美の消失
20日L(はつかのえる)
美の消失
私は私である必要がなく、あなたはあなたである必要は無い社会において、あなたでなければならないことを証明する__
「それでなんで人肉食に繋がるかな。風が吹けば桶屋が儲かる、みたいな話じゃない」
「何か事が起きると巡り巡って思いがけない意外なところにも影響が出ること。 また、当てにならない期待をすること。という意味としては不適切」
私はウンザリとした顔を隠さなかった。
「じゃなくて、極端だってこと。あなたの人肉食に辿り着く動機の言葉が」
「そうでもない」
博士の言葉は短いが故に雄弁で、それもそうかもしれないと私は思い直すことにした。
こと何かを始める動機においては風が吹くだけで充分なこともある。
食卓には家政婦である私が作り出した人工培養人肉のハンバーグとグリルにしたソーセージ、人工培養人肉のハムとキャベツのコンソメスープが並んでいる。
齢百十六歳である彼女は生え揃った真っ白な歯でソーセージにかぶりついた。
今やカニバリストは菜食主義者と同じ重さを持つことばでしかなくなった。
スーパーに行けば鶏肉豚肉牛肉人工培養人肉が共に並んでいる。
店舗デザインに組み込まれた人工培養人肉。
内装に組み込まれる人工培養人肉。
外装に組み込まれる人工培養人肉専門店。
特注できる人工培養人肉。
コンビニのホットフードのショーケースにあるじんにくくん。
各種屋内看板、人工培養人肉あります。
御歳暮に受け賜っております。
今や人工培養人肉は普通のお肉として流通している。
「カニバリストの名折れ、偏食の中の偏食家」
「その罵倒は…八十年前に聞いたかもしれないな」
「残念。たった今出来たてほやほやの罵倒ですよ。私オリジナルの」
博士は頬に手を置いた。
彼女は困るとどうにもこの昔のおばさんのようなポーズを取る。
齢百十六には見えないおよそ人間として到達出来る最高の美貌の頂点に君臨する女がそんなポーズをとると神や仏の祈りと同じ印象を与えることになる。
若さや造形故の美しさではない。
美というものが今も人間に存在するとして、彼女の完成させられた美貌は、細ければ美しい、若ければ美しい、造形が美しい…という価値観だった百年前の美的価値観とはかなりズレる。
私は長く生きたからこそ、美という言葉の昔の意味を汲み取ることができて、覚えていることができるけれど、今は人間を形容するのに美しいという言葉を使うことはタブーにされている。
第三次世界大戦を機に人間に対して美という言葉そのものが使われることは、一切なくなった。
〈第三次世界大戦の教訓〉人間は肉であり、美というものは、けっして人間に当てはめてはならない。
その昔、ダイエットという文化があった。
痩せるための商品がドラッグストアに並び、痩せるためのジムがあり、痩せた人間のモデルがいて、精神病棟には拒食症患者が小学生から各世代、バラエティ豊富なラインナップで、命が消える寸前まで痩せ細った人間たちがぎちぎちに詰め込まれていた。
肉、肉、肉、シンデレラ体型、モデル、痩せすぎ、骨と皮。
鼻管で液体の栄養食を流し込まれる患者たち。
100mlで200kcalのコンパクト栄養食。
こっそり病食の鳥の唐揚げを見張りの看護師から隠れて靴下に隠すおばさん。
プロテインと糖質制限。
トイレでこっそり吐き出す音。
指を喉奥につっんで吐きすぎて出来てしまった吐きダコ。
ダイエット市場。
第三次世界大戦。そこで人肉を食べることに対するハードルが下がったことで後の人工培養人肉が受けいられる土壌ができたといえるだろう。
当然ながら腹が減っては戦ができぬのだ。
「何故人肉食に拘るの」
「インタビューなら先週受けたけど」
「真面目に答えて」
彼女の父親が人工培養肉の研究者であることは知っている。
スクロール。
スクロール。
スクロールを百年前へ。
五キロ、
スペース、
ダイエット、
検索。
ダイエット一ヶ月で五キロ痩せられる!理想のカラダを手に入れるお役立ちコラム。
画面をスクロール。
女子高生の一ヶ月は人生の中でも貴重な贅沢品だ。
もっと、たとえば、一週間で痩せられないだろうか。 五キロとは言わないから三キロくらい。
更にスクロール。
他の人はこちらも質問。
五キロ痩せるには何ヶ月?どうやって五キロ痩せる?一ヶ月で五キロ痩せるには?なんのダイエットが一番痩せる?エトセトラエトセトラ。
夏は刻一刻と近づいてきている。
放課後のマクドナルドは私達のたまり場で、今は殺人光線の西日が遮光ロールスクリーンの僅かな隙間から差し込んでいた。
「マリィは平均体重でしょう」
キャリィが如何にも私の不摂生を心配する声色だったので私はウンザリとした気分で視線を画面から彼女の顔面に向けた。
「キャリィが言うと嫌味にしか聞こえない。っていうか平均体重ってデブじゃん」
キャリィはマクドナルドでがっつりハッピーセットを注文してポテトを指先でつついている。
なんたる油分と炭水化物。
それでいてキャリィは痩せている。大食らいな癖にそういう体質というだけで彼女の体は華奢で脆そうで危うげでミステリアスな美少女らしさを兼ね備えていた。淑やかな長い髪。
相対する私のテーブルにはダイエットコーラLサイズがひとつだけ。ひもじい絵面だなと一度気付いてしまうと変な羞恥がわいてくる。
食べるものが貧相なのに、どうして私は平均体重なんだろう。
スクロール。
「美容体重なんてアテにならないよ。年取ってから体ガッタガタ。私は栄養取らないと将来骨ボロボロになるからね」
彼女はそう言ってイチゴシェイクをキュウキュウ音を立てて吸った。
イチゴシェイクってカルシウム入ってるんだっけ。
「私はおばあちゃんになったときの体の健康より、健康なからだと美しさ、健全な心を持って綺麗なまま死にたいな…」
夢見がちな弾むような女の子の声、喋る度に可愛らしい八重歯が覗いている。起きながら夢を見ているような夢想家の声のフィマ。
「フィマ」
キャリィが現実のような声を出して夢想家のフィマの頭をぽかんと叩いた。
「あいた」
フィマの刹那主義的な考え方は私にとって魅力的ではあった。
「不健全だよ。そういうのは」
キャリィはそう言ったけれど、健全な考え方が肯定される世の中だったらダイエットなどという言葉が生まれるはずがない。
だって、治療目的、健康のためにするための減量以外のものは、全てファッションのための文字通り身を削る行為でしかないのだから。
美しい盛りと若さを持て余す女子高生が美しくなりたいと思うのは自明で、そのために身を削ることを厭うものは少ない。
努力するのは大変だけれど痩せたいよな、という願望は誰にだってあると思う。
フィマは今日はチートデイなのだと言い訳して、マクドナルドのマカロンを五個並べてホットコーヒーをドリンクにつけてキャリィの隣の席に並べている。フィマの視線が何度も隣のキャリィのフライドポテトに動いていた。
フィマ曰く、チートデイこそ美味しいものと可愛いものをカロリーを気にせず食べることで乙女としての矜恃が保たれるんだそうだ。
そうかな?
フィマはフィマで痩せている。今日はチートデイというだけで、ほぼ毎日過酷なダイエットをこなしているからだ。
だけれど空腹を感じたら水をたらふく飲む、というダイエット方法は過酷すぎて私には真似できそうにない。
あなたの美貌は参考にならないよ、フィマ。
私が必死こいてダイエット法を検索しているのは、体重が増えたからだ。
私は重くなると弱くなる。
最近といえば、デブというのは、それだけで何を言われてもいい対象になりやすい。
だから人々は手っ取り早く身の安全を確保するために、将来の骨の心配よりダイエットを優先する。
デブ、デブから抜け出すためのダイエット。
デブと痩せの境は曖昧だ。
というかダイエットを極論まで突き詰めてしまうと、この世にはデブと痩せしかいないのではないか、と私は思う。
つまり平均体重というのは私にとってなんの慰めにもならない言葉だった。
平均体重は痩せているわけではない。
痩せじゃないならデブだ。
「いつまで痩せ続けなきゃいけないのかな」
フィマは机に突っ伏した。
「いけないってわけじゃない」
キャリィは諭すと机に乗ったフィマの頭をわしゃわしゃと撫でる。ダックスフンドにするみたいに。
「いけないんだよ。綺麗であることを憧れる社会がある限りはね」
私の言葉にキャリィは眉間に皺を寄せた。
「まあ、…でもそう。もう少し肉に対して寛容である社会ならよかったと思う。百年経てばみんな嫌でも腹に肉がつきやすくなって体はボロボロになってるはずだけれど。その時にダイエットは無意味だったと、きっと思わない。あの頃の私は若かったとか美しかった記憶に縋り有難がる老婆になるだけで」
酷い皮肉、悲観的な気もするけれど結局はそう。人は過去の自分の努力を否定できない。
それが身を削り、自分の骨を脆くする不摂生の努力であったとしても。
「肉っていうと肉肉しいね」
フィマはうげえと小声で。
「さすが父親が人工培養肉の権威なだけある」
私が付け加えると、キャリィは首を横に振ってフライドポテトを二本同時に口に突っ込み咀嚼しながら。
「関係ないよ。でも結局、人間は体に肉がないと生きていけない。気をつけなさい。拒食症になったら大変だから」
「キャリィ、お母さんみたいなこといわないでよ。水がぶ飲みしてる横でそれを言われるんだから。萎えるっての。我慢して努力してるのこっちは」
「フィマは今年のミスコン候補だもんね」
テンションが下がったフィマをあげるべく、私は話題を変えた。
毎年学園祭で催されるミスコンは校内外から見物客が来る。ローカルニュースでも取り上げられるほど、兎に角物凄く盛り上がる祭典なのだ。
ミスコン優勝者の頭に乗せられるティアラが割と気合いが入っていて、というかそんなのどう考えても学園祭に使うやつじゃないウン百万する程のティアラなのだが、優勝するとそのティアラを頭に載せることが出来る。
フィマは高校一年生でありながらその抜群のプロポーションと乙女らしさ満開の美貌で二年三年の先輩方を押し退け優勝候補と囁かれている。
「まあね。でも優勝したらどうしよう。先輩に嫌がらせとかされそう」
きゅう…とかなしげにフィマが鳴いた。
ポジティブなのかネガティブなのか分からない。
「それもいいけれど学業も疎かにしないこと。執拗いけれど拒食症になったら程度によっては記憶力も落ちるし、他にも弊害がいっぱい。一応聞くけれど明日中間テストってことを覚えているよね」
「忘れてたかったなぁ。キャリィ、やっぱり人は食べない方が幸せだよ。覚えていたいことなんてあんまりないもの」
キャリィがフィマの頭を叩いた。
「あいた!」
「絶対この後勉強教えてって流れになっても教えないから」
私は絶望した。ただでさえ身の丈に合わない難関学校を受けてしまって、入学してキャリィに知り合ってからずっと、キャリィの放課後のマクドナルド補習で何とかしてもらっているというのに。
キャリィの助けが無かったらどうなるだろう。
「えっ、今日ってそういう集まりじゃないの?勉強会しよう!的な…」
キャリィは私を一瞥して。
「マリィはダイエットのお勉強でしょ」
「キャリィ先生お願いします」
フィマがキャリィの顔の前で両手を合わせると、キャリィは溜息をついた。
忌々しそうにスクールバッグから教材を準備している。
「キャリィ、愛してる」
フィマの軽口にキャリィは溜息をつく。二度目。
キャリィはフィマに弱いのだ。
「これで赤点取ったら承知しないからね。マリィも」
フィマはこれで明日も乗り越えられる、と八重歯を見せて高らかなソプラノで笑った。
次の日、フィマは学校に来なかった。
スクロール。
スクロール。
スクロールを三ヶ月後へ。
「こちらが精神科病棟です。管理する為に病棟へ入ると扉にロックがかかります。規定の時間内に病棟から院内へ出る際は、看護師に申し出て下さい。安全のために出入りの際に必ず荷物チェックをさせて頂きます」
精神科の閉鎖病棟と聞くと、ホラーゲームの舞台のような薄気味悪い監獄のような、もよもよとした想像しか出来なかったのだが、白い清潔感のある病棟だった。映画バイオハザードのアリスが歩く白い部屋のようだと思った。白い廊下で男がレーザー光線でひし形の肉になってしまうシーンを思い出してしまい気分が重くなる。
自分にとっての未知の領域は恐怖の対象になりやすい。
私の担当の小柄な若い女医は気難しそうな顔を隠すように優しい声色で話す。
廊下を進むと食堂のようなスペース、或いは家庭用のリビング拡大版があって、テレビが一台置かれていた。患者だろう初老の男がソファに座って相撲を視聴している。健康そうな体で筋肉が鍛えられている。入院中、しかも閉鎖病棟で、どうやって筋肉を育てているのだろう。
「白金マリィさんは、四人部屋です。他にも患者さんが三人入っていますが、何かトラブルがあればナースコールを押してください。部屋に案内する前に荷物検査を兼ねて会議室で面談をします」
女医はそう言って会議室へ進み私もそれに続く。会議室の中に通されると、体重計と身長を測る器具が目に入った。
それと面談用の椅子と大きなテーブル。会議に使う積まれたパイプ椅子。精神に関わるのだろう大ぶりの本が厳格そうに壁一面の棚に隙間なく納められている。聞いたことがありそうで無さそうな精神論を解いた…なんだっけ?ユングの本があって、それにだけ親しみを覚えた。
「座ってください」
私は女医の指示に従って荷物を床に置いて座り、女医は私とテーブルを挟んで座った。
「今回の入院の目的をどう考えていますか」
私は言葉に詰まった。
はっきり言ってなんと答えればいいのか分からない。
それでも女医がどんな目的で私を入院させたのかは検討がついた気がした。
「不健全なダイエットのしすぎを改めるためです」
女医は頷き。
「食への異常行動を治療します。今の白金マリィさんは165センチで35キロ」
食への異常行動、という言葉にひっかかりを覚えた。
そもそもダイエットという行為そのものが食への異常行動ではないのか。ダイエットをして私より痩せている人はきっと世界中にどこでもいる。スーパーモデルは食への異常行動をきっとしている。彼ら彼女らは雑誌のインタビューで、それを努力と答えていたはずだ。
「危険ですか」
「三ヶ月で20キロ減っています」
「危険ですね」
女医はあくまで自分で考えろ、という治療スタンスのようで私は自分で問いかけて自分で答えた。
「治療計画は一ヶ月と書類上は書いていますが、その時の病状によってそれより長く入院することになります」
学校は休学扱いだ。
早めに出ないと酷いことになるな、と頭の片隅でぼんやりと思った。
「頑張ります」
「あまり頑張らないでください。貴方には休養が必要です」
体重を増やすために食べることは頑張ることじゃないのか。そう思ったけれど言わなかった。
「分かりました。よろしくお願いします」
そして面談と諸々の施設の説明やルールが説明され、荷物を検査された。
意外にもブラジャーは危険なものにカウントされるらしく、お預かりされてしまった。
私はノーブラワンピース姿で家族へメッセージを送る。
自分に乳首がある、という羞恥心に耐えられない。ブラカップ付きのタンクトップをもってくるように頼んだ。
四人部屋はカーテンで仕切られていた。奥の窓際に私。隣のカーテンは締め切っていて誰がいるのかよくわからない。小さく音楽を聞いているようなシャカシャカした電子音が聞こえた。
他のベッドの住人も干渉不可、といった様子でベッド周りを完全にカーテンで包囲している。
一応挨拶しようかと思っていたのだけれど、乳首が整うまではしないことにした。
コンコンと病室の壁を叩く音がした。
「白金さん。白金マリィ、さん…」
控えめに呼び出す声に私は胸を片手で隠しながら、病室から出た。
可愛らしい八重歯の女の子、フィマは白いパジャマ姿で私に抱きついた。
「マリィ…どうしてここにいるの…」
「フィマと同じ理由。親が心配して精神科に連れていったらアウト食らっちゃってさ」
フィマは学校に来なくなったあの日からここに入院している。三ヶ月近くここにいるはずのフィマの体型はあまり変わっていない。体重は恐らく増えていないだろう。
「こんなに痩せちゃって…」
フィマが涙を流したので私は狼狽えた。親でさえ、心配はしていたけれど、痩せすぎたことで泣いたりしなかった。
「フィマも同じでしょう」
「そうだけど、たった三ヶ月で人がこんなに変わると思ってなかった…から」
私は苦笑する。あのフィマが、痩せることに対して悲観的な視線を向けるようになっている。もしこれが治療計画に組み込まれた、認識への改革だとしたら、彼女は目に見えない範囲で健康体へと近づいているのだろう。
「まあね。私もびっくり。痩せたら楽しくなっちゃって、周りからの視線も怖くなくなった。皆から羨ましがられて、歩くだけで何故か私は無敵なんだって思っちゃって、最高の気分だったよ」
フィマは私に抱きついたまま、俯いた。
可愛らしい睫毛が震えている。
「分かる、気がする」
「でしょ。キャリィだけはずっと口うるさかったけれど」
「心配だったんだよ」
「分かってる。でもキャリィはあの体質で大食らいのくせに痩せてる。私達の努力とか、苦しみとか絶対分からない」
フィマは目を見開いた。
「言ったの?それをまさかキャリィに」
「フィマ、あの子はあんたが入院してる間にちゃっかりミスコンで優勝してるんだよ。文句ぐらい言っていいでしょ」
「やめて!」
フィマが小声で叫んで私を突き飛ばした。
「ちょっとどうしたの」
「キャリィのこと知らないくせに、上辺だけみて気に食わないからって石を投げるのは間違ってるよ」
私はカチンときた。
そりゃキャリィとフィマは小学生からの付き合いだろうから、私よりキャリィのことを知っているんだろう。
だからって知らないくせにと責められるのは理不尽だ。キャリィは私に上辺しか見せてないじゃないか。
「だったらキャリィは私にそう言わせないように努力するべきだったんだよ。貴方と違って私はキャリィと知り合ったのは高校に入ってからなの。四ヶ月で何が分かるの?こっちは上辺だけ見て判断するしかないじゃん」
「ちがう!ちがう!だってミスコンだって参加は強制だし、綺麗だと思った人に投票しようっていうルールじゃない!キャリィが自ら立候補した訳じゃないんだよ!」
それは、そうだ。
それでももう私についてしまった勢いは止まらない。
「それでもキャリィはティアラを頭に乗せた。拒まなかったんだよ。それが私にとってのキャリィの全て」
フィマは大粒の涙を流していた。
騒ぎを聞きつけた看護師が私達を遠ざけた。
その後、何があったのかと看護師に聞かれて、医師にも聞かれた。
私は友達と喧嘩です、とだけ答えた。
もし今後もこんなことがあれば、接触を控えるようにと口頭で注意された。
その日は部屋にこもりっきり、ベッドにこもりっきりで、入浴とトイレ、食事を部屋に運ぶ時だけ廊下を歩いた。
フィマと廊下で一度だけすれ違った。
視線が合うことはなかった。
味の薄い夕食のお膳を殆ど食べないまま提げ、処方された安定剤を服薬を管理する看護師の前で飲み、洗面を済ませると、スマートフォンに家族からの連絡とキャリィからの連絡が入っていた。
私は恐る恐るキャリィのメッセージを読む。
〈明日学校が終わったら二人の見舞いにいきます。もし会いたくなかったら病棟から出なくていい〉
何故か涙がこぼれた。
そのまま眠ろうとして、眠れなくて部屋を出た。
ナースステーションはガラス張りになっていて、病棟の監視室みたいだった。そこから夜勤の看護師達からの視線を感じたけれど、構わずテレビのある食堂のソファに靴を脱いで体育座りになった。
ひとりきりだった。
キャリィは私を責めなかった。
どころか私の気持ちを多分汲んでいる。汲もうとしている。
確かにダイエットを頑張っているとき、キャリィのことが口煩いと感じるようになった。
キャリィに対してずるい、と思うようになった。
キャリィには私の気持ちなんて分からないだろう。
でもそれって当たり前のことだって、私は心のどこかで知っている。
本当は分かり合うことなんて不可能で、それを良しとするかしないかは自由で、私はそれを良しとしなかっただけなんじゃないのか。
キャリィが私のことを分からない、という当然のことを許さなかったのは私なんじゃないのか。
また静かに涙が垂れた。看護師に気づかれないように声を押し殺して泣いた。
朝方一時間だけベッドで眠った。
ダイエット中に気づいたのだが、人は空腹だと眠れなくなる。睡眠は一時間でも今の私には充分だった。
朝食を取りに来てくださいと、部屋のスピーカーから放送が流れた。朝食を取りに行こうと部屋を出る。
朝食を各棚のような仕切りに詰め込んだ運搬機器が運び込まれ、その周りにずらりと朝食を取りに来た患者が並んでいる。
精神科病棟に入院するだけの理由がある老若男女がこんなにいるのか、と感心した。
その中に紛れる食への異常行動をしているだろう患者が、何故か私には人目見ただけで、誰がそうなのか理解することができた。
過食、肉、肉、肉、拒食、シンデレラ体型、モデル、痩せすぎ、骨と皮。
その中にフィマがいた。
可愛らしい白いフリルのパジャマ姿の彼女はしゅんとしていて、胸が傷んだ。
朝食に殆ど手をつけないでさげようとすると、どれくらい食べましたか、と看護師さんから声をかけられた。
「ええと、殆ど食べていません」
看護師は持っている管理表にポールペンを走らせ白金マリィ、朝食の欄に、ほぼゼロと記入した。
「ええと、それいつも聞くんですか」
「はい。昨日からマリィちゃんは殆ど何も食べていないから…ジュースなら飲めますか」
「それくらいなら」
私は頷くと、看護師は紙パックの100mlのジュースを二つ用意した。
「麦茶味とバナナ味です」
恐る恐る紙パックを確認する。
「これ、ひとつ200kcalもありますよ」
「そうです。ここで飲んでください」
私はソファに座り、ストローを紙パックに挿して飲んだ。コーヒーのフレッシュミルクみたいな泡立てる前のホイップみたいな酷い油分と乳製品を感じさせる味で、どちらも甘い。味は悪くないけれど、200kcalもあると考えるだけで吐き気がした。
飲み終えたあと、トイレで吐こうとしたが胃に粘着しているようで上手く吐き出せなかった。
うがいをして、手を洗う。
トイレの外にフィマがいた。
「拒食症患者の考えることは同じだね。私も最初はそうだった」
声は穏やかで、酷く私を心配しているように見えた。
「他に誰かいた?」
フィマは首を横に振った。
「大丈夫。でも看護師さんは分かってると思うよ。ここ、廊下は一直線で、ナースステーションから覗けるから、食後にトイレで曲がったら怪しまれる。拒食症患者は特に。あとは匂いとか勘でわかられちゃう。何よりカロリーを取ってるはずなのに体重が増えてなかったら、それが何よりの証拠だから」
「厄介だね」
「ねえ、マリィ。ここから出たいなら食べなきゃだめ。体重が増えなきゃ鼻から液体を入れられるのよ。従順に治療を受け入れなきゃ、看護師や医師からの視線は冷たいものになる」
「だから太れってこと」
フィマはちがう!ととても小さい声で叫んだ。
「なんで食べ物を食べるかわかる?生きるためよ。あなたはこのままじゃ衰弱して死ぬ」
「体の健康より、健康なからだと美しさ、健全な心を持って綺麗なまま死にたいってフィマは言ったよね」
「マリィお願いだから食べて。私も食べてる。食べてないとイライラするの、だからそんなこと言っちゃうのよ」
フィマは包装されたキャンディをひとつ渡した。
レモン味。
私はイライラしながら包装を剥いて、それをひとつ口に放り込んだ。
甘かった。
一気に後悔が押し寄せてきた。視界が歪んだ。
「ごめん、ごめん…わたし」
キャリィは私を抱きしめた。
「いいよ。何も言わなくて。食べてないとイライラする、でしょう?」
私は頷いてぼろぼろと涙を流した。川が決壊したみたいな号泣をしたのは、いつぶりだろう。
「私、フィマにもキャリィにも酷いこと言っちゃった」
「キャリィは、友達には優しすぎるくらい優しいから大丈夫。ねぇ昼ごはんは一緒に共有スペースで食べない?強制はしないけれど…」
「大丈夫。食べよう一緒に」
私が頷くと、フィマは目をダックスフンドみたいにうるませた。
「よかった。ねぇ私お菓子買ってくる。本当は誰かと一緒にお菓子食べるとか病棟のルール的にダメなんだけれど、私達だし」
「えっ、いいよ。私も行く」
フィマは抱擁を解いた。
「マリィが今とっても無防備ってこと。下着が届くまでは女性病棟から出ちゃだめだからね」
私は真っ赤になって頷いた。
フィマは院内外出をして院内店舗のコンビニで冷凍マカロンとホットコーヒーを買ってきた。
思えば、彼女と一緒に食事をしたのは、あのマクドナルド以来だった。
お礼を言って一緒に食べるとそれだけで楽しかった。
午前中に家族から下着が届いたので、お昼はフィマと共有スペースのリビングのような内装の食堂のテーブルの一つで一緒に食べることができた。味気ないミートソースパスタにも文句は無かった。
何度か他の患者に視線を向けられたり話しかけられたりしたが、私に話しかける患者にもフィマは間に入って、それをのらりくらりと交わした。
「ありがとう」
フィマはコップに入ったほうじ茶を置いた。
「何が?」
「慣れない場所だから緊張してたんだ。助かった」
「いいよ。ここ、若いってだけで話しかけられること多いし、話せば患者通しでトラブルになりやすいから」
「すっかり慣れてるね」
「慣れてるってわけじゃないけど、三ヶ月もここにいればね」
「退院は」
「もう少し、かな。精神的なものは大分よくなったみたいだけれど、体重がなかなかね。ドカ食いするわけにもいかないし、地道に増やしていくしかないよ」
「体重が増えればいいんじゃないの」
「健康的に増やすことが担当医の治療方針なんだ。ドカ食いは不健康的でしょう」
私は頷いた。そういえばそうか。
「今日、キャリィが来るって。フィマにも連絡来てた?」
「きてた。お風呂の後くらいにいつも来るんだ」
フィマは顔を曇らせた。
「どうしたの、キャリィと喧嘩したわけじゃないよね」
「ちがう。キャリィ最近お父さんの研究手伝ってるみたいで、最近凄く忙しいみたいなの」
それは知らない情報だった。
ミスコンを機に、キャリィを避けてしまったけれどキャリィはいつも通りだったように見えた。
父親の手伝いというと、人工培養肉の研究だろうか。私にはよくわからない分野だ。
「そうは見えなかった。顔色だって普通に見えたし」
フィマは厳しい顔をして、更に眉根を寄せた。
「そう、例えば血色がいいように見えた?」
「分からない。不健康そうには…見えなかったな」
フィマは押し黙ってそのまま考え込んでしまったけれど、すぐにいつもの柔らかい表情に戻った。
シャワー浴を済ませて、夕方になるとキャリィから連絡が来て、私達二人はナースステーションの受付で院内外出用の用紙に署名して、看護師の案内を受けながら外に出た。
外に出たあと、後ろで病棟の扉が閉まる音がした。
そこでキャリィが待ち構えていた。
「え」
私は一言を一文字。
だって、キャリィは血の気が無くて酷く憔悴して見えたから。顔色が悪い。学校にいるキャリィとは別人みたいだ。
「マリィが言ってた。学校だと顔色いいんだってね。メイクしてたでしょ」
フィマは詰問した。キャリィの瞳を真っ直ぐ彼女の視線が射抜いている。
血色をよく見せるためのメイク、ファッションではなく恐らく私や他の人間に自分の不調を悟られないための気遣い。それをキャリィはフィマの前ではしていない。隠していない。
そんなことなんて知りたくなかった。
キャリィは思わずたじろいで自分の頬に手を置いた。
「あんまり隈が酷いから。それだけ。身嗜みの範疇だと思うけど。そんなことより始めるよ。下のカフェで勉強」
「えっもしかして、お見舞いって…それしにきたの」
「そう。二人とも、いつ復学しても大丈夫なように。マリィの分の教材も用意したから大丈夫。病棟から手ぶらで降りてきていいよ」
一階のカフェスペースには、患者や患者の家族、患者と見舞客などで賑わっていた。そこにキャリィは私たち3人が座れるテーブルを陣取ると、そこに教材を並べだした。更に筆記用具とノート。フィマのものと、私の新品のもの。
本当にここで勉強するんだ、という気持ちと、キャリィが私のためにここまでしてくれているということに高揚を覚える。
「医者は休めっていうけれど、結局後からしんどい思いをするのは嫌でしょう。自分の職業外のことは割とスッパリ切り離す医者が多い。そうでもしないと自分のメンタル壊しちゃうからね。患者の人生と自分の人生の線引きをきちんとしてる人は親切では無いかもしれないけれど、自己メンタルを管理できるなら信頼できる医者だと思う」
キャリィは私達と明らかに違う。
高校生一年生の十六歳にしては落ちつきすぎている。
この落ち着きをキャリィはどこで習得したのだろう。
「キャリィは物知りだね」
私の言葉にキャリィは首を横に振り。
「過去の教訓。小学生の頃に偏食と拒食が重なって、あの病棟にいたことがあるだけ」
小学生が拒食症になる、私はそれに衝撃を覚えた。
「小学生って、どうして。十五歳以下なら普通は小児科でしょう」
「拒食症の程度が酷かったんだよ。殆ど骨と皮。小児科でなんとかなる話じゃなかった」
「痩せたい、と思ったから拒食症に?」
「どうだったかな。切っ掛けは、上手く思い出せない。空気だったのかも」
「空気?」
「小学生の中にも場の空気っていうものがあって、デブより痩せている方がなんとなく良かった。友達関係とか、信頼とか、そんなものが肉によって左右されてるんじゃないかってその時は信じてた。なんとなくの生きやすさを求めて、そして拒食になったの。鼻管での栄養投与は本気でキツイから二人ともちゃんと食べなよ」
キャリィがダイエットに口煩いのも当たり前だ。
私は視線を下におろした。
「ごめん、私ミスコンの時からキャリィに酷いことしてた」
隣のフィマが私の顔をみて、肩に手を置いてくれた。
「マリィは悪くないよ。私が憎むのは今の美という概念。肉に対する憎悪を植え付けられて、それを美だと信じ込んでしまう人はただの被害者。ダイエット市場の哀れな子羊」
「でも、綺麗なものは綺麗でしょう」
フィマが口を挟んだ。
「うん、私もスーパーモデルの美しさを否定することは難しいって感じる。憧れてしまう。でもね、結局人間は」
__肉なんだよ。
その時のキャリィの顔が百年経った今でも忘れられない。
スクロール。
スクロール。
スクロールを百年後へ。
私とキャリィ博士は高校生の頃の同期だ。
だから彼女が戦争を挟んだ、かつてない食料不足を体験したことも知っているし、私自身にんげんを食べている。
今の若い世代は人工培養人肉しか知らないけれど、私たちはもっと粗野、ワイルドな肉を体験している。
そして私は戦争が始まる前に、ダイエット及び拒食症患者として肉が無さすぎることによる入院も経験している。
クリーンなモデル体型から拒食症患者に、そして戦争によって人肉を貪るカニバリストに。
プロテインと糖質制限から100mlで200kcalの栄養食へ、そこから戦争をサンドして人間の脳味噌へ。
第三次世界大戦の最中、食肉として動物達は食べ尽くされて、養殖も畜産業も肉を、食物を育てる暇さえ砲撃や核ミサイルが飛び交っている間はなかった。人肉を貪って生きていくしかなかった。
第三次世界大戦が終結したときの某国の大統領の演説。
「人は肉でしかなかった」
悲惨な戦争を想起させるための呪文のような言葉ではあったけれど、第三次世界大戦は肉の戦争とも言われるほど、肉が肉を食べると形容するに相応しい凄惨な殺し合いだった。
第三次世界大戦の教訓。
人間は肉であり、美というものは、けっして人間に当てはめてはならない。
そして改めて、
Q何故人肉食に拘るの。
キャリィ博士は七年ぶりの溜息をついた。
「Prototype_が生きていた頃の話だ。九十五年前から私が毎日食べている培養肉は彼女のものだが、彼女の死因を覚えているかね」
Prototype_は彼女が一番最初に人工培養人肉にした人肉だ。
私はそれがフィマという女の子だったころからしっている。
笑うと八重歯が覗いて憎らしいほど可愛い女の子だった。
「自死でしょう。貴方が歪んだ愛情を向けているソーセージさんは」
「君は幼稚だな」
「好ましい?」
「ああ」
キャリィ博士は頷いて二本指を立てた。Vサイン。
「人を構成する要素だ。マリィはなんだと思う?」
「物語、肉」
君はロマンチックだな、と彼女は神妙に微笑んで目を細めた。
「もちろん昔から想像力と物語を用いて故人を証明する手段はあった。私に文才があればよかったと思わない日はないよ」
でも結局のところ人は、文字でもなければ本でもない__と私は思う。
「それで、肉?」
「私に想像力が欠如していることは認める。だが生きている時と寸分狂わぬ彼女には物語や、たましいの他にも肉が必要だと思った。あの子が飛び降りてぐじゃぐじゃにしてしまった体だって必要なものだって。言葉とたましいの他に彼女の一部であるなら、あなたのすべてがだいじにされるべきだって」
何が人工培養人肉の権威だ。
初恋を百年こじらせているだけじゃないか。
フィマは私達と同期の拒食症の女の子だった。
そして、彼女は体重が五キロ増えた事にショックを受けて投身自殺した。
五キロふえただけでフィマは外に出られなくなった。
五キロふえただけでフィマは人が怖くなった。
五キロふえただけで自分はデブだとフィマは思った。
五キロふえただけでフィマは十四階から投身自殺した。
五キロ増えて、葬儀場で焼かれ、遺灰と骨だけになってフィマはとってもスリムになった。
以下抜粋。彼女の遺書。
〈私は私である必要がなくあなたはあなたである必要は無い〉
この走り書きがフィマが最期に遺した言葉だった。
そして途方に暮れた友人二人がのこされた。
キャリィと私。
キャリィとマリィ。
フィマを愛していたキャリィは、父親と同じ人工培養肉の研究の道へと進んだ。
〈私は私である必要がなくあなたはあなたである必要は無い〉
それがフィマにとって何を意味することばだったのか、キャリィがほんとうの真実をしることはできない。
生きてる身からすれば、どのようにも受け取れるし、受け取らないこともできる。
だけれど、その言葉が彼女の人工培養肉研究者としての道を後押ししたことはいうまでもない。
キャリィはフィマの遺言を、自分が過去にミスコンで優勝してしまったことが原因なんじゃないかって考えてる節があるように思える。
けれど私達の青春時代といえば、SNSが発達した時代でもあったから、匿名性という気軽なアイコンを被り、誰もが誰かの慰めになり、誰もが誰かを救おうとし、誰もが誰でも、そのとき欲しい言葉をかけてくれるパーツだった。誰が誰でもよかった。人々がとても機能的な時代だった。〈私は私である必要がなくあなたはあなたである必要は無い〉、そんな時代だった。
だから別にキャリィが責任を感じる必要は無い気がする。真実は割と、見当違いなのかもしれないよと忠告すべきなのだろうけれど、私はそれをしようとは思わない。
そんなこんなで、このいい歳をした初恋拗らせ博士は九十年程前、フィマの最期の言葉に対してこう返答すべく行動した。
〈私は私である必要はなくあなたはあなたである必要はない社会において、あなたでなければならないことを証明する〉
「フィマでなければならない、か。皮肉だね。五キロの肉が原因で死んだフィマの培養肉がスーパーで並んでる。鶏肉と一緒に」
その言葉が些か刺々しいのは、彼女がハンバーグは和風が良かったなどとぼやいたからだろう。
明日から自分で作れ。
「フィマ無しでは今の世界の食卓は支えられない」
そうキャリィ博士が呟いた。
歪んだ根性だ。
何億何兆トンのフィマの肉を生産して消費者がそれを食べる。
鶏肉豚肉牛肉、とりわけ過激な動物愛護団体は自然環境に依存しない人工培養人肉を歓迎した。
そして戦後直後、キャリィ博士が安価で安全で恒久的な人工培養人肉を生み出すシステムを構築すると、徐々に社会はそれを受け入れ、人工培養人肉は社会的肉と呼ばれるようになった。
確かにそれならフィマの五キロぶんの肉の有用性は証明される。
今や肉と言えば安心安全な人工培養人肉だ。
人工培養人肉はフィマだ。
フィマがフィマでなければならない。
そんな理由のようなものになるかもしれない。
「そう。それで満足?」
「まさか。彼女は死んでいるんだよ。彼女について私は永遠に満足できないよ」
私は溜息を二連発。
「肉の有用性を証明するだけなら、培養したフィマの人工筋肉を労働に組み込む手もあったでしょう」
「働かない肉に有用性がないことになる。却下」
更に彼女は下品、と付け加えた。
私はむっとする。
「食用としての肉の有用性には品があるわけ」
「食用としての価値があるから消費してるわけじゃない。私は彼女じゃなくちゃだめだから食べるんだよ。それ以上の有用性はいらない」
とんだ拗らせ博士だ。
〈あなたのからだは私にとって必要〉
それを彼女が出力すると、人工培養人肉を食べることに繋がるらしい。
Q何故人肉食に拘るの。
Aフィマが好きだから。
やっぱり風が吹けば桶屋が儲かるじゃないか。
私は溜息を三連発。
過去へのスクロールを九十八年分連発。
私達二人は三年生になった。
フィマと私。
フィマとマリィ。
なんだかんだとキャリィのお見舞いのおかげで復学後の勉強で苦労したことはなかった。どころか学内首席と次席という地位に私とフィマは立っていた。
体もなんとか病的な痩せ方からは脱して、極めて健康体。なによりそれを良しとする精神が定着したことで一キロ二キロ増えたことで私は動じなくなっていた。
その立役者のキャリィといえば、この春に退学した。
父親の研究を手伝うことで学校どころではなくなったのだとキャリィは私達に説明した。
私達はその説明に納得していない。
フィマが電話で泣き落として、何度か無理矢理マクドナルドに呼び出してはキャリィと一緒に食事をした。
キャリィはずっと具合が悪そうで、たぶん殆ど寝ていない。過労死というものが高校生の私にはあんまりリアルに想像できないけれど、その内死んじゃうんじゃないかって、そう思った。
「大袈裟」
キャリィはそう言ってイチゴシェイクを吸った。
私達三人は四人席のテーブルに陣取ってキャリィを尋問するかのように、フィマがキャリィの向かいに座り、私はフィマの隣に座ってポテトをつまみながら、じっとりとキャリィを睨んだ。
隣のフィマはきゃんきゃんと喚いた。
「そもそも、お父さんの研究はひと段落ついたって言ったじゃない。k_meetは厚生省から認可が降りたんでしょう?痩せるお肉だよ?人類の夢が叶ったなら、少しは休んだっていいじゃない」
k_meet、痩せる肉。
ダイエットコーラと同じようなお肉。
糖質ゼロ、カロリーゼロ、高タンパク質。ダイエット効果有り。特定保健用食品。
今やダイエッターから絶大な支持を集めるk_meet。
だけどキャリィが、そんなものを作るために、研究を手伝うだろうか。
既存の美を憎み、ダイエットに対して警鐘を鳴らしていた彼女が。
「そう、夢みたいだよね。凄い人気。大量生産もできるから、凄く安価なの。マクドナルドでもそのうちナゲットがk_meetになる」
キャリィは眠いのだろう、先程から何度も目を擦っている。
「ねえ、それキャリィのお父さんが開発したんだよね。よく分かんないけれど研究の責任者はお父さんなんでしょう」
じゃあキャリィはなにをしていたの、そう続けようとして何故かその答えを聞くのがこわかった。
「ええ、私のパパ。今日もあちこちで飛び回ってる。ノウハウを解禁することになったから」
「えっ、解禁しちゃうの」
せっかく開発したものを手放すのか。
「いいものは共有しようってはなし。他の会社や人間が同じようなものを作ろうとして、粗悪品を作る可能性があるくらいならね」
私は分かっていた。
キャリィの目的はもっと最悪なものだ。
ダイエット商品を作って、はい終わりなわけが無い。
スクロール。
スクロール。
スクロールを未来に九十八年分連発。
k_meetが何を引き起こしたか、それは考えうる最悪の結果というだけで、奇想天外な結末ではない。ましてや予測不能の未来ではなかった。
初めから専門家連中は警鐘をならしていた。
k_meetが普及すれば、食糧事情は一変する。なにより栄養を取るための肉ではなく、減量のための肉、取れる栄養素はタンパク質だけとなれば、使い方次第で摂食障害の患者を増やしかねない。
キャリィのパパは、それは確かに使い方次第です、と科学者らしく一蹴した。
そして消費者達は使い方を大いに誤った。
先進国が大量の摂食障害者を抱え込んで社会問題になった。
患者は痩せることへの異常な執着をみせて、摂食障害を克服して、退院すると、k_meetのある生活へと戻っていった。
k_meetを規制する、という話は勿論もちあがったけれど、場所により合法・非合法と別れたり、完全に規制はしないところに留まった。
ある場所では、k_meetは麻薬と同じような扱いを受け、ある場所では麻薬よりクリーンな健康補助食品としての地位を確立し、糖尿病などを扱う医療現場では改良されたk_meetが重宝された。k_meetはやはりどこかの誰かの生活の一部として根強く生き残った。
そして気候変動による干ばつ被害、大雨災害、山火事、他いくつかの不幸が重なって各国の食料自給率は下がり続け、そんなタイミングで第三次世界大戦が起こった。
あの第三次世界大戦は食料不足による混乱が発端だったと今の戦争学者は分析している。
k_meetを開発した朱宝ヒガシはその責任を取って自死した。
そしてその娘、朱宝キャリィが人工培養人肉を発明した。
表向きには朱宝ヒガシの発明品であるk_meet、あれはきっとキャリィの作品だ。
結果だけみてしまえばわかる。何もかもキャリィにとって都合がよすぎる未来が今なのだから。
ただひとつキャリィに誤算があったとすれば、フィマが死んでしまったことだろう。
フィマにk_meetを作り出したのは、キャリィかもしれないと話したのは私だ。
そんな予感めいたものだけを話しただけなのに、フィマは私より確実に、よりリアルにキャリィが既存の美を攻撃する目的でk_meetを作り出したことを確信した。
でなれけば、キャリィの目を覚まさせるためだけにあんなメッセージを遺して死を選んだりしなかっただろう。
〈私は私である必要がなくあなたはあなたである必要は無い〉
これには私が破り捨てた、もう一節がある。
〈私は私である必要がなくあなたはあなたである必要は無い。だから自分の人生を生きて〉
十四階から飛び降りたフィマは五キロ増えただけで死んだわけじゃない。別にフィマは五キロ増えたところで動じるような弱い人間じゃなかった。
キャリィの目を覚まさせるためだけにフィマは命を差し出した。それが私の知りうる真実だ。
きっとフィマが入院してからずっと、キャリィは世界をこんなふうにしようと画策していた。愛するひとを美という苦しみから守ろうとしていた。
フィマはそれをよく分かっていた。理解していた。
それを止めさせて、自分の人生を生きろと言葉をかけることが、愛で無いなら、なんだというのだろう。
だけれど、その言葉はキャリィには届かなかった。
それどころか、
〈私は私である必要はなくあなたはあなたである必要はない社会において、あなたでなければならないことを証明する〉
キャリィは見当違いな答えを出して、フィマの肉を培養して、それを流通させた。
キャリィはフィマの肉をあれからずっと食べ続けている。
私はキャリィが好きだった。
今もキャリィを愛している。
だからフィマの自死を止めなかった。
だからフィマの遺書の一部を破り捨てて、燃やした。
だからキャリィの家政婦になって、傍に居続けることを選んだ。
だけど私は罰を受けた。
キャリィの食卓を彩っているのは、フィマだ。
私じゃない。
そしてそのフィマを恭しく調理し、キャリィの食卓に並べるのは私だ。
私の方こそ、私は私である必要が無い。
〈私は私である必要がなくあなたはあなたである必要は無い。だから自分の人生を生きて〉
〈私は私である必要はなくあなたはあなたである必要はない社会において、あなたでなければならないことを証明する〉
「博士、味はどうですか」
「おいしいよ」
ひどい話だ。
これだけことばは通じあっていないというのに、彼女たちは互いを愛しあっている。
〈私は私である必要は無いけれど、私は貴方をあいしている〉
私は一方通行でしかない言葉を食んだ。
酷くどうしようもない味がして、私はそれを飲み込んだ。
美の消失 20日L(はつかのえる) @hatsukaHoshi
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