第3話

私は白昼夢でも見たんだろうか。きっとそうだ、そうでなければ可笑しくないか、この展開は一体なんだ。どこがどうすれば結婚なんて明後日の方向に向かって話が進むというのか。


 椅子から立ち上がることも、それどころか身動きひとつせず石のように固まったまま、レーヴェは相変わらず扉を凝視していた。

 古く、装飾もない簡素なそれは、しかし毎朝磨き上げられしっとりとした光沢を放っている。触るとつやつやとして、それで少しだけ冷たい感触であることをレーヴェはよく知っている。メッキの禿げた真鍮のドアノブや蝶番も含めて、扉はいつもの顔でそこにあった。


 その向こうに消えていった背中も、レーヴェにはいつも通りに見えた。いつも通りにしか見えなかったことで話がややこしくなっていることに気付かない程度には、レーヴェは混乱していた。


 彼女の上官――ファルケ・バーデ少佐は鷹(ファルケ)の名に似合わない少し垂れ気味の黒い目と癖のある黒い髪を持ち、レーヴェの十年長で今年で三十になるはずだ。

 軍務につく為にはいくつかの入隊方法があるが、士官学校を通って軍属となった場合、まず尉官の最も下にあたる准尉から始まる。

 いつか聞いた話ではファルケが現在の階級に納まったのは二年前。貴族階級出身ではない者としては比較的早い出世である。中佐へと昇格するのも時間の問題と囁かれているが、これには当の本人が何故かものすごく嫌そうな顔をしていた。

レーヴェは今から一年少し前、入隊して九か月後に彼の副官として配属された。


「レーヴェ・ギーゼン准尉?」


提出された経歴書とレーヴェを見比べながら、男は少し首を傾げた。


「間違いは」

「ありません」


無表情のまま、レーヴェはすっぱりと断じた。

よくある反応である。レーヴェ・ギーゼンという名とレーヴェ自身が照合される時、二度、三度と確認されることがしばしば起こる。

これは別に今に始まったことではなく、子供の頃――それこそ幼年学校に入るよりも前から初対面の人間と対峙するとほぼ引っ付いてきたおまけのようなものである。

それもこれも獅子レーヴェという名をよりによって娘につけた父に全責任があることに異論を挟む家族はいなかった。


生まれてこのかた付き合ってきた本人や身内はともかく、他人にとって身体的にも容姿の点から見てもいたって平凡な妙齢の娘の名としては違和感を感じずにはいられない名であるらしい。


「お前の名は、彼の偉大な大帝由来のものなんだぞ!何を恥じる、胸を張れ!」


無責任にそう言い放った父に兄妹たちは揃って冷めた目を向けたものだ。夫の暴走を止めることができなかった母は、常に無言を貫いていた。


かつて大陸を統一した偉大なる皇帝は確かに存在する。獅子王とも呼ばれた彼の人の名は、ベルリヒルゲン。その大帝由来の名、と言えば聞こえはいいが、名付けに至る経緯を知る者であるならばレーヴェに同情しただろう。


レーヴェは寒い冬の夜、商家の長女としてこの世に生を受けた。兄に比べて難産であったそうで、母はしばしば「あの時はね、本当に死を覚悟したものよ」と口にする。

しかしそんな難産の末、二人目の子が無事に生まれたことに安堵したこともあろうが、子が生まれたその日、祝いの宴と称し商売仲間と酒盛りに興じた父は、清々しいまでに泥酔した。

そして千鳥足でついた帰路で、これまた胡散臭い辻占い師に呼び止められる。気分もよかった彼は、普段であればまず「無駄だ」と両断するはずの占いに銀貨を一枚差し出した。現実主義者で無駄を嫌う男である。利益がまずありき、という思考で動くのが常なのでよほど酔いが回っていたと思われる。

占い師が銀貨の代価として告げたのが、次のような一言である。曰く。


「貴方のお子は、彼の偉大なる獅子王ベルリヒルゲン大帝――の小姓と同じ星の下に生まれた稀有なるお子ですね」


どこが稀有なのか。

せめて嘘でも獅子王と同じ星宿の子とか、何かあったのではないか。

酔っぱらった男に冷静な思考能力など期待できようはずもない。男は『獅子王』縁の『稀有な星』の元に生まれた子という言葉に気をよくした。

そして帰宅したその足で、妻に高らかに宣言したのだ。この子の名は、レーヴェ。レーヴェ・ギーゼンだ、と。

せめて由来だけでもまともであるならば、こんな複雑な気持ちを抱かずに済んだのではなかろうか。生まれてこの方何度目になるのかわからない恨み節を、レーヴェは胸の内で泥酔していた父と碌な商品を寄越さなかった辻占い師にぶつけた。


「ふうん……?獅子(レーヴェ)か……」


 手元の紙切れに視線を落とし、黒髪の青年将校は口の中で呟くように繰り返した。


「なるほど」


 何がなるほど、なのだろう。

 勇ましい名に似合わぬ貧相な小娘、とでも思われているのだろうか。

 これはレーヴェの被害妄想も多少含まれていたが、実際に昔からどちらかと言えば小柄で、更に母親譲りの小麦色の髪の彼女は近所の悪童たちから『貧相な仔獅子』と散々からかわれてきたのだ。それは士官学校に入ってからますます顕著になり、名前に対する劣等感はこの頃すっかり肥大していた。


 どうせ、この人もそんなことを考えているんだろうな。


 荒んだ心持ちで、レーヴェは表情のない面のような顔をしたまま続く言葉を待った。しかし直立不動の体勢を崩すことなく待機すれど、予想した台詞はいつまでもやってこなかった。

 執務机を挟んで、二人きりの室内に沈黙が落ちる。


 ええと、この場合どうすればいいのだろう?


 先に妙なこの空気に耐えられなくなってきたのはレーヴェで、それまでの不愉快な予想とは違う、不安感のようなものがもやもやと漂い始めた。


「知っているかと思うが、私が上官になる。ファルケ・バーデ少佐だ」

「は、はあ……」


 知っていますが。だから何だと言えるほど、レーヴェは図太くはない。下士官に過ぎない彼女が上官に叩いていい口とそうでないものがあるということは理解している。

 戸惑いが表れていたのだろうか。レーヴェの新しい上官は人好きしそうな笑顔を浮かべて「よろしく頼むよ」と言った。

 次に彼がしたことといえば、部屋の壁際に置かれた空席を「君の机はそれで構わないか?」と確認し、逆の壁際に配置された書棚に収められた資料や備品について大変ざっくりとした説明をすることだった。


「――まあ、今はこんなものかな。後はおいおいその都度言った方がいいだろう?」

「はあ」


 軍隊とは思えない間抜けな答えである。これが前の上官であれば問答無用の叱責の後、容赦なく頬を張られたか、ねちねちといつまでも嫌味を言われていたに違いない。

 しかしファルケ・バーデ少佐はさして――というか一切気にする素振りも見せなかった。


「何かわからない点があったかな?」


 レーヴェの返事だか何だかわからない声に、彼は首を傾げて問い掛けた。


「い、いえ。大丈夫です!」


 ハッとしたレーヴェは慌てて答えたが、今度は今度で勢い込んで無駄に力が入っていた。


「…………」

「…………」

「ふ」

「ふ?」

「ふははははははははははッ!」


 突然腹を抱えて笑い出した少佐に、レーヴェはぎょっと目を剥いた。

 彼は一しきり笑い、なおかつ滲んだ涙まで拭って、切れ切れの息の中でなんとかかんとか「悪い、すまない」と謝罪らしきものを口にした。


「いや、君があんまり緊張しているもんだからつい」


「悪気はないんだが、気を悪くしたらすまない」と続けられて、レーヴェはぽかんと少佐を見つめる破目になった。


「いえ、お気になさらずに……」


 気が抜けたままようようそれだけを口にした彼女に、少佐はまたツボを刺激されたらしく更に過呼吸になるほど笑うのだった。

 どかどかと荒々しく床を蹴る靴音が聞こえる。近付いてくるその音が、レーヴェの意識を現在に連れ戻す。

 軍靴の音は次第に近付き、迷いも躊躇いも、遠慮などと言うものも勿論なく、上官が姿を消した件の扉を破る勢いで足音の主が大音声と共に現れた。


「ギーゼン少尉!」

「は、はい!」


 反射的に起立し、姿勢を正す。

 その姿を半眼で見下ろすのは熊のような体躯の壮年の男。


「ど、どうかされましたが、グラーツ大将」


 左頬に大きく走る傷跡がいかつい顔をますます凶悪に見せている彼は、第五師団団長ユンゲル・グラーツ大将である。

 熊殺しという二つ名はよく聞くが、彼の場合世が世なら確実に竜殺しドラゴンスレイヤーと呼ばれたことだろう。

 華の第一師団と第五師団が比較される理由の三分の一は、彼が原因だともっぱらの噂だった。

 王の剣の誉れも高き勇猛な戦士であった男だが、ファルケの直接の上官となる為にレーヴェ自身顔を合わせる機会は他の少尉、准尉よりも自然と多くなる。

 なので今更じろりと睥睨されても、やましいところもない身では怯えることはない。


「阿呆!俺程度にびびって前線で戦えるとでも思ってやがるのか!」


 伯爵家の嫡子というだけで早々に大尉となった、使えないぼんくら坊ちゃまを怒鳴りつけ、一週間ほど寝込ませたのは確か去年の話だったような気がするが。

 口より先に手が出る男だが、それでもグラーツ大将は無口な性質というわけでもない。

 その彼が、来室からこの方たっぷり五分は黙ってレーヴェを眺めている。

 妙な居心地の悪さをいい加減感じ始めたレーヴェは、これは不敬だろうかとぼんやり考えつつも仕方なく口を開いた。


「あの、私に何かご用でしょうか」


 それを待っていたとばかりにグラーツは腕を組み、大仰に頷いた。

 え、本当に私に用事?何?私、何かした!?

 聞いたはいいが頷かれるとは思っていなかった。


「大将、失礼ですがお間違いでは?その、少佐にご用なのでは……」

「あの馬鹿の顔はさっきまで散々見た」


 馬鹿呼ばわりされたファルケが、決裁済み書類の束を片手に団長のところへ行くと出ていったことを今更思い出す。

 ということはこの団長は本当に自分に何か知らないが用事があるらしい。

 しかしこちらにはまったく心当たりがない。

 必死に考えを巡らせるレーヴェの視界に、いかついおっさんの顔がいきなりぐいっと距離を詰めてきた。

 悲鳴を辛うじて飲み込んだ私を誰か褒めてほしい。

 たじろぐレーヴェの肩をグラーツ大将ががしりと掴む。


「ギーゼン少尉!」

「は、はい!」

「お前は本気なんだな!?」

「は、はあ?」


 訳が分からない。


「本気かと聞いているんだ!」

「あ、あの、何の話でしょうか?」

「あの馬鹿と結婚するとかなんとかいう話だ。ありゃ本気かと聞いてるんだ」

「あ、ああ……あれですか」


 そう言えば団長に報告云々言っていた気がする。あれ、ということは結婚て本当に言っていたのか、あの人。え、ちょっと待て。白昼夢でなくて現実?あれは現実……!?

 混乱する頭の整理に気を取られ無言になった彼女の反応を、グラーツ大将は肯定と解釈した。

 めり、と骨が軋む音がするほど肩を掴む手に力が籠る。

 熊の頭も片手で砕く――そんな馬鹿力などたまったものではない。


「そうか、お前があの馬鹿を引き受けてくれるか……。後悔はしないんだな?それでいいんだな!?」

「ちょ、痛いです大将!」

「まああの昼行灯でも取柄はある。心配するな。後はお前に任せるぞ!」

「だから痛いですって!ちょっと聞いてます!?骨の音が聞こえるんですけど!?」


 悲鳴と訴え。それをかき消す感傷にむせぶ男泣き。まさに混沌と化したフォルケ・バーデ少佐の執務室は、当の部屋の主が血相を変えて飛び込んでくるまで二人しかいないのに阿鼻叫喚の渦に巻き込まれ続けるのだった。



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