第15話 聖女、ブルーになる。



 聖スピカ医院は、教会が運営するモルダーン王都内いち大きな病院である。

 ちょっとした風邪をこじらせた人から緊急入院が必要な患者まで、ありとあらゆる人々がやってくる。

 セリアは王都に戻ってきてからこの病院に臨時で勤めている。

 聖女は常に人不足なので臨時でも歓迎され、ありがたいことに感染症の疑いのない患者を優先的に回してもらうことになった。妊娠中はお腹の中にいる赤ん坊を攻撃しないために母体の免疫力が落ちると言われているのだ。


「すみません、お待たせしました」


 診察室に入ると、待っていたのは腰痛に悩む定期受診の老婆である。


「あらあセリアさん、もう職場復帰かい」

「はい。先週は急なお休みをいただいてご迷惑をおかけしました」


 実を言うとセリアが出勤するのは一週間ぶりだった。

 久々に実家を訪れ、王都に戻ってきた後のこと、自分でも思っていた以上に両親に会うのは緊張していたのか、お腹の張りが強くなって切迫早産一歩手前の状態になってしまった。

 切迫早産というのは、臨月に入る前に赤ちゃんが生まれてきそうになる状態のことだ。このタイミングではまだ赤ちゃんの身体が完全に出来上がっていないので、なるべく長くお腹にとどまるよう刺激を避け、安静にしなければならない。幸い、セリアの場合はそこまで深刻な状況ではなかったので自宅で休むことでお腹の張りは収まっていったが、中には入院して一日中ベッドに寝ていなければならない人もいるという。


「いいのいいの、妊婦さんは体調管理が一番の仕事なんだからねえ」

「ありがとうございます。みなさんそう言ってくださって……私は恵まれていますね」


 診察室の中にある簡易ベッドに横になってもらい、老婆の腰に手を添える。

 もう片方の手で聖典を開き、黄道こうどう八宮はちきゅう天蠍さそりの章」の一文を唱えた。

 読み上げた文章が金色に輝いたかと思うと、同じ色の光が老婆に触れている方の手のひらに灯り、すっと彼女の身体の中に吸収されるように消えていく。


「はい、終わりましたよ」


 老婆はベッドから起き上がると、痛みで縮こまっていた姿が嘘のように生き生きと身体を左右にひねってみせた。


「ああ、痛くない。とっても身体が軽いよ。さすがセリアさんだねえ」

「それは良かったです。ただ前にもご説明しましたが、この魔法は一時的に痛みを取り除くものであって根本の原因を治すものではないので、くれぐれもご無理はなさらないでくださいね。姿勢に気をつけて、あとお薬を飲むのも忘れずに」

「はいよ。どうもありがとうねえ」


 老婆を見送った後、ちょうど昼どきを告げる鐘が鳴った。患者も先ほどの老婆で午前は最後だったようなので、セリアは診察室を出て地下にあるスタッフ用の食堂に向かった。午前中の勤務を終えて休憩に入る聖女や薬師、看護師たちが続々と集まってきていて、注文口には長い列ができ始めている。


「セリアー! こっちこっち!」


 すでにテーブルについていた年配の聖女がセリアに向かって手招きしてきた。彼女はリンダ、聖スピカ医院に勤める聖女たちのまとめ役だ。二人の子を育て上げた育児の先輩でもあり、つい先日上の子が成人して家を出たという話を聞いた。

 同じテーブルにはもう一人すでに座っている。セリアに向かって他人行儀に会釈してくる彼女の名前はシンジー、今年修行を終えたばかりの見習い聖女だ。年齢はおそらく同じくらいなのだが、史上最年少で修行を終えて五年以上も一人前の聖女として活動してきたセリアはこうして同世代から少し距離を置かれてしまうことがしばしばある。


「良かったらここに座りな! 食事、今からだったら代わりに取ってこようか?」

「い、いえ、そこまでやっていただくわけには……! 自分で取ってきますので、少しお待ちください」


 聖女という職業柄もあるかもしれないが、職場では皆妊婦に対して優しい。

 ちなみに、聖スピカ教会の教えでは妊娠・出産は人生で最も尊ぶべきこととされており、聖女が妊娠するということもまったく禁忌タブーではないのでご安心あれ。聖女の定義とは「奇跡の業を身に宿し、豊かな教養と慈愛の心でひとびとを導く自立した女性」であって処女である必要はないのだ。むしろ、教会内では出産経験を経た女性の方が出世しやすいという噂もまことしやかに囁かれている。経産婦の年長聖女を「聖女」ではなく「聖母」と呼ぶことがしばしばあるのも、その噂の一端を担っているのだろう。それはそれで結婚しない女性に対する差別ではないかという見方もあるが、真相のところは謎に包まれていてわからない。


 セリアが昼食をトレーに乗せてテーブルに戻ると、リンダとシンジーは何やら世間話を交わしている最中であった。


「……それでさあ、うちの娘ったらすっかり図に乗ってるわけよ。若い女だったら奢ってもらうのが当然だと思っちゃって。教会の教えを受けてないと、若い子はみんなこんなもんなのかね?」

「はあ。あたしも教会の外の人の感覚はわかんないすけど、同世代でも姫様なんかは違うんじゃないすかね。社交パーティーにドレスじゃなくてタキシードで現れたって噂、聞いたことあります」

「姫様は例外でしょ。王妃様がきっちり教育なされたんだから」

「あ、修行中にちょびっと習ったっすよ、ココット教育論」

「それそれ。私も昔はココット王妃の教育本をよく読んだわ。ストイックすぎて真似はできなかったけど」

「リンダ先輩、面倒くさがりっすもんね」

「おっ、言ったな新人! まーあんたも親になりゃ分かるわよ。離乳食のほうれん草を自力ですり潰すのがどんだけ苦行かってのはね」


 モルダーン国王妃、ココット。彼女は二人が話しているとおりストイックな育児を行ったことで有名だ。王室であるにも関わらず、使用人や乳母の手を借りることなく自らの手で姫を育て上げたのだ。当時、魔族との戦いで国庫に余裕がなくモルダーン王家が節制を掲げていたのと、国民と同じ目線で育児を経験したかったためだと言われている。


「セリアは王妃にお会いしたことある?」

「いえ、ローガ陛下には何度か謁見したことがあるのですが、王妃様は……」

「勇者一行でも会ったことないんすか。王妃が滅多に人前に出ないって話は本当なんすね」


 出産以来なかなか国民の前に姿を現さないことから、巷ではご病気ではないかと噂されたこともあるが、定期的に著書を出しているのでその説はすぐにかき消えた。

 ちなみに、最近出版されたのは『ワンオペ王妃が選ぶ、出産前に絶対に買った方がいい十の魔工家具〈最新版〉』という本で、現在のセリアの愛読書である。ラカンにも読んでもらったのだが、ミルク作りに便利という水とお湯が両方出る給水魔工具の値段(レンタルで月額四千)を見たあたりで目が泳いでいた。曰く、「水にこんなにお金かけなくても良いんじゃない? 湯冷ましくらいなら自力できっとなんとかなるよ……」らしい。そうだといいのだけれど。


 それから今日の患者の話、最近王都に現れたという謎の魔王軍幹部についての話、リンダの下の子の話と話題はめくるめく移り変わり、気がつけばあっという間に昼休みの終わりが近づいていた。


「わ、すみません。あたし午後訪問診療があったんすよね」

「ええっ!? 早く言いなよ! 遅れちまうじゃないか」


 慌てて残った食事をかき込み、それぞれの持ち場へと戻る。

 話を振られるまでセリアはほとんど会話に参加していなかったが、あまり自分の話をするのが得意でない彼女にとっては、おしゃべりなリンダと彼女に物怖じせずに話すシンジーの会話のテンポ感がちょうど良かった。相槌を打っているだけでもそこに居るのが許される関係というのは貴重だ。

 思い返せば勇者一行の関係もそうであった。ラカン、ダルトン、キャリィの三人の途絶えることのない賑やかな会話。黙って聞いていても咎められることはなかったけれど、たまに顔色を見てラカンが話を振ってくれる。セリアが話し始めると興味津々な表情で聞いてくれる。心地良い関係性だった。

 育児がひと段落したら、また四人で旅ができるだろうか。

 子どもができればそう簡単に遠くへは行けなくなる。

 もしかしたら十年、二十年先の未来――あるいは二度とその日は来ないかもしれない。

 そう思うと、色とりどりの花畑から突然草木の枯れた荒野へ解き放たれたような、急な寂寞感せきばくかんに襲われる。

 彼女が不安なのは、その荒野へラカンを巻き込んでしまっていることだ。

 彼がここ最近、ローガ王を説得するためにあちこち飛び回って準備しているのは知っている。

 もともと育児のことは自分に任せて欲しいと啖呵を切ったくせに、結局ラカンを頼ってしまっている。あまりの情けなさに押しつぶされそうだった。初めから自分が割り切っていられたら。聖女であることを捨ててでも一人で家事育児を引き受ける道を選べていたら。そう、たとえばココット王妃のように。


「セリアさん。患者さんをお通ししてもよろしいでしょうか」


 看護師に声をかけられてセリアはハッとした。

 何はともあれ今は仕事中だ。集中しなくては。


「すみません、大丈夫です」

「ではお通ししますね。新規の患者さんで、四十代後半の女性、問診票はこちらです」


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