⑤僕と脅迫状
六時間目、化学。
授業は先日から有機化学の応用に入った。苦しんでいるクラスメイトも多いけれど、無機化学の暗記地獄を経験した僕にとって、有機化学はそこまで苦しい作業ではなかった。
暗記――特に化学の暗記は、似た現象や似た物質を紐付けていく必要がある。
塩酸と硫酸は〇酸だから両方危険! みたいな紐付け作業が暗記には欠かせない。
僕はその紐付け作業が全くはかどらなかった。
なぜなら、知らない物質の性質にはまるで興味がわかなかったから。もちろん人間のほとんどがそんなものに興味ないだろうけれど、僕の好奇心は文字通りゼロだ。
クラスメイトは試験や受験のため、頑張って現象や構造を調べていたけれど、僕はそこが億劫で、結局中途半端な暗記しかできなかった。
一方で、いまやっている有機化学はパズルゲームのような分野である。
実験結果などの少ないヒントから伏せられた物質にたどり着くゲーム。
例えると、料理の中に入っている食材や調味料を当てるような物だ。
食べてみるとしょっぱいから塩が入っている。子どもが美味しく食べるからピーマンは入っていない(要出展)。のように、伏せられた物質を解読していく。
これはパターンと少しの暗記で簡単に解くことができるため、応用範囲も意外とついていけていた。
化学の先生は、未だにプリントを配るタイプの先生だったので、シャーペンを取り出した僕は一問目を数分で軽くこなし、二問目を解き――
瞬間、世界から音が消失した。
まるで世界から拒絶されているような虚無感と孤独感を覚える。
これはつい昨日体験した感覚。
――時が止まっている。
しかも最悪なことに、ちょうど二問目を解こうとした瞬間だった。
視界には無機質にプリントアウトされた文字の羅列と自分の両手、あとはせいぜいシャーペンくらいしか映っていない。
「い……今かあ!」
叫ぼうとしたけれど声は出ず。
やらかした。
……いや待て。僕何にも悪くなくない?
無駄と分かりつつも少しだけ動いてみようとして、もちろん動けずすぐにあきらめた。有機化学の問題を考える。この状態だと人より思考時間が多く確保できるからテスト中だと結構お得だな。
「……っとぉ」
時が動き出し、体が弛緩する。僕は少しだけ前につんのめって、吐息を漏らした。
さて、何もできなかったのは仕方がない。
僕はさほりんに自分の無能がバレないよう、出来るだけ何事もなかったかのように努めた。
止まった時の中で考えた二問目の解法を紙の上で転がし始める。
二行目を書き終えたところで机の上にさほりんの手が伸びてきた。手紙を置いていく。
『いま、時間止まったの?』
手紙には簡潔にそう記されていた。げ、バレてる。
僕は首を少しだけさほりんの方に向ける。
彼女も同じく、少しだけ首を傾け、僕と目を合わせた。
――それだけで、彼女にすべて伝わるから。
八嶋紗穂の天曳の力は、【読心】。
彼女は人間の心を全て丸裸にしてしまう。
声が聞こえる程度の距離感なら任意のタイミングで心を読むことができるし、人と目を合わせたら自動で相手のすべての思考が流れ込んでくる。
その能力の代償に、彼女は人間の気持ちへの関心を失った。
さほりんが口癖のように言う「人の気持ちに興味ない」という気持ちは、心の底から言っているのだ。
基本的に人間の思考というものはぐちゃぐちゃで、それら全てが頭に流れ込んできたらさほりんまでめちゃくちゃになってしまう。それに、心を覗かれて気持ちのいい人間もいない。だから彼女は基本的に能力を発動することはない。
僕は思考が単純らしく、また、心を読まれていることを認識できるので時々読まれる。
毎日数回は読まれているし、僕の心を読んだ上で、それに対してツッコミをいれてくるため、時々周りからも不思議に思われる。
僕はそんな特別な関係が少しだけ嬉しかった。
変な気持ちまで読まれてしまうのは少し気まずいけれど。
彼女とのやりとりは一方通行のメッセージだけど、授業中に言葉や紙を交わさずに情報を送れるのは便利だ。
僕は出来るだけ雑念を振り払い、時間が止まったけどプリントしか見えなかった、と伝える。
さほりんはすごく険しい顔をして、表情で「無能」と伝えてくる。これくらいは天曳の力がなくてもわかってしまう。かなしい。
僕がさほりんの表情にへこんだその瞬間、教室の後ろで急に「え?」という声が上がった。
先生も含めた全員が一斉に声の主、
「あれ? え?」
彼はクラスからの視線に気が付かないほど狼狽していた。手にはA4サイズの紙を持っている。
大貴の後ろの席の翔がその紙を覗き込み、同じように「うわ」と動揺した声を出した。
彼の席を中心にざわめきが広がっていく。見かねた先生が「授業中だから一旦座れ。如月、どうした?」と言いながら彼の席へ歩いていった。
「いや、あの、俺、今演習やってて。真面目に解いてて。だから寝てたりぼうっとしたりしてないんですよ」
誰にともなく大貴は言い訳をしている。
先生もあからさまに寝ていたわけではないことを確認していたようで、大貴を落ち着かせるように両手を前に出す。
「そうだね。寝ていたようには見えなかったよ。なにがあったんだ? 落ち着いて話してくれないか」
「あの。本当に突然、これが教科書の上に置かれていて。自然に置かれすぎてて最初は気付いていなかったんですけど、内容が……」
震える声で大貴が言葉を続ける。
「初瀬まどかと別れろ、って」
その言葉を引き金にして再びざわめきが教室を包んだ。
A4サイズの紙には、真っ赤なマジックペンで「初瀬まどかと別れろ」と書いてあった。
如月大貴と初瀬まどか。
毎日一緒にお昼を食べ、一緒に帰るほど仲の良い、学年のベストカップルだ。その大貴に、脅迫状?
「はあ?」
その内容に人一倍大きく反応したのは当の本人初瀬まどかだった。机を両手で叩き、すっと立ち上がる。
授業中にもかかわらず初瀬は教室の対角にいる大貴の席まで歩いていく。
「突然置かれていたってどういうことなの? 大貴、説明してもらえるかしら!」
先生までもがその勢いに呑まれ、固唾をのんでいく末を見守っている。
「だから言ったとおりだよ。俺もいつどの瞬間に置かれたのかわからなかったんだ、本当にいつの間にか、ここに出現していたんだよ」
「そんなことあり得ないでしょ。ぼうっとしているうちに前後か左右の誰かが置いたんじゃないの?」
初瀬は大貴の周りに座っている四人を睨みつけた。
唯一後ろに座っていた翔だけは、「さすがに後ろの席から手紙を置くのは無理でしょ」と小さく呟く。
それに呼応するかのように固まっていた先生が口を開いた。
「授業中にそんな紙が回っていたら僕が気付くよ。この授業中に回った手紙は八嶋から逢沢への一通だけだ」
「はぇ」
突然名指しされた僕たちは間抜けな声を出す。ばれていたのか……
「まどか、そうやって誰かを疑うのはやめろよ。俺だって誰かが手紙を置いたんだったら気付くよ!」
大貴は少しだけ声を荒げて、クラスメイトを庇った。
しかし初瀬は悲しそうな顔をして、
「だって……だって、だったらもう自作自演しかないじゃない!」
と叫んだ。
「あなた以外の誰もが置けないなら、自作自演しかない! 自明よ。どういうこと? そんな脅迫状を自分で出して。別れたいならはっきり言えばいいじゃない!」
僕は迷いながらさほりんの方を向いた。
彼女は興味なさそうに、つまらなさそうに二人の方を見ている。
手紙を置いたのは間違いなく時間を止めた人間だ。
時間を止めている間に大貴の席に移動し、机の上に手紙を置いたのだろう。
大貴からすれば突然手紙が出現したように見えるに違いない。
だけど、それを初瀬にどうやって伝えればいいんだ!
能力者捜しはあとだ。まずは初瀬をなだめなければならない。
僕はゆっくりと息を吐いた。
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