かべた。


「……サクラ?」


 サクラと呼ばれた女性は、キズナ、アサヒ、ヨツユを順に見遣って、最後にシンに目を留め、不思議そうに首を傾げた。


「あなたが来たということは、あの子――ヒイラギは、そこにいるの?」


 言われたキズナは、懐にしまった勾玉に、着物の上からそっと手をやる。


「はい。ここにいます」


 サクラも、確かめるように目を細める。


「きっとこれでよかったのだわ。あの子、見ていて辛そうだったから……。わたしも、あの子がここを制圧してから、少し窮屈だったの」


 天井を見上げ、上で何が起こったのか思いを馳せでもしたのだろうか。しばしそのまま、祈るような仕草をする。

 それから、シンに目をやった。


「後ろのあなた。名前は?」


 その、全てを見透かすような不思議な視線にたじろぎながら、シンは答える。


「……シン」


 彼女はその言葉を口の中で噛み締めるように、何度か呟いた。


「よい名ね。アオイがあの時連れて行った魂が、こんなに立派に育つなんて。世の中何が起こるかわからないわね」

「……あんた、何を言ってるんだ?」


 まったく、巫という連中は、思わせぶりなことを言ってきちんと説明しないようにできているのだろうか。シンがいささかの苛立ちを込めてサクラを睨むと、彼女は小さく頭を下げる。


「ごめんなさい。改めて名乗ります。わたしはサクラ。この死返玉まかるがえしのたまで、この場の結界と、黄泉への道を守っています。そして、ここに明確な目的を持って誰かが来るのを、待っていました」


 そう言って、彼女は顔の前に何かを掲げる。黒曜石のような輝きを放つ、小さな勾玉だった。


「アオイがあの時守った魂が、こうしてやってくるなんて。因果なものね」


 シンもキズナも、その言葉に怪訝な顔をするが、彼女は歌うように続ける。


「ああ、このことは、あなたも知らないのだったわね、キズナ。――あなたがここを離れている間のことよ」


 そう前置きして、サクラは昔を思い出すように目を閉じる。


「黄泉への道が閉ざされて以来、魂がこちらからあちらへ向かうことも、あちらから新しい魂がやってくることもなくなった。……そのはずだった。だけどある日、この岩戸の隙間から、新しくこの世に生まれてこようとする魂がやってきたことに気付いたの」


 サクラは黄泉への道を塞いでいるという大岩を、そっと撫でる。


「わたしたちは歓喜した。こんな世界にも、まだ生まれてこようとする魂があるのだと。この世に残っている魂は、何度もわたしたちの強制的な浄化による生まれ変わりを経て擦り減ってしまったけれど、そのどれよりも、強く輝く生きようとする力。その生命力の美しい輝きを、守らなければと思った。

 けれど、先細る資源リソースとにらめっこして、頑なに現状を維持することのみに固執する元老院に見つかったら、どんな扱いをされるかわからないと思った。だから、アオイは凍結保存されていた胚の一つにその魂を宿し、己の腹に隠して逃げた。――そうして生まれたのがあなたよ、シン。アオイはそのまま行方をくらませて、二度と戻って来ることはなかったけれど……あなたがこうして生きていてくれて、よかったわ」


 シンは驚愕に目を見開き、キズナたちも同じような顔でシンのことを見ていた。


「……そうか。巫に子供なんていないはずなのに、おかしいと思っていたけど、そういうこと……。結界の外で無事でいられたのも、その生命力の強さゆえだと……」


 キズナが呟く横で、シンは半ば混乱する頭を抱えて、今しがた言われた言葉を反芻していた。それが意味することは、アオイとシンに血の繋がりはないということだ。


「そんな顔をしないで。彼女はあなたを産み落とし、守ってきた。あなたの成長を最後まで見守れなかったことは心残りだったろうけれど、新しい生命を守ることができて、満足だったのだと思うわ」


 シンは地面に視線を落として、拳を握った。

 アオイは――母は、いつだって優しかった。悪いことをすれば厳しく叱られたけれど、寒い夜は抱きしめてくれたのだ。


「――さて、それで、以前から望んでいたように、あなたはこの岩戸を開けようというのね、キズナ?」

「……記憶を失くす前の前のわたしが何を思ってそうしようとしたのかは知らないわ。だけどわたしは、ユイを――そしてこの世界に残っている神々が嘆きに沈み、祟り神へと堕ちる前に、彼らを黄泉へ送る」


 キズナは毅然と顔を上げて、サクラを見た。サクラはその視線を受け止めると、腰に佩いていた太刀を抜き、その切っ先をキズナに向けた。


「わかったわ。だけど、わたしにもここを守るという約束があるの。わたしの神――天照大御神アマテラスオオミカミとの約束が」


 サクラは大岩をちらと振り向き、またキズナに向き直る。


「天照の御方おんかたは、この向こうにおられます。内側から岩戸を閉ざしたために。古き神話に、須佐之男命スサノオノミコトが天照の治める地を荒し、それを深く嘆いた天照が岩屋にこもってしまったというというのがあるわね。太陽を司る神である天照がお隠れになったことで、大地からも太陽が失われてしまったと。そこで、神々は宴を開いて、天照に岩戸を開かせようとした。その時と同じように、天照の御方が納得すれば、この岩戸は開くわ」


 サクラは刃を掲げ、キズナから目を逸らさない。


「さあ、舞いを捧げましょう。どちらかがたおれるまで!」

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