第16話 聖女、懺悔する。
患者が診察室に入る前に、セリアは渡されたサッと問診票に目を通しておいた。
原因不明の発汗、それから倦怠感と冷えの症状、頭痛・眩暈もあるという。
コンコンと扉をノックする音が響き、応答すると患者の女性が頭を抱えながら中に入ってきた。ややウェーブがかった長い赤髪が特徴的である。問診票に書かれていた通り玉のような汗を額に浮かべていて、前髪が顔に張り付いていた。四十代後半と書かれていたが、ひょっとすると三十代と言われても疑わないくらいには肌に張りがあり、顔もたるんではいない。ただ、やはり具合が悪いのか顔は青ざめていて表情に影が落ち、そのせいで年相応に見えていた。
「これまで、色んな薬師に診てもらったのだけど……年のせいだと言って、相手にしてもらえなくて……。でも、本当にそれだけか、って……」
女性はぜえぜえと苦しそうにそう言った。
なるほど、息切れの症状もあるようだ。
「お辛いのに、わざわざ足をお運びいただきありがとうございます。年のせい、ですか。最後の月経がいつだったか覚えていらっしゃいますか?」
「さあ……確か、半年くらい前だったかしら……」
薬師たちの診断はおそらくは間違っていない。
この年齢の女性特有の症状で、閉経にともない体内のバランス調整が上手くいかなくなり人によっては彼女のように日常生活に支障をきたすほど調子を崩してしまう。
現状、この症状に対して薬物療法は多少効果はあるもののかえって悪影響を及ぼすリスクの方が高く、多くの薬師は静観する姿勢をとりがちだ。だが、回復魔法を使える聖女であれば対応は異なる。まして微細な症状の違いを見極め、魔力を緻密にコントロールすることが得意なセリアであれば。
「少し魔力を通して検査させていただきます。お時間は大丈夫ですか」
セリアの問いに彼女は頷いた。簡易ベッドに横になってもらうと、服の裾を上げてお腹を出してもらう。セリアは聖典片手にそこに触れると、体内の魔力の流れを観察するための魔法を唱えて瞼を閉じた。
彼女の
セリアは少しだけ彼女の腹に触れる手の圧力を強めた。表情が歪む。痛みがあるのだろう。再び魔力を流すと下腹部で魔力が停滞しそれが刺激となって痛みにつながっている。
「失礼しました。こちらで検査は終わりになります」
セリアが手を離すと、女性は少しホッとしたような表情を浮かべて身体を起こした。
それにしても……所作のひとつひとつ、やけに洗練された動きだ。指先の筋一本一本に見られることを意識させたような丁寧な所作、街中で流通しているものではあるもののおろしたてで使い古した形跡の一切無い服、香水ほどわざとらしくはないが華やいだ香りのする髪。
曲がりなりにも貴族出身のセリアには、なんとなく彼女がやんごとなき身分の人であることは見抜けてしまう。しかし患者に対して症状以外の詮索は禁物だ。セリアは立場をわきまえ、それ以上は気にしないように努めながら彼女に検査結果を告げた。
「おそらく、薬師たちの診断どおり、年齢特有の症状であることは間違いないでしょう。他の病気の心配はなさそうなので、そこはまず安心してください」
「そう……」
「ただし、静観して良いほど軽い症状ではないことも事実です。精神的な疲労から症状が悪化することが多くあるのですが、普段の家庭生活、もしくはお仕事で何か常に緊張状態にさらされていたりしますでしょうか?」
すると彼女は少し苦笑いを浮かべた。
思い当たる節があるようだった。
周囲に目を配ったのち、セリアだけに聞こえるよう声を顰める。
「実は、夫との関係があまり良くないの。と言っても、私が一方的に当たっているだけなのだけど」
「まあ……。その状況はどれくらい続いているのですか?」
「十八年」
「十八年!?」
「ええ。子どもが生まれてから、ほぼずっと」
思わず驚いてしまったセリアに、彼女は肩をすくめてみせる。
きっかけは夫が育児に対して理想を押しつける割に非協力的だったことだ。
体質的に母乳が出づらかったにも関わらず、それでも子どものためには母乳の方が良いから努力しろと言って粉ミルクを捨てられてしまったこと。
育児中のストレスからつい泣いている子どもに声を荒げてしまった時、「そんな風に大きな声で叱るのは教育に悪い!」と怒鳴られたこと。
子どもから
続々ととめどなく溢れ出る恨み節。
話を聞いていて、セリアの脳裏にはふと自分の父親の姿が浮かんだ。
そういえば、幼い頃父親に遊んでもらった記憶が一切ない。いつもピリピリしていて怖い人というイメージで、母親以上に話しかけるのすら怖かった。そしてセリアに対して当たりの強かった母も、父の前ではスンと大人しくなり何か言われても言い返しているのを見たことがない。
彼女の夫婦関係と自分の両親の関係は、もしかすると少し似ているのかもしれなかった。
「確かに、家に入って家事育児に専念するのを決めたのは私自身よ。だから、たった一度でも労いや共感の言葉をかけてくれるなら許すつもりだったの。だけど、あの人は一度もそんな素振りを見せてくれなかった。それで引っ込みがつかなくなっちゃって」
十八年分の疲れを乗せた、長いため息の音が診察室に響く。
「大変でしたね……。人に対して怒るというのは相当エネルギーが必要なことですから、それが症状を悪化させる要因になっていると思います」
セリアは彼女から聞いた話を素早く問診票に書き込むと、もう一度彼女に向き直った。
「ご希望であれば、一時的に回復魔法で症状を和らげることが可能です。二週間ほどで効果が消えてしまうので、自然に体内のバランスが整うまでは定期的な通院が必要になりますが、どうされますか?」
「少しでも楽になるなら、ぜひお願いしたいわ」
「わかりました。ではこちらへ横になってください」
簡易ベッドに仰向けになる女性。
汗に濡れた額をタオルで優しく拭うと、セリアはそっと指先で触れて回復魔法を唱えた。
「良ければ瞼を閉じてください。眠ってしまっても構いませんよ。緊張をほぐすための魔法ですから」
「ありがとう……。なんだか少し、ぼうっとしてきたみたい……」
無意識のうちに彼女の眉間に寄っていた皺が少しずつ消え、徐々に深い眠りに入った時のような穏やかな表情へと変わっていく。
ただし、症状の軽い人であれば十秒も経たないうちに効果の出る魔法であるが、彼女の場合は十分近くかかった。やはり、かなりのストレスを溜め込んでいたようだ。
セリアが指先を離すと、彼女は瞼を開けてぱちくりと瞬きをする。
「私、今眠っていたわよね?」
「はい。少しのあいだだけ」
すると彼女は気恥ずかしそうに両手で顔を覆った。
「人前で眠ってしまうなんて……。でも、心地良かったわ。久々にぐっすり眠れたような気がする」
「それは良かったです」
セリアは微笑んだ。
この症状を患う人は不眠に悩まされることも多いのだ。
「次はお腹を触らせていただきますね」
聖典の
今度は黄道の七宮「天秤の章」の魔法を使う。体内のバランスが乱れている際にその均衡をあるべき姿に戻す回復魔法だ。流し込む魔力量をほんの少し違えるだけでも逆効果になってしまうことの多い難易度の高い章なので、この章の魔法を扱える聖女は少ない。精細な魔力操作が得意なセリアでも使う際にはかなりの集中と魔力を要する魔法だ。
セリアは深呼吸をすると、静かに魔法を唱えた。
金色の光が指先に宿り、相手の身体の中に吸い込まれていく。
先ほどとは違い、患者の女性は目を開けて不思議そうな表情で治療の様子を眺めていた。「天秤の章」は効果の割には実感の少ない魔法である。だがそれで良い。後から振り返ってもらって、「そういえばあの時調子が良かったな」と思うくらいがベストだ。効き目を感じすぎる場合は魔力を流し込みすぎたということなのだから。
「はい、終わりました」
手を離したセリアはふうと小さく息を吐いた。
少しだけ手に汗が滲んでいる。
「大丈夫?」
「すみません、普段ならどうということはないのですが、今の魔法は少し難しいものだったので……」
「聖女さん、あなた今妊娠中でしょう。疲れやすいのは仕方がないことだわ」
女性はセリアの膨らんだお腹をちらりと見やると、ゆっくりと身体を起こした。
魔法が効いているのか、顔色は穏やかになり発汗も収まっているようだ。
「こんな
「できれば、続けたいなと。聖女の仕事は私にとって生きがいみたいなものなので。……ただ」
「ただ?」
「少し迷ってはいるんです。それって私のわがままなんじゃないかって」
「わがまま、ね……。どうしてそう思うのかしら」
「夫はとても優しい人です。だから今も育休を取ろうと奔走してくれているし、子どもが生まれてからもきっとたくさん支えてくれるのだろうなと思っています。けれど、そのぶん彼は自分の大切な仕事を犠牲にしなければいけなくなる。もし、私が一人で育児を背負うことができたら、その必要はないのにって……」
俯くセリアの手を、彼女は優しく両手で包み込んだ。
顔を上げると、灰色の瞳がまっすぐと自分を見つめていてセリアは目を逸らすことができなかった。なんと意思の強い瞳だろう。普通の人とは明らかに違う、つい見惚れてしまうようなカリスマ性を感じる視線であった。
「優しい旦那さんは、あなたのその考えにどう思うのかしら」
ラカン。彼がもし今の話を聞いたなら。
セリアはハッとした。
――もう二度と自分だけ犠牲になればなんて考えるな。
答えはすでにもらっていたじゃないか。
あの日、あの夜。
二人互いに結ばれることを望んだ瞬間に。
セリアの瞳が揺れたのを見て、目の前の女性はわずかに微笑む。
「わがまま言っていいのよ。だってあなたの人生なんだもの。それを理解してくれる旦那さんがいるなんて、素敵なことじゃない」
「私の、人生……」
「そう。仕事も母親もどちらも大事にしたいのならすればいいと思うわ。それは女性だけでなく男性も一緒。あなたの旦那さんは、仕事だけじゃなくて父親である時間も大切にしたいと思ったのでしょう? だったらあなたが一番、その考えを支えてあげなくてどうするのよ」
そう言って励ますようにとんと背中を軽く叩かれた。
本当にその通りだ。
ラカンが育休を取ろうと頑張っている時に、自分のことばかりくよくよ悩んでいたことが急に恥ずかしく思えてくる。
セリアは潤みかけた瞳をぬぐい、患者に向かって丁寧に頭を下げた。
「ありがとうございます。私がカウンセリングしていただいてしまいましたね」
「気にしなくていいのよ。あなたに回復してもらったからこそ、こんな風に偉そうに言えるのだから」
そう言って彼女は立ち上がる。
肩にかかった長い赤髪をぱさりと振り払うと、華やかな香りがセリアの鼻腔をくすぐった。
「今日はありがとう。また辛くなったら診てくれる?」
「ええ、もちろん」
セリアが会釈して見送ると、彼女は診察室の扉に向かって行く。
部屋を出る直前、彼女は一瞬立ち止まってぼそりと独り言を呟いた。
「……どうやら私も、いい加減意地を張っている場合ではなさそうね」
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