⑩僕と心
「さほりん! 大丈夫!?」
彼女はティッシュで鼻を抑えていたものの、そのティッシュにはかなり血が染み出していて、頬や襟元にも血が飛び散っていた。
「血が……!」
僕が駆け寄るとさほりんは手で制して、もう一度同じことを言った。
「見つけたよ、容疑者」
「っ――――!」
彼女は僕のために、最速で事件の解決を目指してくれた。それはわかっている。
わかっているけれど、そんなボロボロになってまで容疑者の特定なんてしてほしくなかった。
「そんなことより、体は大丈夫なの!?」
さほりんの汗ばんだ額に手を当てる。
熱い。体温が40度近くあってもおかしくないほどの熱だった。
鼻血以外の流血はなさそうだけれど、目の焦点は微妙にあっていない。
「ねえ!」
「そんなことより?」
唐突に、怒気を孕んだ声が返ってきた。
「……さ、ほりん?」
「今きみ、そんなことよりって言った? 私は容疑者を見つけた。それより大事なことが今ある?」
「いやあるでしょ! 僕はそんな苦しい思いまでして解決してほしいなんて思ってない。そんな風に自分を犠牲にして解決して、それで僕が喜ぶと思ったの? 僕がどう思うと思ったんだよ!」
「知らない。興味ないから」
人の心に対する興味を失った彼女は冷たい声でそう言い放った。
僕が何を言うべきか迷っていると、「それに」と彼女は続ける。
「自分を犠牲にして結果を得るのって、ななくんがいつもやっていることじゃない」
「……いや」
「春休みの時間を犠牲にして、縁もゆかりもない私のおねえちゃんと連絡を取ったことも、まどかが授業中に荒れた時、身を挺してクラスに落ち着きを取り戻したのも、受験直前に
「……でも! 君は傷ついている。鼻血も出ているし、熱も」
「私は少し休んだら何事もなくなるよ。でも君は、これで受験がうまくいかなかったら下手したら一生引きずるんだよ。ねえ、ななくん。私言ったよね。あんまり遠くの変な大学にはいかないでって。私は君と一緒の大学に行きたい。それが無理でも近いところにいたい。そんな私の気持ちを無視して受験を二の次に置いているのは君だよ。ななくんのほうこそ、私がどう思うと思ったの? ねえ。本当に人の気持ちに興味ないのはどっちだよ!」
「そ――それは」
言葉に詰まる。
それは彼女の剣幕に押されたからじゃない。
さほりんはずっと、受験前に事件に首を突っ込むなと警告してくれていた。
でも僕はそれを無視して、僕のエゴで篠田先生の力になろうと思った。
だからさほりんは、自分の能力を百パーセント使って僕の力になってくれた。
それに文句をつける権利が、僕にはあるのだろうか。
あるはずがなかった。
「ごめん、取り乱した。ちょっと頭冷やしてくるね。熱もありそうだし」
さほりんはすぐにいつものさほりんに戻って、ポケットから替えのティッシュを取り出した。
僕は声を出せず、動けないでいる。
「あ、そうそう。今後の話だけど」
お手洗いの方へ向かおうとしたさほりんが振り返って顔を近づける。
「容疑者――というか、篠田先生が落としたハンカチを見て、篠田先生と結び付けた人間は、三年六組の
「そうか、五反田が」
「うん。私はそれを篠田先生に伝えようと思う。でさ、ななくん。それを持ってこの件終わりにしよ?」
「どういうこと?」
「あの篠田先生だよ。先生があの日追いかけた生徒は五反田くんだった、というところまで伝えたら、そのまま自分の力で真相に辿り着けると思わない?」
「……それもそうだね」
確かに篠田先生にそこまでヒントを与えたら、独力でなにがあったか解明しそうである。
「だから、五反田くんの名前を持って今回の事件はいったん解決とする。今日から私とななくんは受験に集中。で、もし篠田先生が一か月かけてもあの日のことを補完できなかったら、もう一度手を貸す。これでどうかな」
「……」
さほりんの言う通り、もう僕たちの出る幕はなさそうだった。
さほりんが心を読んだ限りでは、五反田は
それは篠田先生の下位互換だ。
だから僕たちは本件から手を引くべきなのだろう。
「……」
「……何か反対意見があるの?」
「――いや」
僕は首を振った。
「ないね。さほりんの言う通り、きっともう篠田先生に丸投げしたほうがいい。僕が伝えてくるよ。さほりんはまず体を万全にして」
そう伝えると彼女は少しだけ笑って、「じゃ、ちょっと頭冷やしてくる」と廊下の奥へと駆けて行った。
僕はクラスメイトの奇異の視線を無視しながら数学準備室に向かい、篠田先生を探した。
「先生」
「あら、逢沢くん。どうしたの?」
単刀直入に切り出した。
「先生の天曳の力について進展があったので報告しに来ました」
「……受験に集中しなさいよ」
「いや、ほんの片手間程度にしか調べてないので安心してください」
僕はそこで二つの事項を先生に伝えた。
先生が天曳の力を獲得した日、五反田隆太についていっただろうということと、このタイミングで事件から身を引くということ。
「これだけ情報があったら、先生なら真相に辿り着けると思うんです」
「それは先生を買いかぶりすぎな気もするけど。でもまあ、天曳の力のこともわかって、先生が後を追った生徒の名前もわかった。ここまでわかればなんとかなると思う。ありがとね」
「いえ、最後までお力になれず申し訳ないです」
頭を下げると、軽く頭を叩かれた。
「ばか、なに言ってんの。十分助けてもらったわよ。十分以上にね、本当にありがとう」
そう言いながら先生は小さなホワイトボードに「A→B」「A←B」と書いた。
「どっちが十分条件でどっちが必要条件でしょう? 共通テストでたまに出る問題です」
先生のお礼は、数学の問題に絡められた。
僕は黙って前者を指差して、数学準備室を後にした。
これで解決。
事件は終わり。
僕はなんとか自分を納得させながら教室に戻った。
事件を最後まで見切れなかったことに対して、やっぱり少しだけ未練はあったけれど、そんなことより受験だ。
さほりんの言葉を思い出す。
――本当に人の気持ちに興味ないのはどっちだよ!
僕はさほりんが好きだ。
そして――こんなこと思うのも恥ずかしいけれど、きっと彼女も僕に好意を抱いてくれている。
僕はそんな彼女の心配や努力を無下にしてしまった。
「……謝らないとな、ちゃんと」
この時僕は、謝らないとなという気持ちでいっぱいだった。
でも本当は、もっと考えるべきだったのだ。
篠田先生はなぜ【透明化】の能力を会得したのか。
そして彼女は、なにを失ってしまったのかを。
僕はすぐに後悔することとなる。
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