虚空の彼方へ

月代零

序章

「――さあ、生き延びたくば走りなさい。連れて行けるのは、己の身体ただ一つ……」


 そう言って、母はすらりと刀を抜き放った。曇り一つない刀身は、灰色の空から差す弱い光の中でも、美しく輝いた。


「母さん!」


 少年は、母を呼んで叫ぶ。しかし、母は一度だけ振り向いて微笑むと、少年の乗った騾馬らばの尻を叩いた。

 騾馬は軽くいなないて、その逞しい脚で砂塵を巻き上げながら駆け出した。


「行きなさい。あなたは生きるのよ」


 それだけ言うと、彼女は逃げ惑う人々の流れに逆らって走り出す。どんどん遠ざかっていくその背中。

 逃げ遅れて瘴気に捕まった住人たちの身体は灰となって崩れていく。視界の悪い中で、抜身の刀が反射する光が微かに彼女の位置を視認させるが、やがてそれもわからなくなった。


 それが、少年が母の姿を見た最後だった。

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