第一章 結界

舞と笛-1

 今日もだいぶ歩いた。ここで一休みさせてもらおう。

 少年は、木陰にぽつんと置かれた小さな道祖神に手を合わせる。


「この地にします守り神よ、ひととき、ここで憩うことをお許しください」


 そして、腰に下げた細長い袋の中から、使い込まれた篠笛を取り出し、そっと息を吹き込む。奏でられるのは、ゆったりとした旋律の、澄んだ音色だった。それが静寂に満ちた空間に響いていくと、埃っぽい空気が浄化されるようだった。笛には赤い紐が結わえられ、その先に括りつけられた空色の小さな勾玉が、とろりと光を反射する。


 ご神体の前では、こうやって祈りを捧げるのが決まりだった。そうすることで、神様の力が増し、結界が維持されていく。人間は神様に生かされているのだから、祈りと信心を欠かしてはならないと、少年――シンは、母に訥々とつとつと言い聞かされてきたのだ。


 短い一曲を吹き終えると、シンは連れている褐色の体毛を持つ騾馬らばの手綱を引いて、傍らを流れる小川まで導いていく。そして、繋いであった荷物を下ろし、水を飲ませてやった。この荷物には、水や食料の他、道中で拾った様々なものが詰め込まれており、かなりの重量があった。だが、馬力も体力もあるこの相棒なら、苦にしていないはずだ。


 水を十分に飲むと、騾馬はそこに生えている種類のよくわからない草を食べ始める。このずんぐりした、けれど愛嬌のある顔をした生き物は、シンが子供の頃から一緒に旅をしている相棒だった。

 シンも地面に腰を下ろして、背負っていた荷物の中から竹の水筒を取り出し、喉を潤す。水と食料は騾馬に括りつけた荷の中にもあるが、いざという時のために、最低限は自分の手元にある。


 傍らには清らかな水を湛えた小川が流れており、そこで空になった水筒に水を詰め直す。携帯食を出して自分も腹ごしらえを始めた。

 雑穀と木の実を混ぜて焼き固めた携帯食は日持ちがして、だいたいどこでも手に入るので、旅の食事はもっぱらこれだった。ほんの申し訳程度に、干した果物の切れ端が入っていて、ほのかな甘みが歩き続けた身体に沁みるが、基本的には硬くてパサパサした食べ物なので、正直美味くはない。しかし、贅沢は言っていられないのだった。


 もそもそと携帯食をかじりながら、シンはもう一度荷物を漁ると、二枚の紙と黒鉛を取り出した。荷物を下敷きにして、器用に白い部分が目立つ方の紙に今日歩いてきた道のりを記録する。そして、もう一枚のやや古びた方の紙と比べた。こちらは先人の誰かが世界を歩いて作った地図だ。こちらを参考にして歩きつつ、情報を更新して、彼はこの世界の地図を作っているのだった。シンは十一の頃に母と別れてからもう六年ほど、遺された騾馬のハヤテと篠笛と一緒に、こんな生活をしていた。


 ざらざらした紙は随所で黒鉛をがりりと引っかけ、思うように線が引けないが、文句を言っても仕方がない。こんな紙でも、あるだけで貴重なのだ。

 精密な地図を書くことはできないが、影が落ちる方向と長さで、おおよそ歩いてきた距離と方角は把握できる。それと記憶を頼りに地形や道順を書き記していく。空はいつも厚い灰色の雲に覆われているが、影の方向や長さで、大まかな時間と方角を掴んでいるのだった。


 空には太陽という巨大な熱源があって、この大地をあまねく照らしているということは、知識としては知っている。だが、シンは太陽の光というものを生まれてこのかた拝んだことがない。

 人類の繁栄が終わりを迎えた頃、太陽の女神が、この大地が穢れてしまったことを深く嘆き、岩戸の向こうにお隠れになって以来、ずっとこんな空が続いているのだという。それがどれくらい昔のことなのか、シンは知らない。正確な記録を残す術も、それを伝えていけるほどの人口も、人類は失って久しい。


 シンは空を見上げ、もう一度笛を取り出し、勾玉をかざしてみた。

 磨かれた緩やかな曲線を描く勾玉は、淡い青色をしている。雲のない空は、この玉と同じ色に澄み渡っていて、だからこれを空色というらしいが、もちろんシンはそれを見たことはない。

 この色が広がった空はどんな光景だろうと思いを馳せるが、どうも想像できない。


 そんなことを考えていると、冷たい風に煽られた赤銅色の髪が茶色の瞳にかかり、煩わしそうに手で押さえた。

 日が暮れるまでは、もう少し時間がありそうだ。夜になる前に、次のご神体のところまで着いておきたい。


 ご神体はだいたい一定の間隔で設置されているから、今から休まずに歩けば、次のご神体の場所へ着くはずだ。記録によれば、その次の地点には集落がある。明日はそこまで行きたい。


 書き終えた紙と黒鉛をしまい、シンはよいしょと腰を上げた。

 しかし、短い休息を終える前に、ふと地面に目を落とすと、


「お、これは使えるかな」


 小さな図鑑を取り出し、そこに生えていた草と見比べる。薬効のある植物のようだ。この図鑑も、旧世界から遺された貴重なものだった。シンは少しだけ分けてくださいと、胸中でその場の神に断りながら、その草を摘み取った。こうやって使えそうなものを探して運ぶのも、彼の生業だった。


 行こうとする先も、今まで来た道も、荒涼として彼以外に人の気配はない。あるのは、黒く枯れたような木立や岩場、それに砂塵に覆われ崩れた廃墟。ご神体を起点として結界が形成され、その内側にだけ、草花が芽吹き、水が清められている。結界の外は瘴気に覆われ、鬼が徘徊すると言われる、生命の存在できない世界だった。


 度重なる戦争や、疫病の蔓延、天災などにより、地上は生き物の住めない場所になり果ててしまった。残されたのは、厚い雲に覆われた鈍色にびいろの空と乾いた大地。災厄の中をかろうじて生き残った人々は、結界に守られたわずかな土地で、細々と生活しているのだった。

 しかし、それでもしぶとく生きているのだから、自分も含めて人間というものは逞しいものだと思う。


「行こうか、ハヤテ」


 シンは休憩を終わりにし、満腹になってくつろいでいた騾馬の手綱を取って、再び歩き出した。

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