第19話 勇者、育休を申請する。(ラウンド③)
「コ、ココット……どうしてそなたがここにおる……!?」
王がちらりと視線を向けてきたが、ラカンはぶんぶんと首を横に振った。
知らない。ラカンだって驚いている。
もう十数年も
そもそもラカンは彼女に会うのが初めてである。勇者一行が魔王討伐の旅に出発する日の式典だって、王妃は欠席だったのだから。
「どうして、ですか? 育児に関する興味深い話題が聞こえてきたので顔を出しただけですよ。あなた、表では偉そうに『男も育児』なんて言ってますけど、ご自身では娘のおむつも替えたことないんだもの。お一人では
王妃の言葉にローガ王の顔がカーッと赤くなる。
しかしラカンや近衛兵たちの目の前で取り乱すことはなかった。相手が妻といえど、すぐさま社交的な笑みを顔面に貼りつけ、冷静に対応する。
「それは心強い。しかしな、今わしは育児の話ではなく軍事の話をしているつもりだったのだよ。ゆえにそなたが同席せんでも」
「まああなた、私の出自をお忘れで? 元はオッサム王国軍を指揮し、雪狼討伐を成したところをあなたに見初められたのではありませんか。現場を退いて長くはありますが、軍事の心得を忘れたつもりは毛頭ございません。……それとも何か、私が同席した方がまずいことでもあるのかしら」
二人ともにこやかに微笑みながらバチバチと火花を散らしている。
どうやら夫婦仲はあまり良くないらしい。
となると、敵の敵は味方――ラカンにとって王妃の登場は、おそらく「吉」だ。
「王妃様。先ほどのお話について詳しく伺いたいのですが……」
ラカンがおそるおそる割って入ると、王妃は「そうでした」と扇をパタンと閉じてトントンと小気味よいリズムで手のひらを叩く。
「陛下は毎日のように会食をなされています。一国の王であれば人付き合いが多いのは致し方ないこと。頻度について文句を言うつもりはありませんわ。ただ」
王妃は睨むような視線でローガ王をじっと見つめる。
「いささか単価がお高いようで……国民から不満の声が上がる前に余分な出費を抑え、別の有意義な使い道に投資してはいかがかと申しておるのです」
ちなみに年間三億というと一日当たりに換算すればおよそ八十万である。一体何を食べたらそんなに高くつくのだろうか。ラカンがこれまでの人生で食べた最も高額な料理は、セリアと二人で結婚祝いで行った王都の高級料理店のディナーである。一食二万。それでもラカンにとっては相当背伸びしたつもりだったのだが。
「分かっておらんな、ココット。今は魔族との戦時下で各国のお偉方を接待できるほどの良質なワインがなかなか手に入らんのだ。それに、その金はわし一人で使ったものではない。新たに登用した貴族に代わる有能な者たちとの勉強会を定期的に開いておるからな、その会合でも費用がかさんで……」
「その勉強会とやらに、若く美しい女たちが何人も出入りしているという噂を耳にしたのですが」
王の動きがぴたりと止まる。
追い打ちをかけるように、王妃はおもむろに首を傾げて尋ねた。
「まさか、その女たちの費用も会食費に含まれていたりは、しないですわよね……?」
微笑んでいるのに目が全く笑っていない。アンデッド兵もびっくりの恐ろしい形相である。立ち込める暗雲。今にも雷が落ちそうなくらいの緊迫した空気。
どうする、ローガ王。
皆の注目が集まる中、彼の決断は思いのほか早かった。
するっと両手を挙げると、フーと溜め込んだ息を吐き出す。
「……あいわかった。二億だ。二億までなら会食費を抑えて捻出してみせよう」
「さすが陛下。よくご決断なされましたわね」
けろりと姿勢を戻してパチパチと軽く手を叩く王妃に、ローガ王だけでなくラカンや近衛兵たちもがほっと胸を撫で下ろした。
しかし魔石機関車を買い取るにはまだ一億足りない。
何か有効な策は――少し冷静さを取り戻したラカンが思考を巡らそうとしたその時、ふと王妃と目が合った。彼女は「ふふ」と余裕のある笑みを浮かべる。
「安心なさい。残りについては、私の著書の売上全額を寄付しますわ」
「え……!?」
王妃の著書といえば育児に関するベストセラーばかり。
ラカンもセリアからの紹介で読まされ――もとい、読んだことがあった。
「そんな……本当ですか……!?」
ラカンの問いに、王妃はしかと頷く。
「勇者ラカン。あなたは確かに我が国にとってかけがえのない存在です。しかし、先ほど陛下がおっしゃった『この国を救えるのはそなたしかいない』というお言葉……それは大いなる間違いです」
「間違い……?」
「ええ。勇者一人を頼るしかない状況というのは、勇者の責任ではありません。勇者の強さに甘んじてきた我々王家の責任です。本来であれば、万が一あなたの身に何かが起きた時のことを考え、代わりの人材、兵器、外交手段を常に用意しておかねばなりません。それを、陛下は『万が一のことが起こらない』ことに賭けて用意を怠った。にも関わらず、情に訴えて勇者に責任を感じさせようとするなど……!」
王妃がローガ王を一瞥すると、彼は蛇に睨まれた蛙のように震え上がった。
「し、しかしココット……」
王は何かを弁明しようとしていたが、王妃はそれを無視して話を続けた。
「そういうわけで、陛下にその気がないのであれば私が新型魔工兵器に投資いたしましょう。元は独立のために蓄えていた軍資金ですが、それはまた機を改めれば良いこと」
「待て待て待て待て、今何か不穏なことを言わなかったか」
「ああラカン、それから陛下のおっしゃっていた代わりの聖女の話ですが、ちょっと保留にさせてくださるかしら」
「待てココット、勝手に話を」
「陛下はあの通りお元気ですけれど、私はここのところあまり調子が良くなくって」
「え……?」
「それなのに王室付きの聖女を魔王討伐に行かせるというものですから、私は仕方なく変装して王都の病院で診てもらったのですよ。幸い、とても腕の良い聖女がいたので助かったのですが」
「ココット、それは
王は一人青ざめる。
王妃の体調の変化に気づいていなかったのだろう。
「どこだ、一体どこが悪いのだ? いつから……薬師はなんと言っておる!?」
狼狽するローガ王であったが、王妃はやれやれと肩をすくめるだけで何も答えない。
一方、ラカンは薄々勘づき始めていた。
昨日セリアの元に一人の高貴な女性が訪れたという話を聞いていたのだ。
妊娠中ということもあり、セリアが担当する患者はたいてい感染症や大病の恐れの無い人たちである。
「王妃様……陛下に何か言ってあげなくて良いのですか……?」
ラカンが王妃に耳打ちすると、彼女はローガ王には見えないよう扇の裏でベーと舌を出してみせた。
「私のことを
「は、はあ……」
「産後の恨みは一生なの。あなたもそうならないようになさいね。そのために今日ここへ来たのでしょう?」
予期せぬ妻の登場により、王はかなり追い詰められている。
申請するなら今。
この好機を逃すほかない。
おろおろと玉座に座り込んだ王の目の前で、ラカンは改めて膝をつく。
「陛下!」
「こ、今度はなんだ」
王はもう勘弁してくれと言わんばかりにちらちらと近衛兵たちに視線を送っている。何か理由をつけてこの場から去るつもりか。しかしそうはさせない。その前に決着をつける。
「王妃殿下のご協力もあり、勇者の剣に代わる魔工兵器の製作にもめどが立ちました。よってこれにて――育休を申請させていただきたいッ!」
くらり。王の上体が揺らぐ。
しかし彼は指先に血管が浮き出るほどの力でなんとか肘掛けにしがみついた。
為政者の意地である。
「ラカンよ。……そなたの言いたいことはよくわかった」
瞼を閉じた王の表情が葛藤で険しくなる。
ごくり。ラカンは唾を飲み込んで続く言葉を待つ。
王はおもむろに瞼を開くと、すっと右手で人差し指を立てて言った。
「一週間だ。一週間なら休んでもかまわ――」
スコーン!
王妃の投げた扇が王のこめかみにクリーンヒット。
いったいどれほどの力がこもっていたのか、王は玉座もろとも衝撃で横転してしまった。
「な、何をするっ!!」
「この恥知らずっ! それでも人の親ですかっ!」
王妃は肩をいからせながら王にツカツカと近づき、落ちた扇を拾い上げる。
玉座の下敷きになって抜け出せずにいるローガ王に手を差し伸べることはなく、彼女はもはや憐れむような目で自らの夫を見下した。
「あなたは覚えていないのですか。娘が生まれた後の一週間のことを」
彼女はそう言いながら、首を横に振る。
「いいえ、覚えているわけないですわね。一度顔を見たら『後は頼む』と言って逃げるように出張に行ってしまったものね。私は産後の傷も癒えないうちから夜中何度も起こされて娘の世話に翻弄されていたというのに」
王妃は当時のことを思い出したのか、瞳に滲みかけた涙を拭った。
「良いですか。生まれて一週間は、母親は回復に専念するため医院に入院することが多い。本当に家族の支えが必要なのはどちらかというとその後からですよ。そして」
扇の先端を王に向け、彼女は一段と声を低くして言い放つ。
「育休とは育児休業であって育児休暇ではありません。ゆめゆめお間違いなきよう」
もはやローガ王の精神的ライフゲージは極限まで削られていた。
玉座の下でしゅんと縮こまり、「申し訳ありませんでした……」と弱々しい声で頭を下げる。
そこまでやって、ココット王妃もいささか満足したようであった。
ラカンの方を振り向いた表情は柔らかく、慈悲深き王室の女性の余裕を取り戻していた。
「ラカンよ。育休がどれだけ必要なのか、あなた自身の考えを聞かせて」
「はっ……。母体の回復には最低でも半年かかると言われているため、できればその期間は育休を取りたいと思っています」
「まあ、立派な心がけね。その後はどうするの?」
「二人とも仕事を続けるつもりなので、保育園を探すつもりです。ただ、春にならないとなかなか空きが出ないらしく、その場合は次の春までどちらかが育休を延長することになります」
「それは陛下にも尽力していただきましょう。ねえ、あなた?」
圧のこもった問いかけに、ローガ王はとうとう抵抗することなく頷いた。
「わかった。もうわかったから! ラカン、育休などそなたの思う通りに取るが良い! だから早く、わしをここから助けてくれぇ……!」
かくして勇者は育休を手に入れた。
何度も礼を言って軽やかな足取りで出て行ったラカンを見送ったのち、げっそりと疲れたローガ王は玉座にもたれかかりながら隣に立つ妻を見やる。
「なあココットよ。ラカンの育休についてもうこれ以上とやかく言う気はないが……。そなた、娘の――シータのことは心配でないのか?」
すると彼女はそっぽを向いたまま、あからさまなため息を吐いてみせる。
「当然心配に決まっていますわ。夜間授乳に一切付き合ってくださらなかったあなたと違って、心血注いで育てた我が子ですもの」
「だからそれは悪かったって! わしも反省した! で、その話はさておき……心配ならなぜ無理にでも勇者を魔王の元へ行かせなんだ?」
王妃がようやく王の目を見た。
彼女の灰色の瞳は先ほどまでの感情的に昂っていた時とは違う、やけに落ち着いていて遠くを見据えているような瞳であった。
「つい最近、シータが攫われた現場にいた学生の一人が目を覚ましたようなのです」
その学生、魔法工学院魔石研究科の助手、曰く。
彼らは長年の課題であった「魔石の正体」を掴みかけていた。
だが、あと一歩のところでその答えを見失ったのだ。
なぜなら――姫が大事な研究記録をあの場から持ち去ってしまったから。
「な、なんだとッ!?」
ローガ王は思わず声を荒げて立ち上がった。
それが本当なら一大事。
下手したら彼女がモルダーンを裏切っているということにも、
「落ち着いてください、陛下」
王妃は冷静な声音で彼の肩に触れる。
「あの子が陛下の魔族に対する強硬姿勢に反対していたのはご存知ですよね? もっと平和的な解決方法があるはずだと。だからこそ、聡いあの子は両者の争いの種である魔石の正体を探ろうと、魔石研究科の者たちに接触したのです」
魔石は全ての魔工具の原動力であり、人々の生活に欠かせないもの。
そして魔族たちにとっては、栄養価の高い希少な食糧。
しかしその正体については今もほとんど分かっていない。
魔石とはどのように生成された鉱物なのか。
人も魔族もその起源を知らないのだ。
つまり、それを暴く知識は両者の戦いの天秤を傾ける貴重な情報である。
幼い頃から帝王学、軍事学、魔法工学とあらゆる学問を収め、世間には賢姫と称えられる彼女がそのことを分かっていないはずがない。
「あの子にはきっとあの子なりの考えがあるのでしょう。少なくとも、魔王城で酷い目には遭っていない様子。だから陛下、焦らず冷静に状況を見定める時間をとってみてはいかがでしょうか」
ローガ王は「ふむ」と腕を組んで考え込んだ。
確かに、魔界の状況は逐一調べさせているが姫は魔王城で自由気ままに過ごしていると聞く。
「魔石の正体」について魔王に知らせている様子もなさそうだ。もしそんな情報が漏れていたら魔王軍がここまでじっとしているわけがない。
姫は一体何を考えているのか――
育児についてさんざん非難されたローガ王であったが、年頃の娘の頭の中について思考を巡らす今この時の姿は、確かに一人の父親なのであった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます