⑧僕と夜更かし
僕は電話を切らず、マイクをミュートにだけして寝る準備に取り掛かった。
とは言え、歯を磨いてトイレに行くだけである。特に意味もなく入念に歯を磨いた。
たっぷり五分。部屋の電気を消して、ベッドに潜った僕はまだ通話中の画面になっていることを確認する。
「……ふー」
なんとなく緊張しながらイヤホンを耳に入れた。
さほりんはマイクをミュートにしていなかったようで、かすかな雑音に混じって「すー、すー」という規則正しい呼吸音が聞こえる
……寝てる!?
マイクのミュートを解除して、恐る恐る「ただいま」と言った。
すると十秒ほど間があって。
「ん-? おかえりぃ」
間の抜けた声が返ってきた。
絶対半分寝てるじゃん。
「……寝てた?」
「んにゃあ、寝てないよぉ」
なんだこれなんだこれなんだこれ。
僕は自分の顔が熱くなるのを感じた。
さほりんの声が無防備すぎる。そして、可愛い。
「あいざわくん、寝るじゅんび、終わったのー?」
「ん、うん。終わったところ。さほりんは?」
「私はねー。電話する前にもう終わらせた」
「そ……っか、偉いね」
「えへへ」
少しだけ会話が続いたけれど、彼女の声は鮮明さを取り戻すどころか、そのふにゃふにゃさは留まることを知らなかった。
よくないことをしている気になってくる。
僕は思い切って口を開いた。
「もう寝るよね。電話、切ろうか」
「駄目」
……駄目?
「だ、駄目なんですか」
「駄目ですぅー」
「……」
電話越しにも口をとがらせていることが分かった。
普段のさほりんの凛とした態度とは百八十度真逆だ。
百八十度真逆って、もう半周回って一周しちゃっている気がしてきたな。いやいや、そんなことはどうでもいい。
今はこの可愛い生物をどうするかだ!
「じゃあ……お喋りする?」
「うん」
「……山手線ゲームでもする?」
「しないよぉ」
いつもは冷たくツッコミを入れられるはずの小ボケなのに!
僕はいまだに戸惑っている。
女の子と夜通し電話をするという体験に加えて、いつもと全然違う彼女の一面が見えている。
このまま電話を切ったほうがいいんじゃないかという罪悪感と、切りたくないという本能が戦っている。
「でもさっき散々喋ったから、もうトークテーマがないよ」
「うーん」
「さほりんは何かないの? 最近の出来事とか」
そう言うと二十秒ほど返事が返ってこなかった。
さすがに寝落ちしたか。
そう思って僕も目を瞑ると、「そういえば」と声がした。
「あ、起きてたの」
「起きてるよー!」
いや絶対寝てたじゃん! 寝息聞こえてたよ!
とは突っ込まずに彼女の言葉を待つ。
「この前おねえちゃんが顔見せに帰ってきたんだ」
さほりんの姉。
今年の春休みに対峙して、おねえさんの隠し事を暴いたのはまだ記憶に新しかった。
さほりんのことを一番に考えた結果、実家を出ることになったおねえさん。
確か隣の県に暮らしていると言っていたので、帰省自体は難しいことではないだろう。
「いいね。何喋ったの?」
「向こうの生活のこととかー、受験とか」
さほりんは一度おねえさんのことを信頼できなくなっていたはずなので、また前のように会話ができているのはよかった。僕のエゴが、ポジティブな方向に働いたのだろう。
「その時にねー、
「僕の?」
突然矛先が向いた。
確かに共通の知り合いではあるけれど、一体何を?
「特に身のある話はしてないんだけど、『ななくんは元気してる?』ってさ。元気?」
「ははっ、元気元気。超元気。ありがとうございますって伝えといて」
「うん」
そう相槌を打ってからまたしばらく沈黙があった。
でも今度はさっきと違って、寝ているわけではなく、何かを言いたそうな沈黙だった。
「どうしたの?」
「うん」
「…………」
相手の気持ちを考えずに発言する彼女にしては珍しく、言い淀んでいるような沈黙だ。
そこから数十秒、下手したら数分経って、ようやくさほりんが続きを話した。
「『ななくんは元気してる?』だって」
「……それは聞いたけど。元気だよ」
「ちがうの」
「……ん?」
「おねえちゃん、あいざわくんのこと、ななくんってよんでたよ」
「……」
僕は美紗さんとかつて行った会話を振り返る。
――親しい人は僕のことをななくんと呼びます。
彼女は律義にそのコメントを守ってくれているらしい。
「それは――」
「わたしですら、まだ、あいざわくんってよんでるのに」
その言葉に、僕の心臓が一度大きく跳ねた。
鼓動の音が聞こえる。胸が高鳴っているのを感じる。
「わたしのほうがぜったい仲いいのに」
「……さほりん? それはどういう」
「どうしておねえちゃんはあいざわくんのことななくんって呼んでるのよ」
「……」
僕はどうしてさほりん呼びに対して逢沢くん呼びなんだと思っていた。
「そんなに呼びたいなら、呼べばいいじゃん」
「でも……」
なおも言い淀むさほりん。
僕は意を決して言った。
「ななくんって、呼んでほしいな」
「んー」
いや、「ん-」じゃなくて。
その時、電話口の向こうから大きなあくびの声が聞こえてきた。
「……」
さすがに相当眠いのだろう。
僕は名前を呼んでもらうことを諦めて、本格的に寝ようとした。
「じゃ、さほりん。そろそろ本当に寝ようか」
「ん。ねるー」
「じゃ、お休み。切るね」
「駄目」
だから駄目って何!?
「駄目なんですか……?」
そう問いかけると、すー、すー、という規則正しい寝息が聞こえてきた。
「……」
どうしろって言うんだよ。
僕の心臓はずっとドキドキしっぱなしだった。
だけれど、その感情と、今どうすればいいかは別の話だ。
このまま電話を切って寝るのが正解だろうか。
明日の朝、彼女はこの会話を覚えているだろうか。
――切らないでおこう。
僕はそう決めて、小さな声で「おやすみ、さほりん」と呟いた。
「んー。おやすみ、ななくん」
ふにゃふにゃと、けれどはっきりと、さほりんはそう言った。
その一言で僕の心臓は眠れないほど高鳴って――あとはずっとさほりんの寝息を聞いていた。
しばらくして、僕もいつの間にか眠りについていた。
翌朝、知らない目覚まし時計の音で起こされて、僕たちは状況を認識するのに少しだけ時間を要した。
僕の方はわりと最後の方までばっちりと覚えていたのだけれど、さほりんは大きく戸惑っていた。
「さほりん、昨晩のこと、覚えてる?」
「一緒に勉強した記憶はあるんだけど」
「そ、そっか」
彼女が電話を切ろうとしたら拒否したことや、呼び方について話したことは、僕の中だけにしまっておくことにした。
眠い目をこすりながら時計を見て、今日は土曜日だからまだまだ二度寝できるな、と考える。
さほりんは休日でも相当早く起きているみたいだ。
「じゃあ私起きるから、電話切るね」
「うん。じゃあさほりん、また学校で」
「またね、ななくん」
――――もう二度寝はできなかった。
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