第四章 散歌

せめて、人間らしく-1

 キズナの姿が砂煙の向こうに見えなくなっても、シンは茫然と立ち尽くしていた。

 頭が回らなかった。否、シンは思考を半ば放棄していた。

 何を感じて、どう行動すればいいのかわからない。そうしているうちに、時間だけが無常に過ぎていった。


 ハヤテはそんなシンに心配そうな目を向けていたが、つついたり顔をすり寄せても反応が乏しいことに飽きたのか、シンから離れて水辺に行き、そこに生えていた草を食み始めた。

 それを見たら、急に自分も空腹を自覚した。それに、ひどく疲れている気がした。考えてみれば当然だ。昨晩はろくに眠らずに動いていたし、神をこの身に宿して戦うなんて離れ業もやってのけたのだ。


 とりあえず、何か腹に入れよう。そう思って、ハヤテに倣って流れる水に口を付け、荷物から馴染みに携帯食を取り出す。慣れた味で、大して美味いと感じたことはなかったはずなのに、今はそれがどんな食事よりもおいしく感じられた。目の奥がつんと熱くなる。


 こんなに色々あった後でも身体は生きようとしていることを感じて、なんだか滑稽に思った。それでも、いつか終わりを迎えるまで、生き続けるしかないのか。どうやって。何を思って。


『生きているものは、いずれ例外なく死を迎える。それが、この世ができたときから

の理だろう』


 不意に声がして、月読が傍らに顕現していた。


「……あんた、寝てたんじゃなかったのかよ」


 しかも、思考を読まれていたような物言いをされた。そんなこともできるのか。


『わたしとそなたは一度同調しただろう。自然とそうなってしまうのだ。そうでなくても、我らは人の声や思いを聞きやすいようにできているからな』


 事もなげに言う月読は、しかしやはりどこか疲れているように見えた。


「……なあ、あんたも祟り神になっちまうかもしれないって、本当なのか?」


 それを確かめるのは怖くもあった。自分と共にいるこの神が、ある日豹変してしまったら、シンにはもうどうすることもできない。それに、神々はこの荒廃した地上から去ろうとしていたところを、人の手によって無理矢理繋ぎ止められている状態なのだ。そうであるなら、


「あんたたちは……人間を恨んでいるのか?」


 人間は身勝手な生き物だ。願いや欲望は、文明を前に推し進めた一面もあるが、その行き過ぎた結果が、今の地上の姿なのだ。もしもこの星に意思があったら、人間は不要な存在とされているかもしれない。


『さてなあ。そのような気性の激しい神もいるが、わたしはそうは思わん。人の子あっての我らだからな。人の祈りがなければ、我らは存在できぬ。実際、わたしもお前に会えなければあのまま消えるか、祟り神になっていたからな』


 月読は、特に何の感慨もないふうに静かに言う。


『何が起きても、それが運命というものだろうよ。あとは静かに受け入れるだけだ』


 そう言って、感情の読めない瞳で空を見上げる。そこには、いつもと変わらない、灰色の雲に覆われた空が広がっていた。見えないけれど、あの向こうに青い空や、太陽や月もあるのだろうか。


「あんたは、黄泉比良坂ヨモツヒラサカの扉を開けることに、賛成なのか?」


 そういえば、出会った時に言っていた。これは、アオイとの約束だというようなことを。


『そうさな……。どちらでも、お前たちの好いようにすればいい。そこに善も悪もない。あやつらも、自分らの行いが正義だなどと思ってはおらぬよ。だが、あの方は人をいささか人を愛しすぎているきらいがある。今いる人の子をわずかでも生き永らえさせるか、黄泉比良坂の扉を開いて、多くの魂を救う賭けをするか、心を痛めておられる。だからこそ、あのキズナという娘は、あの方が祟り神になる前に黄泉へ送ると、それに固執してしまっているのだろうが』


 そういえば、気になっていたことがあった。キズナは自分と共にいるあの神に「ユイ」と名を与えたと言っていたが、月読命は誰が付けなくても、名を持っていた。それに、「あの方」と恭しく読んでいる。これは一体どういうことだろう。


「あの神は、何者なんだ?」


 問うと、月読は少し考えるようにしてから、重々しく口を開く。


『あの方は、水蛭子ヒルコだ』

「水蛭子……?」

『我らが父なる男神と母なる女神が交わって生まれた、最初の子。しかし、足腰が立たず、男か女かも曖昧で、役に立たないものとして流されてしまった』


 だが、その子はどこかの浜に流れ着き、そこで人々の祈りと信仰を得て、幸福をもたらす七柱の神の一柱として数えられるまで力を付けたこともあった。


『水蛭子というのも、あまりよい名ではないと思ったのだろう。だから、あの娘は自分で付けた名で呼んでいる。そうした来歴もあって、あの方は人にことさら肩入れしてしまう。わたしから見ても、心配になるくらいに』

「……」


 シンは、じっと押し黙って地面を見つめ、その話が胸に染み込むまで考えた。

 人には、それぞれ大事なものがあるのだろう。キズナは、自分の大事なものを守ろうとしている。では、シンの大事なものはなんだろう。

 旅をして、色々な人と出会ってきた。少ししか関わることはなかったが、気の好い人が多くて――もちろん、そうでない人間も中にはいたが、だから、たくさんの人に出会うのも悪くないと思って旅をしてきた。どこも同じような砂塵を枯れた森ばかりに見えるが、そんな中でも知らない景色があり、美しいと思えるものがあった。


 そんな人たちが怨念と成り果て、生きるものを呪い、美しいものを美しいと思えなくなってしまうのは、悲しいことだと思う。


『このまま座して死を待ち、呪いを振りまく歪んだ魂となってこの世を彷徨うか、黄泉へと下り、正しき死を迎えるか……。真実を知ったお前は、選ぶことができる』


 言うだけ言って、月読は気だるそうにして、再び笛の中に姿を消した。やはり、力が衰えているのかもしれない。

 短い間しか共に行動していないが、彼らが人を呪う存在に転じるところは見たくないと思った。では、どうするのが最善なのか。


 考えようとするが、眠気が襲ってきて上手く思考がまとまらない。まだ明るいが、少し眠ろうと、シンは毛布を引っ張り出して横になった。

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