第五章 約束

還りゆく場所-1

 暗闇の中で、それは揺蕩たゆたっていた。人の子と過ごした時間は楽しくもあったが、やがて人間は世界の理を乱し、破壊していった。

 それを厭わしく思って、もうこのまま眠ってしまおうと思った。

 声が聞こえてきたのは、そんな時だった。


 ――失敗だ。

 ――契約していた神を失い、記憶も力も、一部しか継承していないとは。これでは使い物にならない。

 ――廃棄するか。早く次の準備を。


 そんな胸が悪くなるような声の中、か細い声が聞こえた。

 寒い。寂しい。心細い。怖い。誰か助けて。一人にしないで。

 それは、その声に応えることした。そして、この娘の幸せのために力を尽くそうと、自分自身に誓約を課した。




 シンたちはヒイラギの遺体を楽な姿勢にしてやり、部屋の隅に移動した。乱れた髪や着物を整え、祈りを捧げる。ヒイラギが持っていた二つの勾玉も回収した。

 そこまでやってから、ユイはようやくキズナから離れたようだが、


「ぐっ……ううっ……」


 その途端に身体を折り曲げて苦しみ始めた。その身体から、いつぞやと同じように、黒い靄が立ち上る。


「ユイ……ユイ……!」


 キズナが必死に名を呼ぶが、ユイが応える様子はない。その声が耳に届いているかどうかも怪しかった。

 だが、ユイは喘鳴を漏らしながら、ゆらりと顔を上げた。その瞳には、理性と狂気が交互に瞬いていた。


『月読……わしを斬れ……。わしがおまえたちを呑み込んでしまう前に……』


 だが、月読は束の間目を見開いて、そっとその顔を伏せる。


『断る。わたしもだいぶ神気が陰ってしまった。この場であなたを斬れば、わたしもどうなるかわからない』


 その言葉に、シンはごくりと唾を呑んだ。

 もし、彼らが祟り神になってしまったら、自分たちはどうなるのだろう。いや、それ以上に、ここまで共に旅をしてきた彼らが、そんな終わり方を迎えなければならないなんて、理不尽だと思った。だが、世界をこんなふうにして、彼らを望まない役目に縛り付けたのは、自分たち人間なのだ。それを思うと、胸の中に行き場のない怒りや悔恨が渦巻く。


『たとえこの世界に、滅びの道しか残されていないとしても……。わしは、お前に生きていてほしいのだ、キズナ……。生きてさえいれば……生きていてよかったと思える日が、きっとくるから……』


 ユイはキズナの頬にそっと手を伸ばそうとする。キズナもその手を取ろうとしたが、実体かするほどの力は残っていないのか、その手は互いにくうを切った。


「ユイ……! ユイ……!」


 キズナは幼子のように泣き叫ぶ。しかし、黒い靄はどんどんユイの身体を包み込み、その性質を変貌させようとしている。


 先日のように、笛で鎮めることはできないか。そう考えたシンは篠笛を取り出し、息を吹き込む。どうか静まってくれと、祈りを込めて。だが、先日と違って変化は訪れなかった。

 シンは焦る。そこへ、茫然としていたように見えたキズナが、自分の持っていた勾玉を掲げた。ユイの身体が、光の粒になって、その中に吸い込まれていく。

 その勾玉を愛おしそうに胸に抱きしめ、キズナは立ち上がる。


「……行くわ。地下よ、黄泉津比良坂の扉があるのは」


 上ってきた道を振り返る。


「わたしは、ユイを黄泉へ送る」




 シンたちは、上ってきた階段を、今度は駆け下りていく。橙色の薄明りのみが灯る道は、来た時よりも暗く感じた。


 今は昼だろうか、夜だろうか。窓もない閉ざされた空間にいると、だんだんと時間の感覚がなくなってくる。この建物に入ってから、とても長い時間を過ごした気がするが、体感に反して実際はまだ短い時間しか経っていないのかもしれない。下りていく階段の先にある暗がりが、自分たちを呑み込もうとしているように感じられた。

 必死に足を動かし続けるが、いつまでも果てがないように思える。この先に行って、自分たちはどうなるのだろう。


 とりとめのない思考に捕らわれようとしている自分に気が付いて、シンはぶるぶると首を横に振った。疲労と、この薄暗い閉鎖的な空間が、思考を鈍らせているのだ。気を付けろと自分を叱咤する。


 やがて、一階に戻り、そのまま地下へと足を踏み入れた。そのまま一階分ほど下ると、目の前に両開きの扉が現れた。シンたちはそこで立ち止まり、息を整える。

 これがキズナの言っている、黄泉津比良坂の扉だろうか。思ったより呆気ない。体感では長い道のりだったような気がするが、実際は大したことはなかったのかもしれない。だが、足は重い。


 一体何が起こるのだろうと身構えるが、キズナは何の躊躇いもなく、その扉に手をかける。軽く押すと、大した抵抗もなく、あっさりとその扉は開いた。

 シンは思わずあっと声を上げたが、その先には更に下へと向かう階段が続いているのが見えた。湿った土の匂いが漂ってくる。

 そんなシンを、キズナは静かな表情で振り返った。


「まだ先は長いわ。バテないでよ」

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