迷い人-3
「……状況終了」
キズナは吐息と共に吐き出すように言うと、呆然とするシンたちをよそに、しゃがんでカイに目線を合わせる。
「鬼は退治したわ。大丈夫? ほら、立って」
キズナは今、「鬼を退治した」と言った。やはり、あれが鬼だったのか。
しかし、カイは怯えてへたり込んだまま、差し出された手を取ることができずにいた。キズナがにこりともせず、疲れたような目でじっとカイを見ていたことも、彼が安心を得られない原因だと思われる。キズナのそれは、およそ怯える子供に対する態度ではない。最初の集落で猫を被っていたのとはえらく違うなと、シンは思った。
キズナはまた一つ息を吐くと、その場で一部始終を見ていたアサヒと、追いついてきたヨツユを呼ぶ。
「この子をお願い」
「はい」
「かしこまりました」
二人はカイの手を取って立たせ、結界の縁から離れさせる。そして、キズナは再び先程鬼を斬った場所に、じっと視線を注ぐ。
結界のその箇所は、先程の闇が染み込んだように暗く澱み、ゆらゆらと頼りなく揺らめいていた。これまで見てきた綻びとは、様子が違う。あそこから、また何かが出てきそうだ。
不穏なものを感じ、シンがその暗がりから目を離せずにいると、不意にキズナがシンを呼んだ。
「シン」
キズナは首を回して、シンを見遣る。
「やるわよ。笛を吹いて」
有無を言わせない口調だった。
「ここで? ご神体の側じゃなくていいのか?」
いつも、舞と笛を捧げるのは、ご神体の前でだった。そうでないと効果がないのだと思っていたが。
「時間がないの。まだ救える魂があるかもしれない。清めに必要なのは、祈りの深さよ。わかったらさっさとやって」
キズナは既に右手に扇を広げて、構えている。その背には、一片の迷いもないようだ。シンはその立ち姿を、柄にもなく美しいと思ってしまった。
気圧されるようにして、シンは笛を取り出して、唄口に唇をあてがう。息を吹き込んで、いつものように旋律を奏でる。
しかし、ふと自分は何をしているのだろうという思いがよぎる。母の言葉を信じてきた。この世界は、不思議な力で守られているのだと思っていた。
だが、本当にそんなことがあるのか。キズナの言うことはどこか意味深だが、ろくに考えてみればろくに説明もされていない。かつて人類は、常識を疑い、真実を探求し、新たな知見を得ることで、文明を前に進めてきたというではないか。それを忘れ、正体のわからないものを信じてきた自分は、とんでもない愚か者なのではないか。
そんなことを考えていると、ゆっくりと舞を舞っていたキズナの動きがぴたりと止まる。
「何やってるのよ」
「は?」
突然厳しい口調で咎められて、シンは憮然となる。
「音に迷いがあるわね。何を考えているの。そんなんじゃ、結界の修復ができないじゃない」
「んなこと言われたって……」
いつも通りに吹いているつもりだった。それでも、考えていることは音に現れるのだろうか。しかし、この笛に力があって、奏でる音は何でもいいというわけではないのか。
その時、白蛇がキズナの襟元からひょっこりと顔を出し、シンの前にすとんと降りる。
『小僧、わしらの力となるのは、祈りと信心だ。それと、生きたいと願う心かの。この先、どんな局面でもだ。ゆめゆめ、それを忘れるでないぞ』
そして、今度はカイの足元にしゅるしゅると這っていく。
『
白蛇の言葉は、特定の人間にしか聞こえないようだが、カイには聞こえているのだろうか。レキには聞こえていないのか、わけがわからないといった様子で首を傾げている。
カイは言葉を発する蛇に驚きつつも、その言葉を幼い胸に落とし込もうとしているようだった。
やがて、目に涙を浮かべながらも、彼なりに納得したのか、小さく頷く。
『よい。強い子だのう』
白蛇は、慈愛に満ちた顔で微笑んだように見えた。そしてキズナの元に戻り、その腕に抱えられる。
『そら、小僧も気を取り直して、早うやるべきことを終わらせるぞ』
「……わかったよ」
シンは一つ舌打ちを漏らし、笛を構え直す。キズナも結界に向き直ると、再び舞い始めた。シンも一旦、物思いに沈むことをやめた。
先程の白蛇の言葉が胸に浮かぶ。誰にも思い出されなくなった時、その人間は本当の死を迎える。ならば、シンが覚えている限り、母も一緒に生きていてくれるのだろうか。シンは母との日々に思いを馳せながら、彼女が奏でていた旋律を奏でた。
「ひふみよい、むなやここのたり――、ふるべ、ゆらゆらとふるべ――」
舞いながら、キズナは不思議な響きの言葉を繰り返す。いつもの舞と共に歌っているのとは違う、先日の集落の儀式で聞いた言葉だった。
確か、赤子が健康に生まれるようにというお祈りだと言っていた。それを、何故この場で唱えているのだろう。そして、彼女の左手には、いつの間にかこれも先日の集落での儀式で見た、小さな鏡があった。キズナが身体を回転させる度、鏡が弱い光をきらりと反射する。
やがて、柔らかな光が生まれ、それが結界に生じた闇を包み、払っていったのだった。
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