⑥私と因果応報
「大事な話がある」
食卓に着いた父親が真面目な顔をしていった。
見たことのある流れだ。
先日姉が引っ越しをカミングアウトしたときと同じ流れ。先日と同じようにお母さんがテレビを消す。姉も茶碗を置いて父親の方を向いた。
渋々私も注目する。
「仕事が決まった」
ふうん。
――え?
「就活、してたの?」
思わず本音を漏らしてしまった。ぎろりと父親に睨まれる。
「いろんなツテを頼ってようやくな。特別知名度が高いわけでも、給与がいいわけでもないが、この年齢で別に資格もない俺を雇ってくれる会社だ。いくことに決めた」
お母さんや姉がおめでとうと口々に言うので私もそれに合わせる。
ただ、就活が決まったからと言ってこの数か月のことがなかったことになるとは思ってほしくない。
「ただこの先が大事な話で。美紗」
父が姉を呼んだ。
「なあに」
「就職先は隣の県で、美紗の職場とそんなに遠くないんだ」
「――ッ」
思わず息を呑む。
「もしまだ家の変更が利くなら、俺と二人で暮らしてほしい」
姉の顔が複雑な色に染まる。
そりゃそうだろう。
せっかく逃げ出すことに成功したのに。
「うーん。ちょっと管理会社に確認がいるかも」
「頼む」
父親が頭を下げているのを見て、私はある種清々しい気持ちになった。
性格が悪いのはわかっているけれど、ズルをするとしっぺ返しが来るという言説に間違いはなかったんだ、と思った。
もし家が決まれば、姉と父親が二人暮らしで私はお母さんと暮らせることになる。
もはや寂しさはない。嫌な二人がいなくなって好きな一人と暮らせるのはいい話だ。
「いつまで二人で住むかはわからないし、いずれはこの家から通うことになるとは思うけど、とりあえず生活が落ち着いて会社に馴染むまではそうしたい」
お母さんも最初のうちは絶句していたものの、次第に話を受け入れ、それが全員にとっていい話だと納得したようだった。
姉の顔は見れなかった。
自分がどういう反応をしてしまうかがわからなかったから。姉に同情できるのか、それとも笑ってしまうのか。
どんな反応をしても駄目だと思ったので、私は目を伏せ、ごちそうさまですと手を合わせた。
去り際に、よかったね、と父親の方に向かって呟いた。
少し上機嫌そうな父親は、ああと頷いてテレビの電源をつけた。
久しぶりに、父と会話が成り立った気がした。
そのまま私は振り返らずに部屋に戻ってベッドに身を預けた。自分の中の複雑な感情と向きあおうとする。
私たちは、仲の良かった頃から大きく変わってしまって、それでも体裁上は少しだけもとに戻ったのかもしれない。姉は夢を叶え、父は仕事を見つけた。
姉は援助交際で金を稼いでいるし、父は私に一生消えない傷を残したけれど。
けれど、お母さんはその所業の多くを知らない。
つまり家族の輪を乱しているのは私だとも言えた。私だけが今、全てに否定的だった。
あの夜、姉のことを見ていなかったら、少しは感じ方が違ったのだろうか。
カラオケなんていかなきゃよかったな、と過去を悔やんでいると涙が滲んできた。
私は枕に顔を押し付ける。そうすることで余計に悲しくなってしまい、我慢できなくなって声をあげた。
その時、枕元で充電をしていたスマートフォンが震えた。
画面が自動的について、メッセージがポップアップで表示される。
送り主は
どうやらこの間図書館で会ったときに話題にあがった小説を読み終わったらしく、とてもよかったという感想を述べていた。逢沢くんは友達が多いので、私との約束なんて忘れているものだと思っ
ていた。
だからメッセージが来たことはとても嬉しかったけれど、返信をする気にはなれなくてそのままスマートフォンを枕元に置き直した。
逢沢くんからのメッセージで、もうすぐ登校日だったことを思い出す。
姉や父親の件に加えて春休みということで完全に生活リズムを崩していた私は少し焦った。
今は夜の九時前で、当然全く眠くなくて、きっと三時間後も眠くない。夜が更けるにつれて考え事が多くなって、眠くても眠れなくなっていく。夜とともに私の中の黒い感情が大きくなっていく。死にたいような、寂しいような、空しいような。全てを終わらせてしまいたい、早く楽になりたいという願望に支配されて行って、いつの間にか眠り、朝にはそんな感情も薄くなっている。それが、眠ることで正常に戻っているのか、夜になるにつれて正常になっていくのかわからないままここ数日を過ごしていた。
……ちゃんと起きられるかな。
逢沢くんからのメッセージのお陰で、珍しく私の思考が家族のことから学校の方へ向いた。
「――ねえ、紗穂」
向いたと思った瞬間に、半開きになっていた部屋の扉から姉が声をかけてきた。
「……なに」
自分でも驚くくらい冷たい声が出た。その声に気圧されたかのような、でも予想通りだというような表情で姉が私を見る。
「児童の養護施設ってすごいハードなんだって」
「……まあ、よく聞く」
彼女は何が言いたいんだろう。
私たちはもう雑談をするようなステージにはいないはずで、それは姉もわかっているはずだ。
「それに一人暮らし……まあお父さん二人暮らしなんだけど、ほらあの人ってそこまでしっかり家事とかするタイプじゃないじゃない? だから実質一人暮らしなわけで」
「何が言いたいの?」
なかなか本題に入らない話し方にしびれを切らした私は強めの口調で問う。
「私もお父さんも慣れない新生活で、隣の県とは言えどこの一年はあんまりここに帰ってこないかもしれない。もちろんお盆とかお正月は帰ってくるつもりだけど。だからさ、紗穂」
扉に手をかけたままの姉は、すごく優しい目をしていた。
私の知っているお姉ちゃんの顔だ。彼女は少しの間私の顔を見て、それからなんてことのない一言を言った。
「受験、頑張ってね」
そして扉が閉まった。
彼女は決して私の部屋に入ってこなかった。扉を閉める直前まで、姉は優しい目をしていた。
私は酷く戸惑った。
だって姉は今、そんな顔をしていてはいけないはずだから。
彼女は、自分の体を売って、魂を汚してまで勝ち取った一人暮らしという自由を失った。姉は失意の底にいるべきだ。
私が姉の立場なら妹にあたり散らしているかもしれない。
そんな状況で、受験がんばれ、だって?
姉が何を考えているのかが全くわからなくなった。怖かった。意味がわからなかった。
彼女は援助交際で貯めた資金で父親から逃げよう
として、でも逃げ切れなかった。そういう話じゃないんだろうか。
それらの絶望をあの一瞬ですべて飲み込んで気持ちを切り替えたのだろうか。
それとも言葉には嫌味と煽りが籠もっていたのだろうか。あの優しい表情で?
そんなはずがない。
わからない。
何もわからない。
知りたい。知りたい。
――姉の心を知りたい。
枕に顔をうずめると、一回引いた涙がまた出てきた。
「おねえ、ちゃん」
小さく呟いたその時。
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