第二章 鎮魂

旅路は遠く-1

 旅の中で、一番神経を遣うのは水と食料の確保である。道中では食べ物はほとんど手に入らないと思っていい。あっても木の実が少しでも生っていれば御の字といったところで、計画性のなさは死を招く。水が割とどこでも手に入るのは、奇跡と言えた。


 人は、飲まず食わずでどのくらい生きられるのか。およそ四、五日程度が限界だと、シンは聞いたことがある。人体の約六割は水分であり、それは代謝で絶えず失われていく。水が全く確保できない状況は、飢餓よりも深刻に生命の危機に直結するのだ。


 幸い、ご神体の側には、必ずと言っていいほど川や湧き水があるので、干からびて死ぬ可能性は低い。


 では、水が確保できて、食べ物がない場合は?


 不思議なもので、人間は水さえあれば、食べ物がなくても三週間以上は生存可能らしい。しかし、その「三週間は生存可能」というのが、ひもじくても歩くことくらいはできるということなのか、それとも息をして心臓は動いていても、自力で動くことは不可能という状態なのか、シンは知らない。

 かつては集落の外も、巫や旅人が多く行き交っていたと聞くが、シンは一人で旅をするようになって数年間、道中で人に会ったのはキズナたちが初めてだった。それくらい、旅は危険で過酷で、わざわざ安全と安定を捨てて集落を出ようというもの好きは、昨今稀少な人種なのだった。

 

 つまり、動けなくなったら救助は見込めない。


 そうなったらそうなったで運がなかったと諦めるしかないのかもしれないが、できればそのような状況はご免被りたい。


 そして、シンは自分とキズナたちの持つ食料を広げて、眉を寄せて唸っていた。

 彼女たちと旅を初めて十日ほどが過ぎた。手持ちの食料は、心許なくなってきていた。

 その理由は至極簡単で、補給の当てが外れたのである。

 


 「こちらから勾玉の反応がある」とキズナが言うので、一行は西へ向かっていた。この辺りは近年見た中でも比較的結界が残っているようで、向かう方向にいくつか選択肢があったのだが、キズナは迷わず一つの方向へ向かった。数年前の記録では、そちらに小さな集落が一つあるようだったので、そこで食料も分けてもらうつもりだった。

 だが、シンはその進路に一抹の不安を覚えた。こういう他からより離れた集落は、数年後には行けなくなっていることが多い。そこへ至る道がなくなっているか、あるいは集落自体がなくなっている。そして、シンの経験が告げた悪い予感は、的中したのだった。



 そろそろ集落のあるはずの場所に差し掛かるという時、先頭を歩いていたキズナが、ぴたりと足を止めた。


「……結界がないわ」


 ぼそりと呟かれた声に、シンも足を止めて目を凝らす。結界は目には見えないものだと思っていたが、キズナ言われて意識するようになってから、シンにもそれが薄い光の膜のようなものとして認識できるようになっていた。


 何歩か先まで、彼らの周囲はその光でうっすら覆われ、地面にも所々ではあるが、青々とした草が生えている。しかし、その先は明確に境界線を引かれたように、草木は黒く枯れて項垂れ、見るからに不吉な雰囲気を漂わせている。


『うむ。これは難儀だの』


 キズナの襟元から顔を出した白蛇が、どこかのんびりした口調で言う。


「反応は、この先からなのに……」


 キズナは予定の進路が取れないことに歯噛みしているようだが、シンの懸念はもっと現実的かつ、生命維持に直結するものだった。

 この先の集落で補給をする予定だった。その当てが外れたということは、早急に別の手段を講じなければ、やってくるのは飢え死にの危機だ。


 目的の方向には少し戻って迂回する道があったので、一行はそちらに期待することにした。幸い、ご神体を発見し、ちょうど暗くなってくる頃合いでもあったので、そこで火を熾し、野営の準備をする。もちろん、ここまでもご神体の前で舞い、笛を奏でるのを怠ってはいない。


 そして、シンは食料の残量とにらめっこしているのだった。


「……これからどうする?」


 シンが食料から視線を上げてキズナに問うと、


「どうもこうも、この先に行く道を探すに決まってるでしょう」


 当然のように言うが、シンが言いたいのはそういうことではない。


「そうじゃない。俺たちは食わなきゃ生きていけない。でも、その食料を手に入れる当てがないし、一番近くの集落に戻るのだって何日もかかる。このまま進むのは自殺行為だって言ってんだ」


 この先の集落に行き着く道が消滅しただけなのか、それとも集落ごとなくなってしまったのかはわからない。だがどちらにせよ、このまま進んで食料が手に入らなかった時の絶望は、きっと計り知れない。


 食料を安定して生産するには、人手と土地がいる。しかし、日が差さず、一年を通して気温が低いこの世界では、植物も家畜も有り余るほど育つことはない。人々は、日々を食い繋ぐので精一杯なのだ。

 それでもシンやキズナのような外からの人間に食料を分けてくれるのは、外からもたらされる物資や、巫の清めの儀式が集落の人々にとって重要だということの証左だった。それでも、自分たちが飢える危険を冒してまで、他人に食料を分けることはできないから、当然何日も十分に食べていけるほどの量は手に入らない。


 道中も念のため節約してきたが、十代の成長期の彼らには到底満足のいく量ではない。

 シンは余裕があるうちに戻って補給をするべきだと主張し、キズナはこのまま進むと言って譲らない。


 睨み合う両者に、アサヒとヨツユが出来立ての粥の入った椀を差し出した。この粥も、日に日に水分が増えて薄くなっている。


 ともかく、腹が減っては何とやらだ。空腹は人を苛立たせる。


 二人は差し出された椀を受け取って食事にとりかかろうとするが、違和感に気付いた。

 シンの椀の中身はいつもどおりだが、アサヒとヨツユの分の量が少ない。そして、キズナの分が一番多くなっていた。


 忠義者と言うべきか、とシンが横目で見ていると、キズナは二人の前に自分の椀を突き返し、厳しい口調で言った。


「こういうことはしないで。あなたたちだって、食べないともたないわよ。自分の分はしっかり食べなさい」


 アサヒとヨツユは一瞬目を丸くして、顔を見合わせた。


「……申し訳ありません。出過ぎたことを……」

「では、ありがたく頂戴します」


 彼女たちは椀の中身を分け直し、食事に取り掛かる。


 キズナも旅の厳しさはわきまえているようだった。食料の分配で揉め事が起きなくて、そしてキズナがこれまでの言動から想像していたような、聞き分けのないお嬢様でなくて、シンは心底安堵した。

 少ない粥をゆっくり食べて、腹が温まると多少気分もましになってきた。

 キズナは、先程よりも少し明るい声を出す。


「食料なら、なんとかなるわよ。ほら、あそこの茂み、食べられそうな実が成ってない?」


 ここのご神体は、大岩に注連縄が巻かれていて、周辺には苔や草花が群生していた。明るくなってからよく探せば、多少は食料が確保できるかもしれない。

 あまり思い詰めても仕方がない。考えなしは論外だが、ある程度の楽観も必要だろう。


 シンもそう思った時、キズナの指さした茂みが、がさりと音を立てた。

 アサヒとヨツユがキズナを守るように前に立ち、キズナも小太刀の柄に手をかける。シンはハヤテの手綱を握って、いつでも走り出せるように腰を浮かせた。

 頬に冷や汗が流れる。一体何がいる。闇の中を蠢くもの。シンはその目で見たことはないが、鬼か。しかし、ここは結界の内側だ。では、何だ。

 緊張を走らせた一行の前に、再び茂みを揺らして飛び出したものは、


「……鶏?」


 それは、全体を白い羽に覆われ、ふさふさした尾羽に赤い鶏冠とさかを持った、卵を産み、肉は食用にされる家畜だった。

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