えんがわなすび

同居人

 地元から都会への引越しは、まあ大変だった。

 電車の通っている数からまず違うし、バスなんか一日に何本も走ってるし、何より毎日が祭りでもやってんのか?と思うくらい、どこもかしこも人だらけなことに驚いた。

 そんな調子だから、大学入学と共に決めた一人暮らし用の部屋が和室の八畳ワンルームで他の賃貸より相当年季の入ったボロさで家賃が安いところだったとしても、まあ気にならなかったわけだ。むしろ実家にある庭のぼっとん便より綺麗な個室の洋式トイレ――古いけどトイレは洋式だった――があるだけで俺は感激したもんだ。


 その俺の部屋には、手が住んでいる。


 最初に気づいたのは、大学初日の講義から帰宅してくつろいでいる時だった。ああ疲れたなって一人用の炬燵に胡坐かいて、何気なしに横を見たら押入れの床に程近い位置に手が出ていた。

 男とも女ともつかない、中性的な手だ。大きさからして子供ではない。それが隙間十センチ程開いた押入れに手首から先がにょきっと生えている。指は数えてみるとちょうど五本あったので人間の手だろう。手のひらの向きを見るに右手だ。

 俺は立ち上がって押入れを勢いよく開けた。


 押入れは中で二段に分かれていて、目の高さの二段目は俺が今朝畳んだ布団がその時の姿のままあった。下の一段目を覗くと引越し業者の段ボールのまま入れられたゲーム機やら本やらが入っている。直前まで足元にあった手はどこにも見当たらず、また手が出るような置物なんかももちろん入れてはなかった。

 不思議に思って俺は押入れを閉める。すると、手がある。押入れの戸は建付けが悪いのか、それともこの手が邪魔しているのか、どんなに力を入れても隙間十センチ開いたままだ。内見の時も引越しから今朝までも気づかなかったなあと、俺はしゃがみ込んで手を間近に見る。

「あのさ、俺今日からってか昨日からここに住んでるの」

 手は微動だにしない。その体勢のまま俺は押入れを開けた。すると手もパッと消えた。押入れを閉める。手が何事もなかったようにそこにいる。ふと思い立って、炬燵の上に散らかしたままのボールペンを取ってその手のひらにちょんと当ててみた。すると魚が降ってきた餌を食うように、勢いよくボールペンを奪われた。ぎゅっとボールペンを握るその手を見ながら、俺は自分の手からボールペンを奪われる衝撃になんだかむずむずした。

「渡しててなんだけど、それ明日も使うからさ。返してくれない?」

 八畳ワンルームに俺の声が響く。しんと静まったのち、暫くしてぽとりと手はボールペンを手放した。(言葉通じるんか) ちょっと感動した。古い畳に落ちたボールペンを回収して、俺はとりあえず飯食って風呂入って寝た。布団を敷く時も手はそこにあった。


 それから俺と手の同居生活が始まった。

 同居するにあたって、俺は手に何が出来るか確かめることにした。と言っても手は手首までしかないから、何かを掴むことしか出来なかった。それから、ものは試しといろいろ掴ませてみた。テレビのリモコン、ティッシュ箱、大根、スイカくらいになるとさすがに重かったのか手をぷるぷるさせて落としてしまった。なんだか申し訳なくなった。

 それから興味本位で握手してみた。こちらがびっくりするほど優しくふんわりと握り返してくれた。

「お前の手、綺麗だね」

 言った途端握手を解かれ、手の甲にバチン! と、ビンタを食らわされた。もしかして照れたのかとも思ったが、手は手なので表情が見えず分からない。

 手はすべすべとした触り心地で、少しひんやりとしていた。


 どうやら手は俺だけにしか見えていないということが分かった。ある日大学で知り合った友人を部屋に呼んだが、特に何も言われなかったからだ。

「なあ、この押入れの隙間開いてるけど気にならないの?」

「ああ――……建付け悪いみたいでさ、そこから閉まらないんだ」

 本当はその隙間に手が出てるんだけど、とは言わなかった。俺は運動するように開いたり閉じたりしている手を見ながら言葉を飲み込んだ。

 友人は「じゃあ逆に開けとけば?」と言って押入を全開にした。運動してた手がパッと消えた。なんだか可哀想だと思った。

 友人が帰った後、俺は真っ先に押入れを閉める。瞬きの合間に手がパッと現れた。俺はまたしゃがみ込んで手と握手する。

「開けてごめんな」

 微かにきゅっと、手が力を込めた気がした。


 それから暫くした日、大学から帰宅してドアノブに鍵を差し込もうとしたところ、中からドタン! バン! という何かが暴れているような音がして一瞬固まった。すわ空き巣かと勢いのままドアを開けて踏み込むと、押入れの前で知らない男がうつ伏せに倒れていた。

「たっ 助けてくれ!」

 男は俺を見るやいなや、うつ伏せたまま顔だけを少し上げて泣いて喚いた。男は起き上がろうとして、けれど何かに阻止されたようにバタン!と倒れてしまう。そこで漸く俺は、男の足首を掴む手を見た。押入れから出たそれがぎゅっと力を込めて男を逃すまいとしている。

「空き巣、捕まえてくれてたのか」

 思わず笑ってしまった。こんな優秀な同居人は他にいない。

 手が空き巣を捕まえてくれている間に警察に電話して、知らない男はその場で捕まった。駆けつけた警官は何もない畳にうつ伏せになって泣き喚く空き巣に首を傾げ、その空き巣は誰かにずっと足を掴まれていたとしきりに話していたので、やっぱり押入れの手は俺にしか見えないらしい。

 ありがとうな、と握手した手は、やっぱりすべすべとした触り心地で、少しひんやりとしていた。


 それから俺は大学を卒業する今日まで、その部屋に住んでいた。すっかり荷物を運び出して殺風景になった部屋で、俺は押入れの前にしゃがみ込む。

「今日で引越すんだ。明日からは会えないな」

 押入れの隙間十センチに挟まった手は微動だにしない。

「今までありがとう。お前のおかげで一人暮らしが楽しかったよ。さよなら」

 ぎゅっと握手した。手が、ちょっと震えて同じようにぎゅっと握り返してくれた。気づけば俺は泣いていた。

 部屋を出る直前振り返って見ると、押入れの手がこちらに向かって手を振っていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

えんがわなすび @engawanasubi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ