後編

「僕、ずっと死にたかったんです」


 二人にそう告げたとき、電車が少し揺れた。微動だにしない黒服に対して、男は少し深呼吸をしたようにみえた。


「そういうことだろうと思った。話してみな、全部。まだ到着まで時間はあるんだろう?」

「ええ、まだ三途の川にすら着いてないですからね。思う存分お話しなさってください。その方がいい体験になります」そう言って黒服はバインダーをしまって外を眺め始めた。


 僕が話すことを頭でまとめていると、僕たちの話を聞いていた学生二人が、目の前で突然立ち上がり、違う車両に消えていった。

 男は「気を遣ってくれたんだろ」と言って僕を座らせ、その後で自分も腰掛けた。黒服は相変わらず明後日の方向を向いていた。


 僕が人間を嫌いなこと、純粋な妖に憧れたこと、死生観についてできるだけ細かく話した。男は時折悲しそうな表情になった気がしたが、最後まで何も言わずに聞いてくれた。


「まず、これだけははっきりさせよう。黒服の兄ちゃん、妖ってのは、ホントにいるのかい」


 上目遣いで尋ねる男に、黒服はゆっくりとこちらを向いて答えた。


「お答えできません、という返答が限界ですね。今回の体験の中に、その情報の提供は含まれていない、といえばより正確ですか」


 僕は思わず、えっ、と声を漏らした。死後の世界や幽霊なるものがあるのなら、それに付随して妖もいるのではないのか。全部が全部いなくても、何体かは本当にいるのではないのか。


「あんたの憧れは、存在も不確かなんだってよ。これは俺もそんな気がしてた。それよりも、だ。一番大事なところを聞き忘れてるぜ」


 まだ悲しみから立ち直れないでいる僕に、男は僕の目を見て言った。


「死後の世界と、幽霊という概念が存在するとわかった途端死のうと思うほどに、あんたを苦しめているものはなんだ。何が、そんなにあんたを苦しめてる」


 僕はそう言われて少し立ち直った。そうだ、妖がいなくても、幽霊はいる。死後にも、意識や魂は存在している。なら僕は死を怖がらなくてもいいんだ。


「全てが、楽しめなくなっちゃって」

 僕はそう言って、再び男に身のうちをさらけ出した。男は表情豊かに僕の話に耳を傾けた。


「夢なんて元々なかったんです。だからその時々でいいと思う進路を選び続けていました。将来的に給料がいい方、食いっぱぐれなさそうな方、周りから進められる方、といった感じで。今の職場もそうやって決めました。自分の意思がなかったので、周りや世間に決定を委ねていたんです。

 でもこういう人も多いと思います。誰も彼もが夢や希望を持っているわけではありませんから。そういう人たちは、きっと生きがいや恐怖みたいなものを見つけて、その為にやりたくないことも頑張るんです。それが家族なのか、好きなことなのか、不安なのかは人それぞれだと思いますが」


「確かに、俺は生活苦になりたくない、が頑張れるきっかけだったな。いつの間にかそれが家族になっていたわけだが」

 自分で口にした途端、男はハッとしたようだった。彼は、人間が苦手なのだ。自分とは違い、周りの人間全員が恐怖の対象であって、寄りかかれるものではない。俺や黒服のこともそうなのだろう。そしてきっと、彼の家族だって。


「好きなこともなかったんですか? 夢なんていうたいそうなものがなくても、人間は趣味や娯楽に溢れているものだと思っていましたが」つり革をゆらしながら首をかしげて黒服が言った。


「好きなことは、ありました。音楽が好きで、聞くのも歌うのも好きでした」

「いいじゃねえか。立派な趣味だ」男が感心した表情で言った。

「ありがとうございます。好きなアーティストとかの新曲が、自分の生きがいだったりもして、いつでも音楽とは一緒でした。楽器を弾けるようになりたくて、大学では軽音サークルに入ってましたし―――まあ結局入ってみたら実態が全く違ったのですぐに辞めましたけど」そう言うと男は控えめな笑みを浮かべた。


「しかしその”好き”では塗り替えられないほど、”辛い”が勝ったと」

 今まで黒服が話した中で、一番冷め切った声が響き渡った。何秒か、静寂が響き渡った。


「そう―――ですね。というより、自分に限界を感じたんです。好きこそものの上手なれ、というのは本当で、そのまた逆も然りなんだってことを知りました。僕は嫌いなことでもある程度できるようになれるほど、器用じゃなかったんです」

「まあ、その分野を好きで極めようとしてるやつには勝てないわな。俺もそれは実感したことがある」

「勝てないくらいならいいんです。元より勝てると思っていませんし―――問題は手に着かなくなったことです。文字通り限界が来たんです。分からないし、できないんです。どれだけ頑張っても、僕は最低限のことすらできなくなりました」


 頑張る、という言葉が二人には引っかかった。同じ台詞を調子のいい人間が言って来ようものなら、本当に頑張ったのか、どう頑張ったのか、ちゃんと考えたのか、と問い詰めて叱る人もいるだろう。


 しかし目の前にいる人間はどうだろう。考えていること、話す内容、全てに対して真面目さが溢れている。こんな人間が、中途半端な努力を他人にさらけ出すだろうか。心身共にすり減らすほどの努力をしたからこそ、こんなことが言えるのではないだろうか。そう二人は考えた。


「それでもしばらくはやれたんです。でも―――我慢は、長くは続きませんね。こんなことが続くなら、死んでしまいたいと、一瞬頭によぎりました。大学生の頃だったっけな。一度よぎると、もう止まりませんでした。好きなことも、こうなると無力でした」


 男も黒服も気付いていた。彼の目は、男を含めた電車内の死者達と似通っていた。二人は彼が現世に対して全く執着がないことを悟った。


「あんた―――素人の俺が勝手にこんなこというもんじゃないけどよ、きっとそれは鬱だぜ。しかも相当重度にみえる」

「しかし人が苦手、となるとカウンセリングも意味をなさないかもしれませんね。なんなら逆効果かもしれません。望める期待としては、投薬くらいでしょうか」

「薬で心が楽になるのか、なんか危なそうだが」淡々と言葉を並べる黒服に男が尋ねる。

「いえ、効果としてはとても良い結果が出るそうですよ。私の知っている範囲では、鬱などの一部の精神疾患は脳内の物質が足りないことから起こるのだそうです。その物質を増やすか補完するかしているのでしょうね。それだけで大分楽になるそうです。まあ、個人差はあるでしょうけどね」


 そう言うと黒服は、もちろん副作用もあるらしいですけど、と付け加えた。僕がネット上で調べたことがあるような内容だ。やはり然るべき病院にかかるべきだったのだろうか。


「でもよ、それで良くなるのは疾患の部分だろ、考え方じゃあない。こいつは―――もっと深くて難しいところが問題なんじゃあねえのか」

 黒服はお手上げのポーズを取った。私は一案内人なので、専門家ではないので、とでも言いたげだ。


「まあ専門的なことを話しても無駄だ、ここに専門家はいない。俺たちと話をしよう。死者でも人間だ。好きにはなれないだろうが、死んだ奴と話せるなんて滅多にないぜ」


 確かにそうだ。ここにいる人たちは、元人間だ。正直苦手意識は消えない。それでも、一度死を体験した人間は、今まであってきた人間とは何かが違うかもしれない。

「はい、お願いします。大丈夫です。頑張ります」


「まずあんた、生きてていい気分になることはあるか? うまい飯を食ったときとか、雨が突然上がった時とか、目の前で信号が青になったりとか。どれだけ些細なことでもいい。あんたの心に、まだ幸せを感じる機能が残ってるかが知りたい」


 男にそう問われて、僕はうつむいた。どうだろうか。僕は頭を巡らせた。日常で感じる小さな幸せ。どこにでもありふれているはずのものだ。


「ある、と思います。思い出せないですけど、きっと僕はまだそれらで喜べる気がします。忘れちゃったり、気付けていないだけなのかもしれません」

「そりゃあ、きっとそれらが黒い感情に押しつぶされちまってるのかもしれないな」男も僕と同じように少しうつむいた。

「けど良かった。まだ心は死んでないな。呼吸は浅く、小さくなってるかもだが、確かに機能はしてる。いいか、今から言うことをよく覚えておくんだ」


 再び顔を上げながら、男は僕の方に顔を向け、僕の頬を両手で挟んだ。僕の顔は、強制的に、それでいて優しく男の目に向けられた。そこには光はなくても、強い力があるように思えた。


「生きてりゃ辛いことだらけだろう。だけどな、その幸せを感じられるのも、生きているときだけなんだ。辛さの方が多く、強く記憶に残るものかもしれないが、絶対にどっちか片方だけの人生なんてのは存在しない。辛さがあれば、幸せもある。その幸せを、俺はあんたに、少しでも多く感じて欲しい」

「どうしてですか、それなら生きていなくてもいいはずだ。あんな世界で、生きていかなくても良いはずじゃないですか。どんな幸せも、それを上回るもので感じられなくなってしまったら元も子もないじゃないですか」


 男は黙って僕を見ながら、少し黒服の方を睨んだ。黒服は、黙って立ち尽くしていた。男は僕の頬から手を離し、微笑みながら続けた。


「すまねえなあ。妖に引き続き、こんなことまであんたに言いたいわけではなかったんだ。ただ、今のあんたを、あっちの世界にとどめておくには、これを伝えなきゃあいけない気がするんだ」そう言うと男は一呼吸おいて、再び優しい声で告げた。

「この電車、黒服の兄ちゃん、そして俺たち死者。これは全部あんたが作り上げたものなんだ。これはな、あんたの夢なんだ。二つの意味でな」


 僕の頭は、思考を止めたがっていた。今聞いたことを、理解したくなかった。


「でも、こんな、ここまで鮮明なものなんて見たこと無いです。もっと混沌としたもののはずだ。現実でないにしても、そんな、夢で終わるようなもののはずが」

「強く、望んだのでしょう? この状況を。貴方にとっては信じたい事実です。何度も何度も想像したのでしょうね。ただし、その想像を、貴方の中の貴方が止めたのです」


 僕は、涙を流していた。表情には変化はなくとも、目から溢れるものは止められなかった。


「私も、彼も、貴方の一部なのですよ。これを心に刻んでください。死にたい、死後の世界があればすぐにでもそっちに行きたい。そう思い続けた貴方の中に、それは幻想だからよせ、現実の幸せに目を向けてくれ、と願う貴方がいたのです。彼も、貴方なんですよ」


 黒服から再び男に目を向けると、僕は目を見開いた。先ほどまで、赤の他人だと思っていた男の顔が、段々と自分の顔のように感じるのだ。確かに今の自分と違う点も多い。しわの数も、肌感も、明らかに年を取っているように見える。それでも他人とは思えない顔つきに変わっていた。


 正確には、彼が自分の未来の姿だと、今気付いたのだ。


「私は、案内人です。貴方に、貴方自身の世界を体験させる為のね」

 そう言って黒服は資料やバインダーを背後に持っていった。気付くとまたそれらは何処かへ消えていた。


 黒服が電車の端に目を向けると、電車の端が白く光っていた。目を向けられないほどの強い光がこちらに迫ってきている。


「夢というものは、夢だと認知した状態で長く居続けられるものではないのです。この体験ツアーは、ここで閉幕です」黒服はそう言って身体を傾けた。どこか、笑顔が見えたような気がした。


「兄ちゃん、最後にもう一度、伝えたい」


 男が立ち上がり、手を差し出した。僕はその手をつかんで立ち上がる。男、改め未来の自分に向かって真っ正面から向き合った。


「この旅は、あんたにとって何も得られなかったかもしれない。全て幻想だったんだからな。それでも、死んだら何も感じられない。幸せも辛さも、感じられるのは生きてるときだけだ。精一杯、現世を満喫してくれ。ここまで聞いても、その世界が嫌になるようだったら、また会おう。考えが違っても、俺はあんただ。いつでも一緒さ」


 握る手が、強くなる。僕もそれに合わせて全力で握り返した。


「はい、ありがとうございます。なぜか、もう少し生きていられそうです」



 まだぼやけている僕の視界に入ってきたのは、部屋の天井だった。


 僕の手には、まだ男の感触が残っている。手を見てみると、そこには布団を固く握りしめる僕の手があった。

 帰ってきてしまった。それが正直な感想だった。


 “幸せも辛さも、生きている間しか感じられない”


 この言葉が、辛いことも少し貴重なもののように勘違いさせてくれているのだろうか。僕の身体は、間違いなく昨日より軽かった。


 立ち向かうべきものは無限にある。それでも。


 本当に生きていられなくなるまで、もう少し人生を噛みしめてみよう。起き上がって鏡の中にいた自分は、どこかあの男の表情に似ている気がした。

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僕もそっちに行けるかな さら坊 @ikatyan

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