最終話

「ねー聞いてるの?」


 練乳みたいに甘ったるい声で、わたしは我に返った。


 先ほどまでの虚無はどこへやら。周囲は駅前のごみごみとした騒音に包まれている。往来の激しいほどでわたしは立ちすくんでいたらしい。


 後ろから追い抜いていくサラリーマンは、わたしのことを怪訝そうに見ながら足早に去っていった。


「ねえってば」


 横から腕を引っ張られた。そっちを見れば、命先輩がわたしの腕に抱きついていた。


「先輩がわたしの腕に抱きついてる!?」


「わっびっくりするなあ。いきなりどうしたの」


「どどどっどうして。先輩が」


 わたしの心臓はドキドキ。今にも蒸気を噴き上げ、走りだしそうなほどに脈打っている。


 憧れの先輩がどうして僕なんかと一緒にいるのだろう。


 そう思って命先輩のことを見ていたら、先輩の頬がぷくーっと焼けた餅みたいに膨れはじめた。


「そういうじょーだん、私嫌いだなあ」


「へ?」


「もしかして、言わせたいの……? しかもこんな往来で」


 先輩の瑠璃色の瞳が、わたしのことをじっと見つめる。濡れた二つの球体は、なまめかしく、のぞき込まずにはいられない。


 その顔が、わたしの方へと近づいてくる。耳元へとやってきたかと思うと。


「私はあなたのものだよ」


「は……」


 その言葉の意味を理解するよりも早く、耳たぶにやわらかな感触が伝わってくる。キスされた。誰に?


 誰にって、命先輩以外に誰がいるっていうんだ。


 言葉の意味が分かると同時に、痺れにも似た熱が、全身へと広がっていくのを感じた。


 原初の、あるいは遠い未来の原風景が白昼夢のように感じられる。悪夢を見て飛び起きたが、そういえば悪夢ってなんだっけみたいな。そんなぼんやりとした恐怖だけがわたしの心にはあった。


 だけどその恐怖は、ぼんやりとしていた頭がはっきりとしてくるにつれて、違うものに塗り替えられていく。


 それは記憶。命先輩との輝かしい日々で、サークル活動やらなんやら。そして、最後には、命先輩にわたしが告白している……。

 

 そういえばそうだった。先日、わたしは命先輩に告白した。正直なところ、破れかぶれ捨て身の告白。諦めるための行動だった。でもまさか、告白を受けてもらえるとは。


「わたしはあなたの彼氏」


「うん」


「先輩はわたしの彼女」


「うん!」


 ぎゅっと抱きしめられる。腕には顔をこすりこすり。いつもはキリっとしている命先輩の顔は、日向ぼっこしているネコのようにゆるんでいた。めちゃくちゃ喜んでくれているらしいことはわかるし、わたしもすごくうれしいんだけども。


「み、みんなの目がありますから」


「私は見られてもいいけどなあ。というか見せつけようよ」


 命先輩はますます抱きついてきて、歩くのも難しくなってしまうくらいだ。


「先輩がこなきじじいになっちゃった」


「あ、ひどいー。かわいいかわいい彼女をそんなに言うなんて」


「冗談です」


 そんなやり取りをしながら、わたしたちは歩きはじめる。


 なんだか久しぶりに歩いている気がする。そう感じてしまうのは、悪夢じみた白昼夢を見たせいなのかもしれない。なんだかふわふわするし。


「夢みたいだ」


「現実だってば。それともうれしすぎて夢みたいってこと?」


「たぶん……。なんか変な夢見ちゃったんですよ」


「例えばどんな?」


「なんか空からドームが降ってきて」


「ふむふむ。そんな本もあった気がするね。あ、でもあれは町がまるまる覆われてたっけ?」


「確かにあった気がしますね。でも、なんていうか一人取り残されてそれで」


「それで?」


 何があったのかを考えてみる。考えてみるんだけど、夢の中の記憶はぼんやりとしていてよくわからなかった。


「さあ……わからないです」


「そっか。でもさ、怖いって思ってるなら忘れたほうがいいんじゃないー?」


「いやー結構夢に出そうで」


「じゃあ、今日はお泊り会しよう。見たい映画があるんだよねー」


「そうなんですか」


「うんっ。そうと決まれば、スーパー行こう。お酒とかコーラとかあと、ポップコーンとかも準備しないと」


 命先輩は言うなり、わたしの手を取って歩きはじめる。


 振り返り気味に見えた先輩の顔には、満ち足りたものが浮かんでいる。


 それが何なのか、わたしにはうかがい知れない。だけども、相当な大事業だったのは間違いない。


 その表情が笑顔へと変わる。太陽のような満面の笑みに。


「さあ行こうじゃないか、はじめてのデートへ」

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愛のドームに囚われて 藤原くう @erevestakiba

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