第4話


 一度進み始めた話は、坂を転がる石――いや断崖絶壁を落下する石のような速さでさくさく動いていった。

 現状を理解していないのはもしや自分だけなのではないだろうか。


 レーヴェが遅まきながらそう思い始めたのは、あの事件とも呼べる日からちょうど七日後の安息日の日、身体のあらゆる部分を複数の女たちの手によって採寸されている最中であった。


「ああ、迷うわねえ。銀かしら?それともやっぱり金?」


 ねえ、あなたはどちらがいいの?

 金糸と銀糸をそれぞれ手にして、うっとりと夢見る乙女のようなため息を吐きつつ振り返った母は、レーヴェの顔を見るなり眉を顰めた。


「まあ、何ですか、その顔は」


 呆れ交じりの叱責に反応を示したのはレーヴェばかりで、統制の取れた兵士よろしく職務に忠実なお針子たちは頓着する素振りも見せない。代わりにレーヴェが許可なく身じろぎしようものなら容赦なく小言や苦情を飛ばしてくるが。


「ねえ、レーヴェ。前々から思っていたのだけれどね。あなたには花嫁の自覚が足りないわ」


 母は額を押さえて大げさに嘆く。


「いいこと?婚礼は女の為の儀式なのよ。一生に一度、心定めた殿方の手を取る神聖な日なの。婚礼衣装は、いわば戦服いくさふくなの」


 母はなかなかに無茶な理屈を並べ始めた。何だ戦服って。


「ここで気合を入れるのが女というものでしょう?あなた、女としての生き様を見せつけるのはここなのよ!?」


 次第に力を増していく母の演説に比例するように、レーヴェはげんなりと肩を落とした。


「母さん、ちょっと待って」

「――だからヴェールひとつと侮るならば命を取られるものと思いなさい」

「あのね、母さん。ちょっと待って」

「この刺繍ひとつひとつが言うなれば守りの護符のようなものなの!……あら。何か言った?」

「言ったわ。ちょっと待ってって」

「待つ?何を?」


 きょとんと眼を瞬かせた母に、レーヴェは今度こそ脱力した。

 放っておけば、どんな解釈をすればそんなことになるのかわからない独自過ぎる理論を展開させ続けるであろう母の手の内で、力を籠められすぎて皺が寄った純白の絹の切れ端が見える。

 あれだけでもハンカチにして売ったらまあまあの値段じゃないのかしら……。

 婚礼衣装を仕立てる為にと揃えた布地の見本とはいえ、張り切った母がかき集めてきたそれらはどれも一級品であった。

 レーヴェの実家であるギーゼン家は、父で五代目になる商家である。薬草や薬石を扱っており、王都に住まう医者たちを主な客としてきた。

 豪商と呼べるほどの規模ではないが、まずまず堅実な商いで名を知られている。

 その現在の当主夫人――レーヴェたち兄妹の母はやはり王都の仕立て屋の三女であった。仕立て屋といっても市井の人々を客とする庶民的なそれではなく、その生家は社交界に名だたる夫人たちを顧客として抱える老舗である。

 家業を継いだのは婿を迎えた長女であったが、職人としての腕は三姉妹の中でレーヴェたちの母がもっとも優れていたと言われる。彼女は商家の妻としての務めの傍らで、ひっそりとコサージュなどの飾り物を作り始めた。最初の客は同じ階級の商家の妻たち。しかしすさまじきは女の情報網である。噂が噂を呼び、発注は増え、今や夫の公認の下で実家と提携する飾り物専門の独自の商売を展開するまでになった。

 ドレス作りこそ商売としては行っていないものの、そんな彼女であるからこそ、娘の婚礼衣装という大物を前にすると血が騒ぎ、黙っていられるはずもなかったらしい。

 安息日であるのをいいことに、朝からお抱えの針子たちを引き連れレーヴェを部屋に押し込めてああでもない、こうでもないと騒いでいるのである。

 そんな情熱を込めた演説を遮られた母は、小娘のように小首を傾げてレーヴェを見上げた。

 レーヴェは小柄な母似だが、辛うじて頭半分ほど母よりも背丈がある。


「どうしたっていうの?」

「どうしたっていうか、少し落ち着いて。お願いだから」

「落ち着く?私は落ち着いてるわよ。どこがどう落ち着いてないなんて言うの」


 どこがってすべてである。


 母の暴走と紙一重のほとばしる情熱のおかげで、久しぶりに帰った実家だというのにレーヴェの部屋は今や見る影もない程に反物の端切れやらレースやリボンや刺繍糸や造花でごちゃごちゃとしている。

 レーヴェの唇から思わずこぼれたため息に、母は「そんなものを吐いてるようじゃ、幸せが逃げるわよ」と碌でもない台詞を口にした。


「……母さん」

「ねえレーヴェ。どうしてあなた、そんなに暗い顔をしているの。せっかくこうしてあなたの為に色々揃えたのよ。もっと楽しみなさいな」

「楽しむって言っても……」


 楽しみやら幸福やら、そんなものよりも困惑が勝り過ぎているとどう伝えれば理解されるのだろう。


 ……無理な気がする。


 安息日であるからと言って、軍人であるレーヴェには休日であるとは限らない。場合によっては兵舎に詰めることもある。

 現に彼女の上官――今や両親公認の婚約者であるが――は今日も仕事だ。

 副官である自分がこんな状況になっているのに、である。


 何で私だけがこんな目に。


 そう思うと事の元凶がその男であるという事実まで思い出されて、悪態の一つもつきたくなった。

 ちなみに答えは彼女が花嫁だという至極簡単なものだが、この段になってもそこへ考えは至っていない。

 自分ひとりが置いてきぼりになっている間に、職場でも実家でも、レーヴェの嫁入りは勝手に決定事項とされていた。

 もみ消すには、レーヴェは状況把握が遅すぎた。

 そして今も、この期に及んでレーヴェはどこか他人事のような心持であった。


「もういいわよ。軍の礼装で」

「いいわけないでしょう!」


 妙齢女子とも思えぬ投げやりな一言は、母だけでなくその場の全員の「信じられない!」という視線により否定された。


「あなたは花嫁。主役なのよ!?」


 何度目になるかわからない言葉を母は繰り返した。


「そりゃ、殿方はね礼装の方が二割増しかもしれないわ。だけど花嫁は婚礼衣装こそすべてなの!」


 そんな馬鹿な。


「いいこと?レーヴェ。これは親としての威信にも関わるの。あなたはわたしやお父様を娘に立派なドレスの一つも仕立ててやれない情けない親にするつもり?」

「そ、それは……。そんなつもりはないですけど……」


 そう言われてしまえば娘としては反論できない。身を小さくするレーヴェに母は滔々と語り続けた。


「そうでしょう?あなたはそんな親不孝な娘ではないとわたしたちは知っていますとも。姉さんからの援助もあるし、ここは盛大にいきましょう。あなたの婚礼にわたしたちの店の運命が掛かっているの。気合よ、気合」

「…………は?」

「ここであなたのドレスが評判になれば――いいえきっと素晴らしいと噂になるわ。そうすれば新しい路線開拓の成功ね」


 うふふふふ、と不審な笑みを浮かべる母に、今度こそレーヴェは黙った。

 もう何も言うまい。言っても勝負は目に見えている。


 しかし。


 結局商売!?


 声にならない叫びは行き場なく、レーヴェの喉の奥にこだました。


   ***


 月のない夜である。曇り空は星も隠し、空は闇に染まっていたが、ギーゼン家の居間はさらにどんよりとした空気に包まれていた。


「わ、わだじの……ッ。わだじのレーヴェが……ッ。あの小さなレーヴェが!」


 声を詰まらせる青年にレーヴェはため息を吐いた。


「あのねえ、マリユス。もういい加減に泣き止んでくれると嬉しいんだけれど」


 ほとほとうんざりしながら、レーヴェはちり紙を差し出した。それを受け取ると泣きぬれる兄はチーン!と勢いよく洟をかんだ。


「鼻の頭が真っ赤になってるわよ」


 泣きすぎたせいか、はたまた洟をかみ過ぎたせいか、鼻どころか顔中真っ赤である。

 どうも昔から涙もろい気はあったが、ここまで緩い涙腺だっただろうか。

 普段はギーゼン家の跡取り息子として采配を振るっているマリユスだが、こんな姿はよそ様には見せられない。三十過ぎの男とは思えない情けない有様である。


「わだじがあの時、家にいれば……!」

「いやだから、今更そこに話を戻しても仕方が……」


 ぐずぐずと鼻を鳴らしていたと思えば、随分昔の後悔をわざわざ引っ張り出しまたワッと泣き出した兄に、レーヴェは慰めることを早々に放棄した。

 もうこうなったら好きなだけ泣かせてやるしかない。

 決して面倒くさいとかそんなわけではない。そう決して。

 心の内で自然と言い訳を唱えながら、それでも立ち去るわけにもいかず腰を据えたテーブルに頬杖を付く。

 都から馬で三日ほどの街へ買い付けに出かけていた兄は、帰宅すると妹が出迎えに出たことに非常に喜び、直後に聞かされたその妹の結婚話で絶望の淵に突き落とされていた。

 手慣れた母はさっさと兄をレーヴェに押し付けて、用事があるからと父と連れ立って外出している。

 せっかくの休暇、久々の実家。泣き暮れる兄が一人。

 どうすればいいというのか。

 昔から歳の離れた妹を溺愛していた兄は、こと妹に絡む事案に対してレーヴェ自身すら心配するほど情緒不安定になることがままあった。

 長年兄妹として付き合ってきて妹が出した結論は一つ。


 放っておくしかない。


 何を言ってもマリユスには逆効果しか発揮しないのである。


「まだやってたの。兄さんたち」


 悟りの境地にいたレーヴェの耳に冷めた声が響く。振り返ると、声以上に冷たい氷の視線を向ける弟が気だるげに眼鏡を拭いている。

 二階にいたはずだがいつの間に降りて来たのか、フェルナンは兄姉の茶番には目もくれず、眼鏡をランプに翳して汚れの有無を確認している。


「……これはこれでどうなのかしらね」


 別に兄のように泣いて惜しめとは言わないが、たった一人の姉が嫁に行くというのにこの温度差は何なのか。せめて中間の反応が欲しいと思うのは贅沢なのか。

 心持ち肩を落とすレーヴェに、フェルナンは意味が分からないとばかりに眉を顰めた。


「惜しむ?おめでたいのにどうして?姉さんもいい年だろう?このまま嫁に行けず家に戻って来るよりよかったじゃないか」


「あのね、フェルナン……」


 その言いようもひどいと思うのだがレーヴェの気のせいだろうか。

 苦虫を噛み潰したような顔の姉に、弟は遠慮のない物言いを重ねた。


「嫁ぐって言っても別によその国に行くとか、そんなわけでもないんだよ?新居だって、言う程ウチと離れていないじゃないか……。兄さんもいい加減にしなよ。今生の別れじゃないんだから。そろそろ鬱陶しいよ」

「…………」


 直前まで号泣していたはずの兄と共に、レーヴェは揃って無言になった。

 一体我が家の末っ子はどうしてこう育ってしまったのだろうか。

 二人の脳裏に同じ疑問が渦巻き、光速で駆け抜けていったが、二人ともその答えを追うことはしなかった。

 十数年以上兄妹をやっているのだ。徒労に終わることを二人は知っていた。

 問題の弟は現在この場に漂っている微妙な空気を気に留めることもなく、磨き終えた眼鏡をかけ直す。


「で、姉さん。花婿は?来たんでしょう?」

「え、花婿?……あ、ああ。隊長ね」


 一瞬誰のことかわからなかった、とは言えず目を泳がせて、それからレーヴェは両親の部屋の方向へ視線をやった。

 父にレーヴェとの結婚の許しを求めて来訪したのは間違いなく自分の上官である。儀礼や人前に立つ時でもなければ大概四方に跳ねている癖のある髪を整え、正装とまではいかないが崩していない軍服姿で現れたファルケの横顔をぼんやりと思い出す。横顔なのは、レーヴェが始終彼の横にいた為で、見慣れた顔なのにどこか居心地の悪さを感じで、レーヴェはそわそわと落ち着かない気分を味わう羽目になった。

 それが昼過ぎのこと。

 つつがなく、かつ素早く許しを得たその人が帰る姿を見送った、までは覚えている。だけれど正直ファルケと自分が直接話した内容だけが記憶から抜け落ちていた。

 一体何を話したのだろうか。ファルケの来訪の目的についてのような気もするし、普段と変わりない会話であった気もする。考えれば考えるほど落ち着かないし、座りの悪さばかりが目立って仕方ない。

 黙り込んだレーヴェに何を思ったのか、弟は驚いたように目を丸くした。


「まさか姉さん、さっそく何かやらかして破談になったんじゃ……!?」

「こらフェルナン!さすがにいくらレーヴェでもこんなに早く破談になるわけがないじゃないか!」


 青ざめた顔で兄が弟を諌める。


「でも兄さん、考えてみてよ。父さんたちが静かすぎる!あれだけ伯母さんたちと暗い顔で姉さんの結婚話をしてたのに!」

「滅多なことをいうもんじゃないよ。暗い顔をしてたのは伯母さんたちにせっつかれ過ぎて疲れていただけだし、今はその伯母さんたちと婚礼の段取りをつけると言って母さんと出かけてるんだよ」

「なんだ、僕はてっきり」


 てっきりなんだ。早々に破談になったと思ったのか。


「というか、何その伯母さん関連の話。私は初耳なんだけど……」


 勝手に頷き合う兄弟は互いに納得したようだが、こっちは話についていけないのだが。

 知らざる事実が別に知りたくもなかったタイミングで続々と明かされ、レーヴェは額を押さえた。

 ただでさえ訳の分からない状況にこれ以上余計な情報を放り込まないで欲しいと願っても罰は当たるまい。


「じゃあ姉さん、無事に嫁にいけるんだよね?」

「無事にも何も、いけるにきまってるじゃないか。……うわあああああん!」

「ちょ、兄さん。だから泣くのはみっともないって言ってるじゃないか!」

「お願い二人とも、私のことを思うなら一回ちょっと静かにしてくれない?」


 月も星もない、どんよりした曇り空の下、ギーゼン家の夜は賑やかに更けてゆく。


 明日は恐らく雨である。






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獅子と鷹の恋愛喜劇 草村 @ksmr155

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