①僕と帰り道
今年の十二月は例年よりも暖かいとニュースで言っていたけれど、それでもやっぱり寒いから、僕は制服の袖口に息を吹きかけて手のひらを温めていた。
「ちなみに『十二分の一公式』は試験で使えないから気を付けてね」
「勝手に人の心を読むだけならまだしも、そこから全然別の話題に繋げないでくれないかなぁ?」
右の席から茶々を入れてきたのはクラスメイトのさほりん。
彼女は人の心を読む超能力を持っているので、今のように時々僕の心と会話をはじめる。
もちろん、周りに僕たちしかいないとき限定だけれど。
十二月の放課後の教室は閑散としていた。もう三年生は自由登校になっているので、そもそもクラスの半分以上が来ておらず、残りの半分も夕方ごろに帰り始める。先生に質問するためだけに来てすぐに帰る生徒すらいた。
そんな中僕は学習塾にも通っておらず家で勉強するのも好まなかったので、こうして下校時間ぎりぎりまで学校にいる。
さほりんも僕に付き合ってくれているのか、一緒に勉強をしてくれていて、教室には二人だけだった。
ちなみに『十二分の一公式』というのは数学の積分分野で使われるもので、放物線の二本の接線、その交点、放物線に囲まれたひしゃげた三角形のような部分の面積を求めるときに使用する。
ただし、途中式を端折った上で導かれる公式なので、記述式の試験では使用してはいけない。
「しかし……あと一か月で一次試験かぁ。間に合うかなあ」
試験本番を想像すると怖くなってきて、思わず情けないことを口に出した。
横から大きなため息が聞こえてくる。そっとさほりんの顔を覗き込んだ。
「きっと間に合うよ! みたいな気休めなら他の人に言ってもらって」
「…………」
辛辣だった。
「別に気休めを言ってほしいわけじゃないんだけどさあ、なんていうか。不安のせいでついつい口に出しちゃうことってあるじゃん。あるんだよ」
「知らない、興味ない」
「……」
「逢沢くんが受験でどうなろうが私には関係ないしさ」
彼女は人の心への興味を失っているので、その冷たい反応も仕方のないものだったけれど、僕は少しだけへこんでから、「そうだね」なんて相槌を打った。
タブレットから問題を選択する。紙に数式を書き殴る。解説を読む。繰り返す、繰り返す、繰り返す。
深く、深く、数式の中に潜っていく。
「――まあでも、あんまり遠くの大学に行かないでね」
「え?」
さほりんの声で集中が途切れた瞬間、チャイムが鳴った。下校時間だ。
僕が呆けた顔をしていると、彼女は鞄を持って「ほら、鍵返しに行くよ」と言った。
「あ、うん」
僕はその言葉の真意を聞き返せないまま、彼女と一緒に教室を出る。
鍵を返しに行くタイミングで数学の
「
先生はクラスの担任ではないけれど、親身に相談に乗ってくれる人で、全校生徒から好かれている人望のある先生だった。
「ぼちぼちですね」
僕が返事をするとすかさずさほりんが口を挟んだ。
「嘘ですよ。逢沢くん、さっき泣きそうな顔で『さほり~ん』って連呼してましたから」
「凄い嘘つくじゃん!」
篠田先生はけらけらと笑いながら僕たちを見る。
「まあ、今の時期はどうしても不安で眠れなかったり、眠くて起きられなかったりすると思う」
「後半は受験関係なくない?」
「受験って、大人になった今振り返れば、一個の通過点に過ぎないし、成功しても失敗してもそこから人生どうとでも転がっていくんだけどさ。今はそんな風に思えないよね。人生賭かっているような気すらするよね」
僕は小さく頷いた。
確かに親やネット記事は「受験なんて些細な悩みだ」と言ってくれる。
でも、そんな風に思えるはずがなかった。
「大丈夫。いっぱい不安になっていいし、その不安に打ち勝てるよう努力したらいい。それに、別に不安に負けちゃって努力しなくたっていいんだよ」
「……努力しなくたっていいんですか」
そんなことを言う先生は初めてだった。
「や、そりゃ努力してほしいけどね。基本的に努力は裏切らないし。でもね、一発勝負の受験は、一日二十時間勉強していても落ちることがある。それだけ努力しても、結果が駄目だったらたぶん後悔するでしょう」
「……」
「だから、『後悔のないように努力をしましょう』なんて言葉は先生には吐けない。でも、こんな言葉なら言えるかな。『納得できる一日を過ごそう』」
「納得できる一日?」
「ええ。どうしようもなく集中できなくて一時間だけカラオケに行った。その結果普段は一日十二時間勉強しているところを十時間しか勉強できなかった。でもこれって悪いこと? そうしないと十時間も勉強できていなかったかもしれない。こういう風に、自分の中で納得ができるなら、なにをしてもいいと思うんだ。逆に言うと、自分が納得していないのに軽率な行動をとるのは良くない。何かをする前にまず自分が納得できるかを考える。そして行動する。そんな感じで残りの日々を過ごしてほしいかな。あとはほら。高校生活を謳歌して、笑って卒業しよ?」
窓から差し込む紫がかった夕日が篠田先生の綺麗な横顔を照らした。自分がもう二度と得られないものを持っている僕たちに、何かを託すかのような言葉だった。
「がんばります」
色々な感情を受け取った僕は、絞り出すようにそう言った。僕とさほりんは先生に頭を下げて靴箱へと向かう。
「受験近いし、気を付けてね」
「はーい。さよなら」
靴を履き替えながら、篠田先生の言葉を思い出す。
納得できる一日を過ごす。確かに、納得というのは生きていくうえでとても大事な要素な気がした。
「よし、明日も勉強頑張るかあ」
「今日はもうしないの?」
「あー、いや、します……」
校門を出たら僕とさほりんは別々の道になる。僕は家まで徒歩で帰れるので、まっすぐ家へと向かうけれど、さほりんはバスで駅まで向かうため、バス停へと向かう。
ここで別れるのはいつも少しだけ寂しくなるけれど、こればっかりは仕方がない。
僕は気持ちを切り替えるかのように鞄を背負い直す。
僕がさほりんに「じゃあね、また明日。気を付けて」と言った瞬間、彼女と目線が交差した。
天曳の力が発動されたのを感じる。
八嶋紗穂は、人の心を読む超能力者だ。
ここで別れるのはいつも少しだけ寂しくなるけれど、こればっかりは仕方がない。僕はついさっき踏んだ思考を思い返す。
「……今、僕の心、読んだ?」
恐る恐るそう聞くと、さほりんはその質問に答えず、ゆっくりとバス停の方を見た。
「逢沢くんはひとりで自分ちにまっすぐ帰って行って、それで納得するんだね」
「――え?」
僕が彼女の言葉の真意を測りかねていると、呆れたような声色で言葉が続いた。
「駅まで一緒に帰ろうよ、って言ってるんだよ」
それは、相手の気持ちなんて知ったことではないと言ったような、強引な誘い文句。
人の気持ちに興味がないさほりんにしかできない、直球のお誘いだった。
僕はぎこちなく首を縦に振って、彼女の横に並んで歩きだす。
「え……駅まで送るよ」
「あは、ありがと、逢沢くん」
僕は思わず顔を伏せた。
今日が寒くてよかった。顔が赤くなっていても、寒さのせいにできるから。
このあとさほりんと駅まで歩いて、一時間くらい駅前のベンチで雑談をして、解散をした。さすがにさほりんの最寄りの駅までは送って行かなかった。
テンションのあがった僕は、すぐに家に帰る気にもなれず、一人でめいいっぱいより道をして、ゆっくりと帰路を進んだ。
ここで寒さにやられたんだろう。その夜、体調を崩した。
今日が寒くてよかった、と一瞬でも思った自分をぶん殴りに行きたかった。
そして翌日の昼、僕は駅前で天曳の力の能力者と出会う。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます