④私と家族
家族四人で食べるご飯ほど美味しくないものはない、なんて一年前の自分に言っても信じてもらえないだろう。
少なくともその時の私は、友達と食べるご飯と同じくらい家族で食べるご飯も好きだったはずだ。
しかし元凶の父親は全く悪びれた様子もなく食卓に居座っている。何か言ったら「この家は俺の家だぞ」とか言ってきそうな始末だ。
だから私が出ていくしかないのだけれど、今日は結局夕方までベッドの上でうだうだしてしまったから晩御飯の時間に家を出るとは言いにくかった。
そんなわけで一日ぶりに家族四人揃った食卓になった。最悪だ。
大好きだったお母さんのハンバーグも味がしなくなっている。ハンバーグ。肉の塊。それすらもなんだか気持ち悪く思える。
箸が止まった。
お昼ご飯も食べていないからお腹すいているはずなんだけどな。
「あれ、紗穂今日なんか食べてたっけ?」
お母さんが心配そうに顔を覗き込んでくる。私は誤魔化しながらつけ合わせのポテトサラダに手を付けた。ハンバーグよりはよっぽど食べられる。ポテトサラダでお米を食べられたら何の問題もないのだけれど。
などと考えていたら、姉が突然意を決したように箸を置いた。
「どうした美紗」
テレビを見ていた父親が姉の方を向いた。
「あのね、大切な話があるんだ」
ただならぬ空気を察したお母さんがそっとテレビを消した。父親が一瞬怪訝な目を向けたものの、姉の雰囲気に負けて大人しくなった。
「就職先についてなんだけど。すぐそこに勤めるから実家から通うって話、撤回したいです」
私の喉から漏れた「は?」という声は、母と父の三つ分重なった。母親が慌てたように目を白黒させている。
「え、美紗、どういうこと? 働かないっていうこと? 何か問題でも起こしたの?」
「あはは、落ち着いてお母さん。順を追って話すから」
姉の話は単純明快だった。
姉は近所の介護施設に勤める予定だったけれど、本当は親のいない児童や、障がいを抱えた児童のお手伝いをしたかったらしく、三月の頭にダメもとで児童養護施設を志望したら採用通知が来た。
そういう職は人手不足なところも多く、三月になっても新卒の求人を行っていることはよくあったので、不思議な話ではなかった。
「でも問題が一つだけあって、今度の職場は隣の県なんだよ。この家からは通勤できないんだよね」
それを聞いて私の心に再び黒いものが広がっていく。
この家から、逃げるつもりなのか?
姉が志望した時期はちょうど八嶋家が荒れてきた時期と一致する。彼女はこの家で四人で暮らすことに嫌気がさして、一人だけ出て行こうとしているというのだろうか。
「でも美紗。夢を叶えたいっていうあなたの気持ちはよくわかるんだけど、あのね。美紗もよくわかっていると思うんだけど、うちにはあなたを急に一人暮らしをさせられるようなお金はないの」
申し訳なさそうにお母さんが言う。父親も珍しく気まずそうに目を伏せた。娘の夢をかなえられない不甲斐ない自分に対しては少しは思うところがあったのだろうか。
「大丈夫。これを見て」
姉がポケットから通帳を取り出した。大手銀行のものだ。
中に刻まれた数字を見て私は仰天した。
それは並大抵の努力で稼げる金額ではなかった。
「これだけあったら引っ越しの初期費用と、向こうでの生活が落ち着くまでの数か月分のお金にはなると思うんだ」
「……お釣りが来るわね。どういうこと? 美紗、あなたそんなにバイトしてたっけ?」
「うん。それにほとんど使ってなかったしね。一年間、月に十万円稼ぎ続けたって思うと不可能な数字ではないでしょ?」
「それはそうだけど。でも専門学校に通いながらよくやったわね」
私の耳に、姉とお母さんの会話は半分以上聞こえなかった。
――だって、そのお金は。
そのお金は真っ当な手段で稼いだお金じゃないだろ!
「大事な話中にごめん、ちょっとお手洗い」
気分が悪い。
昨日の援助交際が初回だなんて都合のいいことは思っていなかったけど、いざ姉が常習犯だということを突きつけられると吐き気が込み上げてくる。
お母さんに心の中で謝りながら、私は胃の中のものを全部吐き出した。
便器の縁に黄色い吐瀉物が飛び散る。トイレットペーパーを巻き取って拭き取る。
嘔吐の反射で目に涙が滲む。目が赤い。このまま帰ったら何か言われそうなので手を洗うついでに顔も洗い、タオルで拭く。
吐いたら少しだけ楽になった。私は出来るだけ平静を装いながら食卓への扉を開けた。
「じゃあ、認めてくれる?」
「そうね。一人娘にここまでやられたら認めざるを得ないでしょ。ねえお父さん」
「……そうだな」
私がいない間に姉の一人暮らし計画は着々と実現に向け進んでいた。このままだと姉は一人だけ出て行ってしまう。
私は、姉が逃げることよりも汚いお金を使っている方が許せなかった。いっそこの場で告発してやろうかとすら思った。
でも、お母さんまで傷つけたくはなかったし、万が一お母さんが姉を擁護などした日には、もうお母さんをお母さんと呼べなくなってしまうという確信があった。
「でも美紗、家はあるの?」
「一応物件は見ていて、それっぽいところには目途もつけてるよ。でも長い間の仮押さえとかは聞かないらしいからもう三日以内には決着をつけたいかなって」
「さすがね。そこまで考え切れているなら止めはしないわ。寂しいけど、お母さんは応援する。でもいつでも帰ってきていいからね。というか隣の県なら毎週末帰ってこれるんじゃない?」
「あはは、そうだね」
物わかりがよくて聡明なお母さんは、こうなったら姉は止まらないということを知っていたので、あとはもう好きにしなさいというスタイルだった。
父親は相変わらず少しだけ複雑な顔をしている。一人娘がこんな風にいきなりいなくなってしまう現実を受け入れられないのだろう。
もしかすると、一人で生きて行く姉と自分を比較していたのかもしれない。
「紗穂。さっきから黙っているけど何かある?」
姉が私の方をじっと見て聞いてきた。鋭い目線だ。
目と目があう。十五年以上付き合ってきた仲だ、彼女が何をいいたいかわかったような気がした。
『私のやっていることに気がついているんでしょう。告発するならここが最後だよ』
紗穂に告発されるなら構わない。そう思っているのだろう。
でも、家を出ていく姉の今後なんてとっくにどうでもよくなっていた。
だから私は吐き捨てるかのように「気を付けてね」とだけ言って食卓を立った。
私の席には冷めた食べかけのハンバーグだけが残っている。
自室に戻る直前、姉が父親に「お父さんだけに話したい大事な話がある」と呼び止めているのを聞いたけど、心底どうでもよかった。
受験まで残り一年。安らげる実家の象徴だった父親と、味方だと思っていた最愛の姉を失った私にとって、もう全てがどうでもよかった。
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