閑話2:未来人的マネタイズ
沙矢に内緒で来たスーパーで、僕は安売りの黒毛和牛を見つけた。
割引されている。それは事実だ。でも元が高いためにお値段二割引きで1700円である。買えない金額ではないけど普段の料理に使う肉としては少しグレードが高くて手が届かない。これを買ってしまえば最後、予算的に付け合わせの野菜はもやしの見切り品で確定だ。
悩ましいと思う。金が欲しい。無論、或る程度でいい。巨万の富は僕には必要ない。この人生、フリーターとして身の丈に合った生活をしてきたが、衣食住に不満に思ったこともない。きっと唐突に1億とか手に入れたら僕は身を滅ぼす。高い食材を買って、高い家電を買って、高い家を買う。そうやって階段を一つ一つ丁寧に上るかのように、見方によっては下るようにして、金銭感覚が転がり落ちていって最後は奈落にホールインワン。そんな将来が鮮明に見える。
一応、この前の事件の件で僕の預金通帳には120万円という文字が刻印されている。高校生が持つにしては大層な額ではあるが、社会人からすると少し感想が変わる。何か月この金で生きて行けるか暗算してしまう。例えばこの額面なら生活費10カ月分くらいか。いや、今の僕であれば家賃が無い分もっと長く暮らせるな。
でも120万円なんて金はすぐに吹き飛ぶ。纏まった金には違いないけど、何か不幸があれば一瞬で飛ぶ額だ。何かあっても凌げるくらいの蓄えが要る。僕一人ならどうにでもなるけど沙矢がいる。沙矢に不便を掛けたくない。
割引シールの張られた黒毛和牛を見ながら再度金が欲しいと思った。1億とは言わない。20分の1でいい。500万円あれば多少安心できる。まあ僕の非正規雇用人生の中で、そんな額が溜まったことはないんだけども。だからこそある一定規模の貯蓄に対して憧憬の念を抱いてるのかもしれない。
ともかく、黒毛和牛は諦めた。牛肉自体も諦めることにして、僕は豚肉を手に取る。豚肉の小間切れ。500gで450円くらい。黒毛和牛くらい割引じゃなくとも今の懐事情ならば買えるが、長い一人暮らしによって身に沁みついた節約根性から、牛肉に手を伸ばすことすら惜しいと感じて、安さに逃げてしまった。でもこれでいい。普段の食生活で贅沢をしたらすぐに首が回らなくなる。なにより目をつい惹かれてしまっただけで、牛肉を買う気は最初は欠片も無かった。
その他の食材、野菜などを買い漁って帰宅。キッチンで買ったものを冷蔵庫へ収納していると、沙矢がどたどたやってきては僕の前で仁王立ちした。自身の領分を侵害されて、僕を責めようとしているみたいだった。
「家事してる!」
「してないしてない」
「買い物してきてるじゃん!」
「趣味の買い物だよ」
「趣味でスーパーに行くとかありえないでしょ!」
相変わらず僕が家事をすると拒否反応を起こす。理由は既に知ってる。僕が家事さえしていれば守ってやる、みたいなことを昔言ったらしいからだ。そして結婚するとも。それが回りまわって沙矢自身のアイデンティティへと変化を遂げたのだろう。
でも趣味というのは本当だ。スーパーに行ったことがバレると少し五月蠅く言われるかなと思って内緒にしていただけで、趣味でスーパーに行くという考え方は案外成立する。
「趣味だって。食品を見るのは楽しいからさ。新商品とか割引商品とか、見ていると夕飯を何にするか考えて心が躍らない?」
「そんなこと考えているの!?」
なんか驚かれてしまった。少しして気付く。高校生の僕がこんな感想を抱くのは違和感がある。ちょっと失敗したな。
「ともかく今日は僕が料理して良いかな。食材は買って来たんだ。これも趣味だから」
「ううう駄目だよ家事はわたし! 絶対にお兄ちゃんに包丁は握らせない!」
そう言って沙矢は僕からレジ袋を奪い取った。ちょっと凹む。久々に雑に作る男料理の野菜炒めが食べたくなったけどお預けとなりそうだ。
リビングのソファーに座りながら、僕の頭は再び金勘定を始める。
金はあればあるほどいいとは限らない。庶民にとって金は薬であり毒でもある。過ぎた札束は人生が倒壊する原因になる。だから500万円くらいで良い。その程度あれば問題ない。これはインターネットで五兆円欲しいと宣っているオタク達よりもよっぽど謙虚な願望のはずだ。しかし真っ当に働いてる社会人ならば普通に預金されてる額なのかもしれないなとか思ってふと死にたくなった。500万円くらいは平均的に稼ぐからこそ、インターネットの住民たちは自分の稼げる額ではない、現実味のなく遠大な金額を挙げているのかもしれない。星に手を翳すのと同じだ。
そう思うと同年代に一籌を輸する矮小な自分が情けなくなった。過去の自分の怠惰が現在に刺さる。僕だって働いてはいた。ただ非正規なので賞与がなく給料が雀の涙だっただけで。いつだったか話題になった、同一労働同一賃金は僕からすれば理想論でしかなかった。現実は過去から地続きで不平等のままだ。やるせない。
詮無きことを考えているとボートレースのCMが流れ始めた。ボートレース、賭博か。残念ながら僕はボートレースには詳しくない。選手の名前など1㎜も分からないし、更に言えばこの世界は10年前かつ別世界だ。分かる理由が一つもない。
でも光明の兆しが見えた気がする。そうだった、僕はついつい忘れていた。ここは一応10年前の世界でもあるんだ。この世界の社会は、男女比が狂っていることを除けばほぼ同じで、もしかしたら未来の知識を利用して稼ぐことだって可能かもしれない。
そこで確かめることにしてみる。僕は部屋にあるパソコンを起動した。今更だがパソコンはWindows 8だった。最近のWindowsのUIで最も使いづらいバージョンである。これは僕だけではなく、PCユーザーは皆同意する共通観念だ。2023年になってもWindows 7が結局のところ最強だ。使いやすさといいアップデート時の挙動といい、勝る点は多い。一方2013年9月に話は戻って、あと少しすればWindows 8.1が出るとか世間は賑わっているが、未来人の僕が予言をしてやろう。使いやすさは欠片も改善されないぞ。
5ちゃんねるでジョン・タイターごっこが出来るな、などとしょうもないことを思いつつ、一銭にもならない上にリスクしかないためやる価値無しとその思考は1秒で打ち切って、代わりにもっと建設的なことを考えてみる。
そう、例えば株の投資だ。この世界にも知ってる企業は数多くある。その中で今はジャンク債として安売りされているがこれから先伸びる会社の目星を付けてみる。取りあえず2社見つけた。どちらもこれからITベンチャーとして業績が急上昇する企業だ。2023年なら有名でも2013年ならまだ無名だ。算盤を弾く必要もなく、これなら確実に儲けられる。
資本投下したいと思ったけど、問題は証券口座の開設だ。僕が初めて株について調べた時、法改正により証券口座の開設可能な年齢が20歳から18歳へ引き下げられたと聞いた。でも今は間違いなく20歳のはずで、調べればその裏付けとなるネット記事はすぐに出てきた。親の同意があれば開設できるらしいが、生憎と家族仲は微妙だ。母親については出て行っている。だからもし説得するとすれば父親ということになるが、僕は未だにどういう顔をしてこの世界の父親と話せばいいか分からない。ただでさえ自分勝手な人生を送ったこともあり、純粋に苦手意識がある。申し訳ないが可能な限り対話は避けたい。良い大人がこんなことを考えてるのはとても恥ずべきことだなと思うが、自分の気持ちに嘘を吐けるほど僕は器用じゃない。そんな言い訳をして株式投資は辞めることにした。
同じ理由から仮想通貨も駄目だ。ビットコインとかいう不定形の資産が登場したのが2010年くらいで、突如価格が化けたターニングポイントが2度あって、2018年前後と2021年後半。今買えば億り人になれるだろう。まだ間に合う。しかしここでも立ち塞がるのが民法上の規制だった。20歳未満は口座開設が出来ない。僕はトランスエイジではないので、自認するのは精神衛生上に難があるが、一応これで17歳ということになっている。諦めることにした。
初心に戻ろう。そもそも沢山稼ぐ必要はない。億とかあっても持て余すだけだ。
小銭稼ぎなら公営ギャンブル、競馬とかだろうか。だが今思うと競馬やパチンコも法律上成人しないとやってはならないことになっている。どちらも大人に紛れ込んでやろうと思えば出来るが、それは倫理的に良くない。沙矢の教育にも悪い。もし沙矢が僕の背中を見て育って、今後パチプロで生活していくとか言い出したら僕は自分自身を殴らない自信がなかった。
とはいえ何だか勿体ない。投資もそうだけど、競馬についても一時期、某競走馬の擬人化ゲームに一年くらいダラダラとハマっていたことがあって、その関係で現実の競馬も少し嗜んでいたことがある。賭けたことはない。飽くまで有名なレースや競走馬の歴史を追いかけただけだ。にわかファンの極みなのは間違いない。でも2013年のG1有馬記念、少なくともその一着だけは興味本位で調べたときにインプットしていて、偶然にも今も覚えている。でもよくよく思い出してみればその馬は1番人気だったような。つまり単勝馬券じゃさして稼げない。二着三着はうろ覚えだ。でも人気馬だった気がする。つまり順当にベットすれば間違いなくガミる。これじゃ意味が無い。まあ年齢の都合上思考実験でしかないけど。
実際の話、何も稼ぐだけなら未来知識を使う必要はない。この世界は男女比が女性に傾倒している世界だから、それを利用して僕の知っている世界で言うところの、レンタル彼女的なサービスに登録すればいいだけの話だ。多分そういうアルバイトだって探せばあるだろう。当然論外だが。理由は同じ。沙矢の教育に悪い。あと沙矢の機嫌も怖い。僕が言うのもおかしな話だけど、沙矢は非常に僕に懐いている。ブラコンと言っても良いくらいに。きっとそういうバイトをしたら殴られるとかじゃすまないんだろうなあと予想してみて、求人からは自然と手が遠ざかった。
そうか、沙矢の機嫌も考慮するとより金稼ぎというものの難易度があがるな。性別を利用したアルバイトが出来ない。どちらにせよ学力が青函トンネルの如く地下深くを潜っている僕にアルバイトをする余裕があるかと言えばないのだが、取れる選択肢が減るのは残念に思える。非常に残念だ。
僕は考えを重ねる。本当は勉強をしなきゃならないところを参考書を脇に避けて、思考を練る。何度も言うように僕は未来の知識を生かして巨万の富を得ようだなんて考えていない。僕は一庶民でしかない。ただ何かあった時に沙矢と一緒に無事乗り切れる貯蓄を作りたいだけだ。
二時間ほどペンとルーズリーフを動かして漸く考えが纏まる。僕は近巳さんへ連絡を取ることにした。
アポイントメントは翌日の夕方だった。話す内容が内容なので、電話ではなく実際に会うことにした。近巳さんから送られてきたマップの画像は事務局近くの飲食店にピンが立っていて、来てみて初めて分かったのだが、これ居酒屋じゃないか。個室居酒屋。僕が未成年者であることを忘れてやいないかこの人。
店の前で近巳さんが携帯を弄りながら立っていて、僕に気付くと手を小さく上げた。
「お、来たわね」
「お久しぶりです近巳さん」
店の外で待っていたらしい。それもそうか。流石に未成年者を一人で店に入れるのは不味い。ましてやこの人は公人だしな。
「ここ行きつけなのよ……まぁ来るの久々なんだけどね。ホントに久々」
「居酒屋ですよね?」
「そうよ。でも安心して、ここの貝が美味いのよ。あと鯛の煮付け、アレは絶品ね」
「いいですね、ビールと合って」
「貴方はダメよ。成人を待ちなさい」
思わず素で答えてやってしまったかと思ったが、近巳さんは冗談と捉えたようだ。
近巳さんが先導して暖簾を潜る。僕はその後をついて行く。居酒屋なんて何年ぶりだろうか。酒が苦手な訳じゃないが、成人してから片手で数える程しか来たことがない。我ながら悲しきかな、居酒屋に連れ立つ友人がいなければ、一人で行くほど酒が好きなわけでもなかったからだ。僕にとって酒とは常に現実逃避を実行に移す手段の一つでしかなかった。
「何でもいいわよ」
案内された席でメニュー表をこちらに渡すと、近巳さんは僕へ目を向けた。
感謝を述べながらメニューに目を走らせる。海鮮が多いみたいだ。刺し身、魚の煮込み、姿揚げ。色々ある。
「ではこの魚のお造りで」
「それだけ? 何品でも頼んでいいわよ?」
「それは流石に遠慮が勝ちます」
「男子高校生と居酒屋なんて、私の生涯最初で最後の経験になるだろうからいいのよ。それに可愛くない部下共へ自慢出来るし」
遠慮がちに言ってみれば、割とどうしようもない下心が返ってきた。いや、これは本心じゃなくて僕が頼みやすいように方便を使ってくれただけか。そう考えると大人だ。真っ当に僕よりも気の遣える大人だ。相対的に湧き出た劣等感が胸中で暴れかける。
「それに、それだけじゃ足りないでしょ? もっと食べた食べた」
そう言って近巳さんは呼び鈴を鳴らすと、刺し身の他に海鮮鍋と鯛の姿煮、それからブリ大根を頼んだ。飲み放題コースも付けた。何故か僕の分まで。聞けばソフトドリンクだけの飲み放題が無いから代わりにと弁を立てていたが、果たして公人としてその立ち回りは良いのだろうか。どうしようもない欠点を見た気がして少し胸がスッとした。
少し待つと次々と料理が運ばれてきた。いやはや、一品一品が予想以上に量が多い。ここは居酒屋の中でも量を積むタイプの店のようだった。これを知っていて尚、近巳さんは注文を重ねたのだろう。男子高校生の食欲を過剰に見積もり過ぎだ。こと僕はそこまで大食漢ではない。頭が痛くなった。
「なに、よそってあげるわよ。取り皿よこしなさい」
注文した品が全て出揃う頃になると、近巳さんは血気盛りな大声で僕の取り皿を掠奪した。口元には早速頼んだ生ビールの白い泡が付着している。それを気にせず大ジョッキを二口で空けると、今度はビールと焼酎を同時に頼んだ。察してはいたが近巳さんは鋼鉄の肝臓を持つ酒豪の類だ。
それにしても、今日はこれでも込み入った話があるという前提でアポイントメントを取ったはずなんだけどな。勘違いされてそうで不安だ。
「あの、少し聞きたいことがあるんですが」
「なにかしら?」
「一応真面目な話をするって言いましたよね。何故この場所に?」
「酒が飲みたいからよ」
聞いてみれば打つ手なしのアル中末期のような返答。これを支局とはいえトップに置く組織は大丈夫だろうかと、野次馬ながら心配になる。
「安心しなさい。物事はアルコールがあるくらいが丁度良いのよ。私は酔わないわ」
「酔っ払いの常套句ですよね?」
「じゃあ私の常套句ではないわね」
屁理屈だ。心底そう思った。この人、大丈夫だろうか。
とは言え、こうして呼びつけてしまった以上、僕の近巳さんへの評価値の急下落はともかくとして、落胆を隠しつつも本題を切り出すしかない。近巳さんは悪くない。自分の見る目の無さを呪うべきだ。
「では早速本題なんですけど、投資とか興味ありませんか?」
「ねずみ講ならやらないわよ」
「ねずみでもマルチでもないです」
近巳さんの目が一瞬鋭くなった。確かに僕の口火の切り方に問題があった。
「ここだけの話ですが、僕は絶対にこの先値上がりするであろう金融商品を知っています」
「胡散臭さが増してるわよ。詐欺師の語り口じゃない」
「一旦その部分は流してください。そこは単純に僕のトークスキルが未熟なだけなので」
焼酎を一杯飲み干すと近巳さんは頷いた。話を続ける。
「実を言うと、僕は未来人です」
「……もう一度言ってくれないかしら。周りの雑音が酷くて聞こえなかったわ」
「証明は出来ませんが10年後の未来から来ました。あ、これ近巳さん以外に言ってないのであまり言いふらさないでくださいね」
「どうでもいいわよ……それより冗談よね?」
ジョッキから手を離して僕に視線を向ける。冗談じゃない。本気も本気だ。だから少し前までは困っていた。
「少なくとも僕の中では純然たる現実です。他人からすれば信じ難いのは承知の上で。信じてもらう一つの手段として、ここで今後の日本経済を占ったり世界情勢の未来予知をしたり大規模な自然災害の時期を言い当てたり、未来を語ることは出来ます。でも今この場においては意味がありません。長期的な事は言えますが短期的な未来は僕自身が覚えてないからです。だから証明は出来ません」
「……興味本位で聞くけど、貴方は私が知る比影くんよね」
その言葉に察しが良いなと思った。やはり頭の回転が早い。答えはYesだが、沙矢からすればNoだ。徒凪さんから見ても厳密にはNoだろう。
「はい。ご想像の通り僕はタイムリープして今この場にいますが、近巳さんと初めて会ったのはタイムリープした僕です」
「そう。それで、その仮説を前提にして私に話したい事って何?」
「ちょっとお願いがありまして。そう大したことじゃないですけど」
「タイムリープの話を前座にして頼むことが大したことじゃない? そんなことがあるのかしら」
疑いの目だ。全く自覚していなかったが、逆の立場なら僕でも、それこそ世界の根本を変革させるような壮大な依頼がくるんじゃないだろうかと身構えてしまうかもしれない。しかし現実、そんなことはない。僕は何処にでもいる善良な一市民のつもりだ。今から僕が近巳さんにしようとしているお願いとの落差でガッカリさせてしまわないか少し心配になった。
憂いを今更感じたところで引く場面は過ぎてしまっている。話さないという選択肢は無い。
「まあ、なんといいますか、僕の代わりに投資をしていただけないかと」
「投資というと具体的には?」
僕はルーズリーフを取り出すと、近巳さんの方に向けて机に広げた。事前に情報を纏めておいたものだ。
指差しで、掻い摘んで伝える。
「この会社と、この会社。それからこの仮想通貨。一攫千金が可能です」
「そう。良くある映画ならその投資が未来を変える布石になるのよね……別に未来人って言葉を信じた訳じゃないわ。でも何を企んでるのよ貴方」
「沙矢のために貯蓄を作ろうかと」
「はあ」
初めて近巳さんの間抜けた顔を見た。まあ短い付き合いだ。そういう事もある。
「いま、僕は沙矢と二人暮らしなんですよ。両親は既に別居と言うか、母親が出て行きました。親からの仕送りで何とか生き永らえているんですが、何か予期せぬ出来事があった時に対応できるほどの金銭はありません。僕一人ならどうとでも生きていける。でも僕には沙矢がいます」
「なるほどね。苦労してるわけね」
同情する様な瞳が向けられる。別に同情されるほど悲惨な暮らしをしていなければ、衣食住での苦労もない。否定しようかと思ったが、否定しない方が思い通りに物事が進みそうな気がする。結局曖昧に頷くことにした。
「まあ理由は理解した。でも何で私に頼むのよ? 未成年ってのがネックなら親御さんにでも頼めばいいじゃない」
「少し言いづらいんですが、折り合いが良くなくてですね……」
「ほぼ他人の私よりも?」
「時に親類は他人よりも厄介になります」
「……一理あるわね」
近巳さんは溜息を吐いた。そのまま生ジョッキを傾けるとグラスを半分まで減らす。
「私も毎年帰省すると必ず母から結婚はいつかと催促されるわ。この社会でそれがどんだけ難しいか知ってて言うからタチが悪い。ましてや現代人の価値観も変容して、結婚が人生のオプションでしかないと考える男も増えてきて、昭和時代よりも難しいっていうのにね」
「これから先はもっと大変だと思いますよ。男女の価値観は元来往々にして合わないので、互いにライフスタイルを合わせる努力をしないといけないという前提から話をするんですが、その努力を投じる価値が結婚生活に果たしてあるのか。個人の幸福に着目した時に子供はいない方がいいんじゃないか。そんな観念がより普遍的な通念になります」
「嫌なお墨付きね。増々やる気が失せたわ」
「究極的な意見として、現在の個人の幸福を最大限に追求をするなら収入や環境的に結婚しない方が良い人の方が多いですから」
「変に俗世を悟った意見ね?」
肩を竦めた。僕も結婚については関心がある。無論収入的に前のめりにはなれなかったのだが、それはともかくとして、やはり結婚はギャンブルだ。特に令和ではコンプラやハラスメントなどで社会倫理がシビアになって、出会いの場は著しく減少した。それと同時に結婚生活の艱難辛苦がSNSで見えるようになったのもある。勿論幸せに暮らす人たちはいるが、SNSではその性質上どうしても事件性がある話題の方が声量が大きくなる。独身者がそれを見て結婚願望を減退させるのは令和では有り触れた光景だ。素人考えだが女性が多いこの世界でも確実にその末路を辿ることだろう。
「ネットで見た物事を言ってるだけですよ。それに実年齢は高校生でもありませんし」
「それもそうね。10年と言ったら、実年齢は26歳、27歳くらいかしら。ホントなら私と同年代じゃない」
「ええ。それよりも話を戻しましょう。何も僕は近巳さんに善意でやってもらおうだなんて考えていません」
「へえ?」
「限りなくローリスクハイリターンで投資してもらおうと考えています」
「これまた胡散臭いことを言うじゃない」
思わず苦笑いをして首を縦に振った。僕も同じ気持ちだ。ローリスクハイリターン、真っ当じゃない高還元な利率、今だけ貴方だけにお教えします。全部詐欺師の枕詞だ。しかし、今回に限ってはその限りじゃない。僕の知っている未来と同じ足跡を辿るのであれば、この投資は成功する。
「内容を言います。投資の元手は110万円。僕がこの前受け取った金額の殆ど全部です。これを近巳さんにあげます」
「あげますって簡単に言わないで頂戴。公務員よ私。受け取れないわよ」
「そうですか。なら空買いって分かりますか?」
「詳しくないわよ。金融取引の手段の一つよね。証券会社に担保を入れることで自己資金以上の金額の株の売買が出来るとか、昔大学の教養科目で習ったわ。あってる?」
詳しくないとか言う割に十分な知識を持っている。教養科目で習ったのならきっと近巳さんは経済系の学部出身じゃないのだろう、にも関わらずここまで覚えているとは僕と脳の出来が違う。僕なんて専門科目すら殆ど覚えていない。まあ実質半年しか大学に居なかった訳で、その後中退してるから当たり前といえば当たり前なのだが。ともかく説明が楽でいい。
「はいそうです。厳密には全然違う形になるのですが、もし僕から資金提供されたくないというのなら、損が出てから僕に請求で構いません」
「私がこう回答すること、考えてたわね貴方」
「公務員と賄賂の相性は抜群だと思ったので」
「違いないわ」
第三者から金銭の贈賄を受けた公務員は汚職を疑われる。事実はどうであれ、その贈賄が賄賂に見えるからだ。特に近巳さんのような立場がある人であればより厳しく見られているだろう。
「で、貴方に利益の何割か渡すと」
「いえ、割合じゃありません。正確には税引き後の利益に対して割合4割、最大年110万円。これで文句は無いです」
「それでいいのかしら? 未来人を称するってことは、大金が稼げるんでしょう?」
「小市民なんです僕は。天文学的な金があっても碌なことにならないでしょうし、身の丈に合った貯金さえあればそれで満足なんですよ」
「堅実ね」
鷹のような視線に真っ向から答える。僕の手は大きくない。僕が抱えられるものはそう多くない。元々自分自身で精一杯だった。今は沙矢がいて、その分手を広げて何とかその精一杯を拡張することが出来た。更に大金を懐に入れるのは明らかなキャパオーバーだ。
少しの間、会話が消える。皿に盛られた料理を口に運ぶ時間だ。近巳さんの店選びのセンスは良いみたいで、魚が美味い。味が染みた鯛の煮付けで箸が進む。ビールが久々に欲しくなった。
舌鼓を打っていれば、近巳さんが口を開く。
「……今気付いたわ。110万って贈与税の控除上限額かしら」
「はい。税金関連の処理をしたくないので」
「代わりに私に押し付けるのも違くない?」
「僕は高校生なので税務上の書類なんてとても出来ないんですよね」
「段々貴方にムカつく自分が恨めしいわ」
貴方は大人よ秋、いやこいつも大人だったやっぱ腹立つ。なんて小声で呟くのが聞こえてくる。ちょっと怖い。僕は気持ち少し距離を取った。
ビールの残り半分を飲み干すと、近巳さんは目線を下ろした。
「どれに投資させようとしているのよ」
「比較的早めにリターン出来そうなのはこの企業、おすすめは少々長期的な目で見る必要がありますがこちらの仮想通貨ですね」
「仮想通貨なんて初めて聞くわね」
疑問の声が上がった。考えてみれば仮想通貨が有名になったのはもっと後のことだ。それこそ暴騰した直後くらい。
「企業が作った電子上の通貨という認識で大丈夫です。ブロックチェーン技術というもので信用が担保されていて、セキュリティーは一応万全です」
「一応って何よ一応って」
「将来的に価値が暴騰したのちに約800億円の盗難事件が起きたので……」
「ガバガバじゃないセキュリティー」
呆れた顔をされて、僕も何も言えなくなった。
「幸いというか、大体いつ頃に盗難が起きたかは知っているのでそれまでに手を引いていただければ……」
「凄く雑ね……まあいいわ」
一定の納得を得られたところで僕は近巳さんに更にプレゼンを行う。仮想通貨の具体的な説明に、僕の知る世界であれば確実に成長を遂げる企業の株式。一つ一つ現在の株価や推移、今後の見通しや予想される利鞘でアピール。近巳さんの反応は意外と悪くない。未来人という要素もそうだが、特に、仮想通貨に興味を示しているみたいだ。目新しいからだろうなと思いつつ、食べ物を摘まみながら、説明をある程度終えたところで近巳さんは6杯目の酒を飲み終えた。
「大体は分かったわ。副次的に一つ分かったのだけど、貴方馬鹿よね。交渉が下手過ぎる。上手く行って年100万ちょっとの小銭稼ぎのために未来人だとか話して、今後上がる株やら何やらの情報まで全て出して、事実はどうあれもっと人を疑いなさい。男なら慎重に人を見定めた方がいいわ」
「これは交渉じゃなくてお願いです。それに無作為に声を掛けた訳じゃないですよ。僕は近巳さんの職務意識は尊敬に値すると思っていて、降って湧いた100万を預けるくらいには信用がおけると考えただけです」
「……比影くん、貴方将来監禁されるわよ。女に」
「何でですか」
監禁とか穏やかじゃない。僕のどこにそんな要素があったんだ。いや、分かった。酔ってるな。表面上は酔ったようには見えないけど、その実僅少ながらでも酔いは回ってるなこの人。
「まあいいです。どうでしょう、受けますかこの話」
僕は目を遣る。近巳さんはすぐに反応した。
「決まってるじゃない。受けないわよ。知人と金銭の貸借はしない主義なの」
「……そうですか」
「そもそも他人から預かった資金で投資とか、トラブルの温床じゃない。見えきった地雷原に突っ込む趣味は無いわ」
返事は非常に真っ当なものだった。何となく想像していたけど、案外気安く受けてくれるかもしれないという期待もあった。残念だ。
内心落ち込んでいると、コホンとせき込む音。
「でも情報提供者に利益配分をしないほど私は狭量じゃない。種銭はこっちで出すけど、もし儲かったら額に応じて渡すわよ。額によっては110万と言わず1000万でも良いわ」
「近巳さん……それじゃ損をしたときに」
「投資にリスクは付きものよ。それに絶対に値上がりするんでしょ? 自称未来人の人?」
近巳さん更に酒を呷った。
話はこうして取り纏まった。具体的な書面上の契約も無ければ、ふわふわとした口約束だが、近巳さんは遵守するだろうなという確信がある。願望交じりとはいえ、近巳さんの倫理観や責任感の強さはスワンプマン騒動の時にこの目にしている。これで後は運用が成功して年110万円がコンスタントに入ることを祈るだけだ。
帰宅すると玄関に沙矢がいた。なんか目を細めて、その後に驚かれた。
「お酒の匂いがする。何処に行ってたの?」
「ちょっと近巳さんと食事にね」
居酒屋と言ったら心象が悪くなる気がして、その部分はぼかすことにした。しかしそれでも沙矢は機嫌を損ねた猫みたいに僕を睨むと、僕の腕を取った。
「……脈は正常か。お酒は飲んでないみたいだね」
「いや何を測ってるの?」
「見て分かるでしょ。脈の速さ。そしてお兄ちゃんが愚かな行為をしたかどうかの確認だよこのアンポンタン!」
「何故罵られたんだ……」
キシャーッ。そんな声が脳裏を過った。二度見する。やっぱり猫だ。沙矢猫。
「お兄ちゃんは保身が足りない! 駄目だよ駄目! 何でわたしに黙ってそういうところに行っちゃうのかな!?」
「別に大した用件でもなかったし、危ないこともなかったよ」
「なにか起きてからじゃ遅いんだよ!」
僕の腕を握る力が強まる。少し爪が食い込んで痛い。
「あーもう! お兄ちゃんわたしどうすればいいと思う? 手錠でお互い手繋ぐ?」
「猟奇的すぎる。僕ら兄妹だろ、もっと平和的にやろうよ」
「兄妹だからこそだよ! しかもよりによって近巳さんとかダメダメのダメすぎる!」
「いや普通だって」
「普通の社会人は異性の学生とサシで食事しないからね!」
言われてみて、そうかもしれないと思ったが、今回ばかりは僕から誘ったわけで。近巳さんの社会性や常識に矢印が向くのは少し忍びない。
とはいえ、弁解しようにも沙矢は結構思い込みが激しいところはある。ちゃんと根気良く言えば納得するけど少々面倒なのも事実。
なので僕は頭を撫でることにした。沙矢は人の形をした猫だ。そう思いながらもう片方の手を沙矢の背中に回す。
「お兄ちゃん……それで誤魔化そうとしても……!」
「いつも僕のこと考えてくれてありがとうね沙矢。僕たちは兄妹で、この家で唯一の家族だ。僕も沙矢のことを守れるように頑張るからさ」
上手く言葉は出てこなかったが、それっぽい言葉を並べて僕は誤魔化した。兄として実際に思っていることでもあるから誤謬はない。
沙矢は、それ今関係無いでしょと言いたげに反抗的な面持ちをしたが、最終的には口を閉ざして気持ちよさそうに目を閉じるとその状態で頭を撫でられた。最近知ったが沙矢はこうやって頭を撫でられると大人しくなる。猫みたいに。それを知ってからは時折こういった事をすることが増えた。最初こそ僕も妹とはいえ異性の頭には触れづらかったけど、何度もしていたら慣れてしまった。
でも兄妹としては歪な関係な気がするので、個人的には沙矢からお小言を貰わないような兄にならないといけないなと最近は常日頃思っていたりする。頼り甲斐のある心配されない大人の兄。どうすればなれるのだろうか。人間関係の経験値に乏しいが故に中々解決策が出てこない。
数分間撫でて、手を離すと「あっ」と沙矢の掠れた声が耳朶を打つ。心臓に悪い。
「じゃあおやつでも食べようか。高めのチョコを買って来たんだ」
気を取り直して、僕は手に持った紙袋を持ちあげた。本当は近巳さんから貰ってきたものなのだが、またその名前を言うと何か言われそうなのでそこは伏せる。
「う、うん……わたし、お茶入れるね!」
少し素直さを取り戻した沙矢はリビングへと駆けて行った。
兄になる方法を模索する為にも、この生活は可能である限りはまだ続けたい。どうにかして実入りを増やしたい。高校生という身分上考えてどうにかなることじゃないが、沙矢の笑顔を思い浮かべると、どうしても思考が休まらない。
一旦落ち着くために洗面所で顔を洗う。鏡に濡れた僕が映る。多少若々しいが僕だ。頼りなさそうな容姿をしているのが僕だ。
うん、決めたぞ。まずは筋肉を付けよう。多少身体つきがマシになれば、沙矢からここまで心配されることも減るだろう。金銭はその後の話だ。
僕は決意を新たにすると、形から入るために安いプロテインをネットで買うことに決めた。
冴えない27歳ニートがタイムリープしたと思ったら男女比狂ってる上にそこはかとなくファンタジーだった話 金木桂 @kinnmokusee
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