与那嶺信吾 1

 パチンッと糸を切る音が手術室に響き渡り、周りの医師達の頬が緩んだ。俺も、鋏を金属トレーに音を立てて置いてから頬を緩めた。拍手が起こり、一礼してから拍手の返事として、お疲れ様でした、と云った。

 俺にとっては人生初めての臓器移植の手術で、ドナーが自分の手の上に乗ったときは、緊張のあまり足がガクガクと震えた。

――と云うのが昨日のお話。

 あの――俺の人生の中での――大手術のせいで、自分の年齢が十程上がったように思えた。つまり、臓器移植は俺にとって、重荷過ぎる物だったのだ。

 今日も虫垂炎の手術が入っていたのだが、もう俺にはそんな気力は残っておらず、清水に変わってもらった。

 清水は、分かりました。昨日は本当にお疲れ様でした。と云って引き受けてくれたが、では、患者の見回りがありますので、と云って俺に背を向けたときに一瞬、見えた清水の目は、押しつけるなよ、と云っていた。

 しかし、逆に今手術としたら成功するだろうか? 成功率は一割も無いであろう。つまり、清水に変わってもらったのは自分、そして患者のためでもあるのだ。人の命を左右する仕事のため、大丈夫でしょ、などと生半可な考えで行動することはできないのだ。

 自分が今やれる仕事を全て片付けて一服していたとき、武藤に話しかけられた。

「与那嶺先生、昨日の話覚えてますよね?」

「ああ、ちゃんと覚えてるよ。で、何だっけ?」

「覚えてないじゃないですか。今日は飲みに行くんですよ、先生の昨日の大手術成功を祝って」

 慥かに、昨日疲れて瀕死だった状態の時にそんなことを云われたような気がする。

「ああ、そうだったそうだった。で、いつからだい?」

「今からですよ! 皆さんもう、今日の仕事は終わってるんですから」

「あ、そう。じゃ、準備するから待ってて」

「分かりました、では、玄関集合でお願いします」

 そう云ったものの、昨日の疲れは完全には取れていなく、酒を飲む気にはなかなかなれる気がしなかった。行ってしまえば飲めるだろう、と思っての返事だったが、本当にそうなるだろうか……と心配しながら玄関に向かった。

 玄関には、俺の病院の外科医、ナースが集まっていた。代表なのか、武藤が人数を数えて全員がいることを確認し、先頭を歩いて集団を店に案内した。

 店に入ると、そこに客は全くいなかった。

「武藤君、もしやこれって……」

「当然ですよ与那嶺先生、貸し切りです!」

 当然ですよ、じゃないだろう、貸し切りはやり過ぎだ、と云おうと思ったが、昨日の俺の手術成功の祝いとしてやってくれていることを思い出して、「すごいな、ありがとう」と、云った。

 それに、この店はうちの病院の医者達が常連になっている店だから、貸し切りにするのもたやすいことなのかもしれない。

 その後俺たちは座敷に案内され、飲むもの食う物を注文した。最初に酒が全員分来た。すると、武藤が与那嶺先生から挨拶をもらいましょうか! と云い出したため、俺は酒に手をつける前に立ち上がった。

「えー、今日は、武藤先生から聞いた限りだと、昨日の私の手術成功祝いとしてこれを開いてくれているらしいのですが、合ってますかね?」

 皆がうなずく。

「はい、ありがとう。昨日はね、本当に俺にとっても特別な日だった。やはり、初めての臓器移植と云う物は緊張するよね。別に、自分の腕に心配があったわけじゃ無いが、今回のドナーは、患者の父親から分けてもらった形になっているんだ。つまり、二人分の命を同時に預かっているような物なんだよ。

 今まで虫垂炎などの手術は多くやってきたが、二人分の命を預かった手術は無かった。だから、父親から切り取ったドナーが自分の手の上に乗ったときは緊張で失神しそうだったよ。それでね、今回分かったことがある。臓器移植の手術はベテランに任せよう。素人がやっちゃ、重荷過ぎるからね」

 笑いが起こり、与那嶺先生も昨日からベテランですよ! などと声が上がる。

 俺が座るのと入れ違いに武藤が立ち上がり、「では! 与那嶺先生の、臓器移植ベテラン入りに、乾杯!」と云った。

「かんぱーい!」

 ベテラン入り、と云うところは笑えなかったが、気にせず酒を喉に押し込む。ジョッキの四分の一あたりまで飲んで、テーブルに置いた。周りからも、ゴンッと音が聞こえてきた。

 それから食べ物が何個か来て、後は酒を飲みながらただひたすらに周りと話した。

 外科医が何を云ってるんだ、とよく云われるのだが、俺は食事中に手術の話をすると気持ちが悪くなるのだ。そのため、なるべく日常的な会話をするように努めていたのだが、やはり周りからは、昨日どんな感じでした⁉ と聞かれ、手術の話をせざるを得なくなった。そのせいで、腹は減っていたのだが食が進まなくなり、空きっ腹に酒をどんどん押し込んでいく形になって、酔いが早く回った。

 それからと云う物、何を話して、いつお開きになり、どう云う方法で帰ってきたのかが全く分からないまま、気が付いたら家にいた。

 手術のことが頭から離れ、やっと食欲がわいてきたが、酒が腹を満たしていたためかカップ焼きそばミニだけしか食べられなかった。

 腹を満たすと、強烈な睡魔が俺を襲い、ソファに俺を沈めた。

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報復 夜ト。 @yoruto211

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