⑦僕と電話

 午後八時。体調は完全に回復して、怠さも眠気もなかったので僕は物理学の参考書を開いた。

 治ってしまった以上受験勉強をしないわけにはいかない。

 僕は理系の大学を志望しているのだけれど物理学が自分でも引くほど苦手だった。これは天曳の力のせいでもなんでもなく、僕の理解力が乏しいからである。

 でも、電力がとか磁力がとか言われても何もピンとこないんだよな。

 くるくるとシャーペンを回しながらローレンツ力に関する問題を解いている時、突然電話が震えた。


「電話?」

 誰からだろうと思って画面を見ると、八嶋紗穂と表示されていた。

「えっ、さほりん!?」

 彼女から電話がかかってきたことは今までなかったので僕は少し慌てながら通話ボタンを押した。


「も――もしもし」

「今日日電話を取ってもしもしって言う人も珍しい気がする。こんばんは、逢沢あいざわくん。今時間大丈夫だった?」

「ん、ああ。問題ないよ。すっごく暇してたところだから」

「ふぅん。体調は?」

「完治。朝の体調不良が嘘みたい」

「変だな――体調に問題ない受験生がこんな勉強日和にすっごく暇なんてことがあるのかな」

「んぐっ」

 ネチネチした塾講師かよ! 僕は心のなかで突っ込んだ。だいたい勉強日和って何。

 さほりんは開口一番からさほりんだった。

 ちなみに電話口だと彼女の天曳の力は発動しないため、頭の中で何を考えていても問題はない。

「逢沢くん、今『さほりんの能力は電話越しでは発動しないので何を考えてもいい』と思ったでしょ」

「なんでわかるんだよ……」

「あは、まあ逢沢くんの考えてることなんてだいたいお見通しよ。どれだけきみの心を読んできたと思う?」

「胸を張るところじゃないだろ! さほりん、僕以外の心は基本的に読まないのに僕だけはすごくカジュアルに読んでくるよね!」

 さほりんは、先程の篠田先生のようによっぽどのことがないと人の心を読まない。

 僕を除いて。

「嫌とかじゃないからこれから先もやってくれて構わないんだけどさ、さほりんって能力使うとき人の整理されてない思考まで全部流れてくるんでしょ? 辛くないの」

「辛いよ。今日の篠田先生なんて特に。先生が自覚すらしていない声を聞こうとしたから当たり前ではあるんだけど、情報の波にのまれて本当に頭割れると思った」

「そっか。ありがとね。でもそれならどうして僕の心は頻繁に読むの? 頭割れないの?」

「逢沢くんは思考が単純だから平気」

「……さいですか」

 単純な男だと言われてしまった。

 するとさほりんは慌てたように「あ、違うよ」と言葉を付け足した。

「きみの思考が単純なのは、きっと天曳の力のせい。普通の人ってさ、色んなものに気をとられてすぐ思考があっちやこっちに行くんだ。道を歩いていて看板を見たらそのお店について考えちゃうみたいなもの。でも君にはその――好奇心がないから、基本的に思考が一本道なんだよ」

「……」

 まさか自分の好奇心の欠落がそんなところまで影響を及ぼしているとは思わなかった。

 でもそのお陰でさほりんとの距離が近づいたのだと思うと、悪い気はしない。

 初めて、自分の欠落にプラスの感情を抱けたかもしれない。僕は少し暖かい気持ちになった。

「さて、天曳の力の話に入ったということで、本題に行きましょう」

「本題って、この電話の?」 

「そう。さっき学校で『作戦会議はまたあとでしよう』って言ったでしょ。それをやりたくて」

「……月曜日に学校で、じゃ駄目だった?」

「最速で解決するって言ったでしょ」


 頼もしい言葉だった。


「先生が残したヒントはふたつ。誰かの後を追いかけたということと、ハンカチを落としたということ。順当に行けば、誰の後を追いかけたかを突き止めるのが一番だと思うんだけど、さすがに選択肢が広すぎる気もするんだよね」

 同意の相槌を打った。

「ただ、先生は学校から出て駅に着くまでの間に誰かを追いかけている。だからまあ、毎日その経路を張っていれば……うーん。先生がついつい追いかけてしまったっていうことはきっと相当怪しい風貌をしていたか目立っていたかだと思うから、張り込み作戦もあり得なくはないけれど……」

 さほりんがぶつぶつと思考をはじめる。

 僕はそれを聞きながらシャープペンシルを回して、思い至った。


「いや、もし怪しい風貌をしていた人を追いかけたのなら、先生の記憶に残ってるんじゃないかな。先生は誰かを追いかけた記憶があるけれど、それが誰までかは思い出せないんでしょ。ってことは、の行動だった。こうは考えられないかな」

「……先生の考えには特に興味が持ててなかった。続けて?」

「先生が追いかけた相手は、桜塚北高校の生徒。例えばその生徒が思い詰めた表情をしていたら、それを追いかけるのは篠田先生の中では当たり前の行動だ。そしてその生徒を追いかけた先で――天曳の力を獲得した」

「……ふむ」

 たっぷりと沈黙があった。

 電話越しに彼女の吐息だけが聞こえる。

 イヤホンから耳にダイレクトに届く吐息は、僕の耳を何度もくすぐって、それが少し気恥ずかしかった。

「そのセンで行ってみよう。篠田先生は北高の生徒を追いかけて、その先で『透明になりたい』と願った。そして天曳の力を獲得して今に至る」

「じゃあその生徒を探して何があったかを探るべきだね。でもどうやって探せばいいんだろう」

「……それに関しては既に方法を思いついてるから、逢沢くんは安心してていいよ」

「……え、どんな方法?」

「あは、秘密。明日は土曜日だから、月曜日から捜索をはじめよっか」

 生徒を探す方法はとても気になったけれど、秘密と伏せるからには聞かないほうがいいだろうと判断して僕は同意をした。


「じゃ、そろそろ作戦会議は終了でいいかな」

 さほりんが締めるように言った。

「うん。僕も物理の問題集に取り掛かるとするよ」

「お、偉い」

「まあ受験生だからね……」

「もうすぐ本番だしね。でも風邪治ってよかったね。こじらせてたらちょっと笑えなかったし、私も罪悪感が湧いてたかもしれない」

「さほりんは何も悪くないけど、ほんと、風邪治ってよかったよ」

 僕たちはだらだらと喋り続けた。

 一応、喋りながらも問題集は解き進めていく。


「さほりん、ごめん。物理集のP154の問題教えてほしい」

「あー、これはね」


「そういえば逢沢くんに前貸してもらった小説、面白かったよ」

「でしょ! って、本読んじゃったの?」

「現国の勉強だよ」


「篠田先生、本当に逢沢くんに何もされてない?」

「されてないって!」

「やっぱり男の子ってああいうタートルネックのどエロいニットが好きなんだね」

「……」


「…………」

「…………」

「…………よし、あってた」

「おめでと」



「ふぁあ、そろそろ私眠くなってきちゃった」

 通話画面を見ると、四時間以上が経っていた。時刻は零時を回っている。

 僕は昼間ずっと寝ていたので眠くなかったけれど、さほりんは眠いだろう。

「明日は土曜日とはいえそろそろ寝よっか」

 そう提案すると「そうだね」と返事が返ってきた。

 声に覇気がなくて、かなり眠そうだった。

「じゃ、僕寝る支度してくるね」

 僕がそう言って、おやすみ、と続けようとした瞬間、想定外の言葉が返ってきた。


「ん。いってらっしゃーい」


 え、おやすみしないの?

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