第21話 勇者、新婚生活を送る。
育休を申請したあの日から三ヶ月が経った。
モルダーン王都の気温はぐっと低くなり、窓の外を舞う初雪が冬の訪れを告げる。
「うわ、こんなところにも穴が空いてるな」
どうりで寒いわけだ、と隙間風差し込む壁穴に板を当て、トントンと金槌で釘を挿す。
王都の中心街から少し外れた住宅街に位置する、築五十年は経つ一軒家。
ここがラカンとセリアの新居である。
家探しにあたっては買うか借りるか、新築か中古かで散々悩んだが、最終的にはこの解体寸前のボロ賃貸を一時的な住まいとする結論に落ち着いた。
家を買いたい気持ちはあったが、足場が固まってしまうと後に保活をするときに選べる保育園の幅が狭まってしまう。それであれば保育園が決まった後にそこに合わせて引っ越しをするのが良いのではないかと考えたのだ。もちろん、ラカンの懐事情が新築を買えるほど温かくなかったのもある。
このボロの一軒家はあちこち欠陥はあるものの、ラカンたちが出たら取り壊しをする予定とのことで好きに改造して良いのはメリットだった。またセリア曰く、子どもが床を傷つけたり壁に落書きしたりしても気を遣わなくてもいいのは助かると。
ちなみに、二人のお気に入りは居間に備え付けられた旧式の暖炉である。
部屋を温める効率の良さで言えば圧倒的に現代の主流である暖房魔工具の方が勝るのだが、煉瓦で組まれた炉の中で火がゆらゆらと緩やかに踊るさまは見ているだけで心落ち着くものがあった。子どもが生まれてからは気軽に使えないので、今限定のちょっとした
壁穴の修繕を終え、居間に戻ると暖炉の前のソファに座ってるセリアがうんうん唸っている。
「どうした?」
駆けつけると、彼女は靴下を履くのに苦心しているようだった。
臨月に入ってお腹がだいぶ大きくなり、身を屈めるということが難しくなってきたのである。
「貸して、オレが履かせてあげる」
セリアの正面に跪く格好になり、ラカンは彼女の足にそっと靴下を通してやった。
見上げると、セリアは少し恥ずかしそうに顔を赤らめている。その表情が愛らしくて、ラカンは思わず彼女の足の甲に口付けをした。
「もう」
ぷくりと頬を膨らませつつも、羞恥と期待にやや潤む碧色の瞳。かわいい人だ。
ラカンはすとんと彼女の隣に座り、色づいた頬に唇でそっと触れる。
それからくんくんと匂いを嗅ぐように金色の髪に顔を
「まだ朝ですよ」
「朝だからいいの」
二人で暮らし始めたばかりの、新婚夫婦の特権。
「ラカンってば」
困ったように形の良い眉をハの字に曲げながら、しかし彼女はラカンの頭をその胸に抱き寄せた。
鼻腔を満たす彼女の香り。体温。少し早い胸の鼓動。そして包み込む柔らかな感触――おや。
「……胸、大きくなった?」
ラカンがそう呟いた途端、甘美なボーナスタイムは終了した。
セリアはラカンを突き放すと、まだ熱の引かない赤い顔ながらぷいとそっぽを向く。先ほどまで解放されていた楽園はすでに両手で堅く閉ざされている。
「こ、これは赤ちゃんへの授乳準備のための生理現象でしてね……」
「なら良いことじゃないか」
「もうっ! それとこれとは、別の話なのですっ!」
なぜだかよく分からないが怒られた。
しかし我が妻は怒っていてもかわいい。
怒り慣れていない感じがいじらしくて、余計に怒らせたくなってしまうのを必死でこらえる。
ぷんすかと必死で怒っているアピールしながら、セリアはソファから立ち上がり身支度を再開し始めた。
「お出かけ?」
「はい。産院にバースプランを提出してこようかなと。それからやっぱりおむつをもう少し買い足して、時間に余裕があれば近くの保育園を見て回ってこようかなと」
せっかく産休に入ったというのに、彼女の毎日は
幼い頃から厳しい修道院の修行に明け暮れてきた彼女は休み方を知らないのである。
やることがないと腐る気がすると言って、毎日何かしら予定を作っているようだ。
部屋を見渡せばじゅうぶんすぎるくらい揃えられたベビーグッズに、彼女が読み漁っている育児書の山。ちなみにベビーベッドやおもちゃはダルトンの家からお古を譲ってもらった。最後までレンタルするか否か夫婦で揉めた給水魔工具については、キャリィが結婚祝いにオリジナルで作ってくれた。
もうあとは赤ちゃんが生まれるのをどっしり待つだけで良いのではないか。ラカンはそう思っているのだが、セリアはまだ準備が足りない気がして不安らしい。
「そういえば、バースプランについてラカンにも確認したいことがあったのですが」
そう言ってセリアはいそいそとバッグから一枚の紙を取り出す。
バースプランというのは、どのようなお産にしたいのか妊婦自身の考えをあらかじめ記載して産院に共有しておくもののことだ。
「夫の立ち会いを希望するか否かの欄があるのですか、ラカンはどうされますか?」
「もちろん立ち会うよ。できることは限られるかもしれないけど、一緒に戦うつもりさ」
ラカンの即答に、セリアはにこりと微笑む。
「あなたならきっとそう言うだろうと思っていました」
立ち会い希望、と用紙に書き込むセリア。
他には何を書いているのだろうか。気になって横から覗いてみると、子宮口六センチ開大までは呼吸法で痛みに耐える、全開大になる頃には助産師によるマッサージを希望、分娩室にかける音楽は聖歌を中心に、アロマはあるとありがたいが薔薇の香りは避けてほしい、赤ちゃんが生まれたら初乳に挑戦してみたい……など事細かな計画がびっしりと書かれていた。さすがセリアである。
臨月に入ったらいつ子どもが生まれてもおかしくないとは言うが、こんな彼女の血を引く子ならば出産予定日ぴったりに生まれてくるんじゃないかと、ラカンはなんとなくそう思っている。
「では、行ってきますね」
「うん。気をつけて」
「ラカンもお仕事頑張ってください」
軽い口付けを交わし、セリアは玄関へ向かう。
見送るラカン。
扉を開けようとしたところで、不意にセリアの動きがぴたりと止まった。
膨らんだお腹に手をあて、「いたた……」と小さく呟いている。
まさか陣痛?
ラカンが近づこうとすると、セリアはふるふると首を横に振った。
「大丈夫ですよ。これは前駆陣痛と言って、本番の陣痛とは別のものなのです。臨月に入ってからはたびたびこうしてお腹が張りますが、正常にお産の準備が進んでいる証拠だそうです」
そんな話をしている間にも痛みはもうおさまったようである。
けろりとした表情で「では、改めて行ってきます」と手を振るセリア。
少し心配だが、彼女が大丈夫と言うなら大丈夫だろう。
ラカンも手を振って応えたその時。
バシャッ……とどこからともなく水音がした。
水漏れか? ラカンは居間の方を見やるが、ふと鼻をかすめる臭いに「違う」と思い直す。血と体液の混じったような生臭さ。日常とはかけ離れた臭い。これは――
「ラカン」
再び身動きを止めていたセリアは、ゆるりとラカンの方を振り返る。
血の気の引いた顔。彼女はわなわなと震えながら、ラカンに告げた。
「破水……したみたいです」と。
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