第7話 勇者、保活の厳しさを知る。



 彼の名前はナイジェルといった。

 水かきのような形の耳や、手の甲の鱗は彼が竜の血を引く魔族だかららしい。竜というとさぞ強い魔族なんじゃないかとラカンは驚いたが、彼は今魔力を無効化する腕輪をつけているので魔力は一切感じられない。


「安心してください。今は育休中ですから、人を襲う気なんかありませんよ」


 育休中じゃなかったら襲うんかい。

 やや引っかかる言い回しではあったが、余計な波風は立てたくなかったのでラカンはツッコまずにおいた。


 ナイジェルが滞在している宿はファミリー向けの宿で、ベッドは子どもが落ちても痛くない程度の低さであり、部屋の隅にはベビーベッドが置かれている。ナイジェルはその上へと赤ちゃんをそーっと置いた。道中歩いている時の揺れが心地良かったのか、赤ちゃんはいつの間にか眠っていたようだ。ラカンが抱っこしていた女の子も深い眠りについているらしく、ベッドに下ろしても起きる気配はなかった。

 二人の寝顔を確認し、ナイジェルはほっと小さく息を吐いた。

 それから銀貨の入った革袋を取り出し、ラカンに渡す。


「何から何までありがとうございました。これ、お礼の代金です」

「いやいやいや、こんなにもらえません」


 ラカンは中身を確認してすぐ突き返した。

 雑用クエストの相場の十倍の額が入っている。


「でも……」

「本当に気にしなくていいですって。オレも近々自分の子が生まれるかもしれなくて、手伝いたくなっただけですよ」

「おおっ、それはおめでとうございます。予定日はいつですか?」

「年明けた頃くらい、かな」


 すると、一瞬おめでたムードに華やいでいたナイジェルの顔が途端に険しくなった。


「それは……苦労しますね」

「え? ど、どういうことですか」

「保活ですよ、保活」


 物腰柔らかな彼の口調にほんの少し棘が混じる。

 保活――いわゆる、保育園を探すための活動のこと。


「うちも娘がそうだったんですが、冬生まれってのは基本的に保活で不利なんですよね」


 今日の保育園もそうだったが、モルダーン王都内の保育園のほとんどは春に新年度が始まり、そのタイミングで新入園児を受け入れる。申し込みは前年の秋頃に一次募集があり、そこから抽選、結果が出て二次募集、空きがあれば三次、四次……と続いていく。上手くいけば新年度が始まる二ヶ月〜一ヶ月前にはどの保育園に入るか決まるという流れだ。


「冬生まれの子は一次募集が締め切られるタイミングでそもそもまだ生まれてないでしょう。無事に生まれてくるか、何か病気や障害を持って生まれてくるか……そういうのがわからない状態で保育園の申し込みをするのはなかなか難しい」


 制度上は生まれる前でも申し込みができるようだが、確かにやりづらさはある。


「でも、それなら二次募集とか、次の年になってから申し込めばいいんじゃないですかね?」


 ラカンがそう言うと、ナイジェルは「甘いッ!!!!」と叫んだ。

 もちろん、二人の子が起きないように声をひそめながらであるが。


「あのですね。基本的に一次募集でほとんどの保育園は埋まっちゃうんですよ。よっぽど僻地にある園とか、評判が良くないところでない限りは」


 ナイジェルはそう言って部屋の机の上にあった分厚い紙束を見せてくれた。

 昨年度の王都内の保育園の一次募集についての応募数が書かれている資料で、役所に行けばもらえるらしい。

 彼はそれを一番最後のページまでめくり、ラカンに見せてくれた。

 一歳児クラスの募集枠総数は、八千人。

 対して全応募者数、


「ぜ、全然足りてないじゃないですか!?」

「そう。でもこれが現状です。ちなみにゼロ歳児クラスから入ろうとすればもうちょい余裕はありますが……」


 募集枠総数、四千人。対する応募者数、三千五百人。

 だが、ナイジェルの指は募集枠の横に書かれた注釈を指す。

 そこには「内訳……百日以上児:三千五百人、百日未満児……五百人」とあった。


「これはつまり、入園児の月齢によって定員が決まってるってことです。当然、低月齢の子ほどお世話と注意が必要になりますから、同時に多人数は受け入れられないんです」

「百日未満、ってことは……」


 ラカンは愕然とした。

 これが冬生まれの子が不利だというもう一つの理由。

 そもそも入れる枠数、対応できる保育園が少ないのである。


「驚くのはまだ早いですよ。今日見学した保育園の去年の倍率を見てみてください」


 ナイジェルはページを遡っていき、各保育園ごとの応募数が書かれているページを開く。

 そこには年齢クラス別の募集枠に対し応募数が書かれており、その横に倍率が書かれているわけだが、ラカンは見間違いかと思って何度も目をこすった。だが、何度見返してみても数字は不動の「五十三」。つまり、倍率・。応募者は五十三人のうち一人しかこの園に入ることができない。

 ちなみに国内最高峰の技術を結集した王都内の魔法工学院の受験倍率は、十倍。

 今日保育園で見かけた園児たちはこの激戦を勝ち抜いた「選ばれしもの」だったのだ。そう考えると、急に神々しく思えてくる。


「あの保育園は王都の中心街に近いっていう理由でかなり人気の園なんです。やっぱり距離は正義ですからね」


 資料をざっと見ていくと、先ほどナイジェルが言った通り王都の端に位置するような保育園では応募数が定員割れしているところもある。


「大人だけだったら遠くても通えるかもしれませんよ? でも子連れでそれは無理ですって。まず思い通りの時間に出発できない、乳母車ベビーカーに乗りたがらない、自分の足で歩きたがらない、途中で抱っこしろという……まあ、もろもろのリスクを踏まえて考えると、許容範囲は徒歩十五分圏内ですかね」

「十五分か……」


 そうなると、そもそも住んでいるエリアに応じて応募できる保育園が限られるわけで。


「詰んでますね、保活……」

「でしょ?」


 ナイジェルは肩をすくめて笑う。諦めの境地に至った笑みである。

 彼は分厚い資料をしまいながら、音もなくカバンの中からガラスでできた哺乳瓶を取り出した。下の子の方は眠りが浅く、そろそろ目覚めるのでそれに合わせてミルクを作って冷ましておくらしい。

 彼は部屋の中の簡易台所に設られた魔工具でミルクの粉を溶かす湯を沸かしながらため息を吐く。


「でも、残念ながらモルダーン王都はこれでもかなりマシな地域なんです」

「と、いうと……」

「魔界はまあ、控えめに言って死ねばいいと思います」


 彼の片手に握られていた哺乳瓶がべこりと凹んだ。……ガラス製だったはずだが?

 ポットから湯気が出てくると同時に、彼が秘めていた怒りもまたふつふつと湧き始めたようだ。


「魔王が子育て支援に一切興味無いんです。未だに育児は女にやらせればいいとあぐらをかいている。そんなだから保育園は当然足りていないし、こういう応募倍率とかの情報も全然まとまってないし、やっと上の子が保育園に通えたと思ったら下の子の出産と同時に退園させられるし、そもそも僕みたいな男が保育園を見学しようとすると最初に不審者扱いされるし……」


 沸騰した合図でポットが笛のような音を発し始め、ナイジェルは即座にそれを止めた。子どもたちを起こさないようにするための配慮だろう。凹んだ哺乳瓶にトポトポとお湯を注いでいく。かすかに甘いミルクの香りが部屋中に広がった。まだ起きてきそうにない赤ちゃんの寝顔を見やり、ナイジェルはまた小さくため息を吐く。


「すみません、熱くなりました。そういうわけで、僕はもう魔界を見限ろうと思ってるんです。王都で上手いこと保育園に入れたら、園の近くに引っ越して仕事も転職しようかなと」

「大変ですね……」


 ラカンは反省した。

 まさか保育園に合わせて住居も仕事も変えなければいけない世界線が存在するとは思わなかった。

 まだ新居を決めていなかったことだけが幸いか。

 もしも何も知らずに保育園激戦区に家を買ってしまっていたら……と思うとゾッとする。


「パパ」


 ベッドの方を見やると、女の子がごろんと寝返りを打ったところだった。

 顔はすやすやと気持ちよさそうに眠っている。


「ゆうしゃのけんもいいけど、パパのけんも、……」


 女の子はその後むにゃむにゃと聞き取れない言葉を発した後、再び深い眠りに入った。どうやら寝言だったようだ。ナイジェルは少しはにかみ、彼女の丸まった背中を優しく撫でる。

 ナイジェル自身は苦労していそうだが、きっと彼のような人が子どもたちにとって良い父親なのだろう。ラカンは素直に尊敬した。自分も見習わなければ。


 今日はセリアに話したいことが山ほどできた。そろそろ帰ろうと、ミルクで余ったお湯で準備してもらったコーヒーに口をつける。だが、


「そういえば、育休は取られるんですか?」


 ふとナイジェルが振ってきた問いのせいか、やけに苦味を強く感じた。


「いや、それは……。仕事の状況的に、取れる感じじゃないかなって」


 ラカンはしどろもどろに答える。

 別に嘘でもなんでもないのだが、「良き父」ナイジェルに尋ねられると急に後ろめたくなってきたのである。


「わかりますよ。僕も、最初は取るつもりなかったんです」

「あ、そうなんですか」


 許された。そんな気がしてラカンは顔を上げる。

 だが、目と目が合って、ナイジェルは首を横に振った。


「でも、できれば取った方がいいですよ。取り返しのつかないことになる前に」

「どういうことですか……?」


 ナイジェルの表情に影が差す。


「妻が、病んでしまったんです」


 薄々気になってはいた。宿に帰っても母親の姿が見当たらないことに。

 だが、聞いてはいけないような気がして、とても自分から聞く気にはなれなかった。


「出産って、短期間で身体が大きく変化するでしょう。魔族の場合は身体だけでなく体内の魔力バランスもガラッと変わるみたいなんです。うちの妻の場合、育児のストレスでそのバランスを調整する機能が壊れてしまったみたいで……」


 ナイジェルは両手で顔を覆った。


「魔力が暴走して、完全な竜になってしまったんです。理性を失って、とても我が子を抱ける状態じゃありませんでした。だから急きょ僕も育休を取ることになりまして」

「なんと……」

「その後、魔力抑制剤の治療で数年かかってようやく元の姿に戻れたんですが、二人目が生まれた時にまた再発してしまって」


 そういうわけで、ナイジェルは上の子が生まれた時に引き続き育休を取り続けているのだそうだ。


「人間は魔族ほど魔力バランスの変化が無いそうですが、それでも精神的に調子を崩す人はいると聞きますし、やっぱり育児は支える人が多いに越したことはないと思いますよ」

「う……そうですよね」


 なんと重い言葉だろう。

 だが、ラカンとて育休を取りたくないわけではない。

 取れるものなら取りたいのだ。

 勇者というかけがえのない立場で、休むことが許されるならば……。


 その時、赤ちゃんがふぎゃふぎゃとぐずり始めた。

 お腹が空いて目が覚めたようだ。


「すみません、引き留めてしまって。良かったらまたお話ししましょう。手紙でも大歓迎です」


 ナイジェルはそう言って、メモ用紙に魔界にある現住所を書き留めてくれた。

 ドラゴフィールド領。

 はて、最近どこかでそんな名前を聞いたような……。

 しかし直後に上の子も起き出して慌ただしくなり、これ以上滞在したら邪魔になりそうなのでラカンはその場を後にするのであった。






※なお、このエピソードで記載している内容はあくまでラカンたちが暮らす世界での保活事情の話です。現実世界の保活事情とは異なる場合があります。あるといいね……。


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