第8話 聖女、アレが出なくなる。


 ※注:本エピソードはシモの話が中心です※


 聖女セリアは辛抱強い女性である。

 聖スピカ教会の修行では二日間の断食をしたことがあるし、勇者一行のパーティーに加わる前は巡礼のため僻地までの険しい道のりを自らの足で歩いたし、他人に蔑まれることがあっても決して言い返しはせず胸の内に押し込むことができる。


 だが、そんな彼女でも、さすがに丸一日「アレ」を我慢したことは一度もなかった。


 膨張感を感じる下腹部。

 これがお腹の子が大きくなってきただけではないのは薄々分かる。

 だが、何度お手洗いに行ってもアレは出ない。


(大丈夫なのでしょうか……)


 前回出たのが昨日の朝。

 さすがに丸一日経って、セリアは不安を覚え始めた。

 妊娠についてまとめた書物には後ろからのアレが出なくなることは書かれていたが、前からのアレが出なくなるとは一言も書かれていなかったはずだ。むしろ逆で、大きくなった子宮に圧迫されることで頻繁に出るようになると書かれていた。


 セリアは習慣である寝起きの白湯を飲もうとして、手を止める。

 これ以上水分を溜め込まない方がいいかもしれない。昨日は飲んだ方が出やすいかと思って試してみたが、今のところ逆効果だったように思う。

 教会寮の窓の外に広がるモルダーン王都の街並みを眺め、セリアは「はあ」と肩を落とした。


 昨日はラカンに悪いことをした。

 夕方、仕事が終わってから教会寮に立ち寄ったラカンはいつの間に調べていたのか、保活についての話をあれこれ熱心に語ってくれた。だが、セリアはアレのことばかりに気を取られて全く話が頭に入ってこなかったのだ。


「もしかして、調子悪かった? ごめん、また出直すよ」


 そう言ってとぼとぼ宿に帰っていったラカンの後ろ姿が鮮明にまぶたに焼き付いている。

 あの時、アレのことを打ち明けられていたら。

 だが、どうしても恥ずかしさが勝ってしまって言えなかった。

 普段はどちらかというとセリアの方が未来のことを気にしがちで、ラカンは目の前のことに一生懸命な人だというのに、昨日に限っては逆であった。

 もしかすると先日自分が保育園に関する書類を集めていたことで気を使わせてしまっただろうか。思えば思うほど申し訳なさに気が沈む。


(このままではいけません。やれることを試してみましょう)


 まずはベッドに横になってみて色んなポーズを取ってみる。仰向けで腰を浮かしてみたり、あるいは四つん這いになってみたり。しかしあまり変化は感じられない。


(し、仕方ない……あの秘術を使うしかないようですね)


 それは幼少期の時によく使ったおまじない。

 便座に腰掛けた状態で小声で唱えてみる。


「しーーーー……」


 ダメだ。一滴も出る気配がない。

 出したい気持ちはあるのに、何かにせき止められているのか少しいきんでみても効果がないのである。


 セリアは諦めてお手洗いから出てきた。

 今日がまだ休日で良かった。

 彼女は今王都内の聖スピカ教会が運営する医院に勤めている。回復魔法を使う時はかなり集中力が要るので、こんな状態で働いたら仕事に支障が出てしまっただろう。


 今朝目が覚めてからアレのことばかり考えていて気が滅入ってきたセリアは、外へ散歩へ行くことにした。少し身体を動かせば出やすくもなるかもしれない。


 しかし五分ほど歩いて彼女はすぐに後悔した。

 今日はとても日差しが強くて暑い。だんだん喉が渇いてきたのである。だがこんな状態ではうかつに水は飲めない。

 相変わらずアレが出そうな様子はなく、このままでは溜め込んだ毒素が身体に逆流してしまうのではと、嫌な予感が頭をよぎる。

 せわしない人の往来の中で、セリアは急な孤独感に苛まれた。


 誰か、助けて。


 でも言えない。とても口に出せない。

 病気でもないのに、アレが自力で出せないなんて。

 焦燥感から、余計に喉が干からびていく。

 引き返すか。いや、もう少し身体を動かしてみないと――


「あんた、大丈夫か?」


 王都ではあまり聞かない独特のイントネーション。

 小柄でよく火に焼けた茶髪の中年女性が、セリアの顔をじっと覗き込んでいた。


「あんれまあ、お嬢さん! お顔が茄子みてぇな色しとるだよ! 気分わりぃか?」

「え、ええ少し……」

「そりゃあいかん!」


 女性はむんずとセリアの手を取った。

 爪には土が挟まり、かさかさと荒れた手。これも王都では滅多に見かけない類の手である。だが不思議と、初対面であるはずなのに安心感があった。


「世話んなっとる先生はどこ? そこんとこまで付き合うわ」

「い、いえ。そこまでしていただくわけには」


 見たところ女性は旅行客のようである。

 身体の幅の二倍ほどある巨大なバックパックを背負っているからだ。農村から出てきたのか、丸められた寝具の上には泥のついた太い大根が二本挟まっている。

 遠慮するセリアであったが、彼女は手を離さなかった。

 眉間に皺を寄せ、無意識に片手を当てていたセリアのお腹に視線を向けてきた。


「あんた、妊婦さんだろ。旦那はどした?」

「それは、その……」

「けしからんっ! 奥さんがこげに苦しそうなの放っとくなんてなあ。うちのバカ息子と一緒にあとで殴ったる!」


 彼女はぷんすかと片腕を振り回した。

 ラカン、ごめんなさい。

 どうやら見知らぬお方に殴られることになってしまいそうです。


「とにかく! 妊娠中なんだったら、もっと周りを頼んねえと! な?」


 女性の圧に押し負けて、セリアは普段通っている産院まで付き添ってもらうことになった。休日は特に混み合うことの多い院である。こんなことで受診すべきかという迷いはあったのだが、中に入るまで女性はどこにも行かなさそうな雰囲気だったので、セリアは根負けした。


「あら、セリアさん。今日は定期検診の日ではありませんが、どうかされましたか?」


 受付のスタッフにそう言われ、彼女は腹を括った。


「……お小水おしっこが、出なくなってしまいまして……」


 ああ、言ってしまった。

 ぞわぞわと羞恥心が這い上がってきてセリアはその場から早く立ち去りたい気持ちに駆られた。

 だがスタッフは、何食わぬ顔で、


「わかりました。ではいつものようにお小水を取って、血圧と体重を」


 などと言うので、


「だから出ないって言ってるでしょうっ!」


 と思わず涙目で叫んでしまった。

 聖女セリアは辛抱強い女性である。

 だが、それはあくまで尿意が限界でなければの話であった。




 ストーンウォールでキャリィが発明した魔力波エコー検査器は何気に世紀の大発明だったらしい。妊婦と胎児の健康を把握するのにそれまで触診と問診くらいしか手段がなかったのが、安全に体内の様子を観察できるようになったので当然である。勇者一行が王都に戻ってすぐ、各産院でも導入されるようになった。セリアが今通っている産院も例外ではない。


 助産師は張りつめたセリアの下腹部に検査器を当てながら、映写型魔石に映し出された白黒のイメージを確認して言った。


「安心してください。腫瘍があるわけではなさそうです。赤ちゃんも元気ですよ。見ます?」


 そう言って検査器をつうと滑らせていくと、黒い空洞の中に小さなものが現れた。

 以前はまだ全体的に丸っこかったのが、頭と胴、それに四肢とはっきりパーツが分かれている。

 少し待つと、赤ちゃんは全身をうねらせて魚のようにびくりと跳ねた。

 前回は動く気配などなかったのに、たった数ヶ月で大きな進歩である。


「そろそろ胎動も感じるかもしれませんね」


 助産師の言葉に、セリアはほっと胸を撫で下ろした。ひとまず良かった。赤ちゃんが無事かどうかがとにかく気がかりだったからだ。


「それで、この現象はいったい……」

「おそらくは、子宮が大きくなってきたことによる尿閉にょうへいですね」

「尿閉?」

「子宮の形は多くは身体の前側に傾いた形をしています。でも、セリアさんのように子宮後屈型といって後ろに傾いた形の方ですと、まれに子宮が大きくなる過程で尿道を圧迫してしまうことがあるんです。もう少し大きくなると自立してくるようになるので、改善するんですけどね」


 セリアはぱちくりと瞬きをしながら話を聞く。

 子宮の形が後ろに傾いているなんてこと自体そもそも初耳だ。外見上は分からないし、それで何か異常が起きたこともこれまで一度もない。


「本にはそのようなこと、全く書いていなかったのですが……」

「それはそうでしょう。発生割合としては百人に一人くらいの珍しいケースです」


 そう言って助産師は看護師に何やらテキパキと指示を出した。彼女たちは診察室の横にある処置用の椅子を手慣れた様子で準備し始める。


「導尿しましょう、セリアさん」

「導、尿?」

「尿道に管を挿入し、自動的に排尿させる処置です」

「く、管を……!?」


 想像するだけで痛そうである。

 青ざめるセリア。

 それは今日必ずやらなければいけないことだろうか。

 一旦帰ってまた自力で出せるか試してみた後でも――


「ここまで溜まってしまったらもう自力では出ませんよ」


 助産師の言葉に退路を絶たれ、呆然とするセリアは看護師たちになされるがまま処置用の椅子に座らされるのであった……。





 一般的な牛乳瓶の容量は一本当たり二百ミリリットル。

 膀胱の平均容量はおよそ牛乳瓶二本分。

 導尿によって排出されたアレの量、牛乳瓶


 十分もしないうちに処置は終わり、医院の外に出たセリアの足取りは軽かった。

 当然溜まっていたアレの分だけ体重が軽くなったのもあるが、人として何か一つ吹っ切れたような感覚があった。


 一つの命を育むという大仕事を前にしては、これまでの人生で培ってきた社会的尊厳などは何の役にも立ちはしないのだ。恥を捨て、股を開き、ありのままの母子の姿を晒す。理性による制御よりも、あえて獣としての本能に立ち返る。肉体の声に素直に耳を傾ける。それがきっと母親になるということなのだ。


(おお、主よ……! セリアは今、天啓を得たのかもしれません)


 胸元で星の字を切り、空を仰ぐ。

 よく晴れた青空。

 朝はじりじりと暑く感じたが、それも今はちょうど良い温もりに感じる。


 初夏の穏やかな日差し。

 若葉の匂いをのせた、爽やかな風。


 セリアの脳裏に王都とは違う、よく手入れされた赤薔薇の庭の景色が浮かぶ。


 母の香水と同じ香りがするその庭のことを、幼いセリアはあまり好きでなかった。

 どちらかといえば裏庭にある透き通った小川で魚をとって遊ぶのが好きだった。

 けれど、ドレスを濡らして家に帰ったセリアを、母は「はしたない」と言った。

 貴族の娘は良き家に嫁ぎ、良き妻として夫を支え、良き母として跡継ぎの男児を生まなければいけない。母はそういう考えの人であった。

 だからおてんばだったセリアに手がつけられないと思ったのだろう、まだ六歳にもならないうちに早々に修道院にやってしまい、そのぶん残る二人の姉の教育に情熱を注いだ。

 その後ほとんど実家に帰ることはなく、風の噂で姉二人が母の思い通り良家に嫁いでいったとは聞いたものの、結婚式の招待状が来ることもなかったので家族とは顔を合わせていなかった。


 母についてはなんとなく怖い人という印象しかない。

 けれど、あれで三人の子を産んでいるのだ。

 がちがちに塗り固めた社交性の化粧を落とし、本能の獣になった瞬間もあったのだろうか。

 ……想像はできないが、新米妊婦としてわずかばかりの尊敬の念が芽生える。


(そういえば、ラカンと結婚……子どもを授かったことは報告していないのですよね)


 そもそも切れかかっている親子縁。

 勇者一行として王都を出発する際に赤薔薇の花束を贈ってはくれたが、彼らとしては貴族の名家としての面目を守るためであって、ただそれだけである。

 報告する必要などないと思っていた。


 今朝、助けてくれたあの女性と再会するまでは。


「あんれ〜! ずいぶんと顔色良うなったねえ!」


 彼女は産院を出てすぐの広場のベンチに座り込んでいた。

 大荷物もそのままである。


「先ほどはありがとうございました。まともなお礼もしないまま……」

「いんのいんの! 大事じゃなくて良かったわ」


 彼女は満面の笑みでセリアの肩を優しく叩く。

 目尻にできる親しみやすい雰囲気の皺が、誰かによく似ている気がした。


「んで、お嬢さんに頼みたいことがあったもんだから、ここで待っとったんよ」


 彼女はそう言って、背負っているバックパックに挟まっている地図を取り出した。


「ちっと迷っちまってねえ。宿屋を探しとるんだけども」


 彼女はそう言って中心街近くの宿屋を指す。

 だがその地図に描かれている街並みはセリアが知っているものと少し違っていた。

 よく見ると、五年前の地図だ。

 王都は発展著しく、一年で街の景色がガラリと変わる。五年も前となるともはや別の街であり、土地勘のない人が迷うのは当然であった。


「お探しの宿屋はなんてお名前ですか?」


 王都内に宿屋なんてごまんとあるが、有名な場所であれば名前を聞けば分かるかもしれない。セリアの問いに、女性はまた別の紙――今度は手紙のようである――を取り出して言った。


「ええっと……ああ、そうだそうだ! 『赤錆び亭』っちゅう宿だよ!」

「『赤錆び亭』、ですか?」


 セリアは思わず聞き返す。

 その宿は決して有名な宿ではない。

 気のいい酒場の店主が運営している、訳あって王都に長期滞在する人向けの安宿である。酒場の二階にある部屋には最低限寝泊まりするためだけのベッドと小さな机があるくらいで、シャワーとお手洗いは共用。夕食は運が良ければまかないが出る。

 セリアも最近まで存在を知らなかった。

 だが今はよく知っている。


「うん、間違いないわ。ここにうちの息子が泊まっとるらしくてねえ」


 女性はふんすと意気込んで腕まくりをした。


 『赤錆び亭』――そこは、ラカンが滞在している宿であった。



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