第4話

 スマホの時刻と流れゆく人々の流れを見比べること少し。時の流れのズレは少しずつ増しているらしい。気づけたのは、このご時世に歩きタバコをしているやつのおかげである。


 そいつがくわえているシケモクからは、紫煙が細くたなびいている。道行く人々は顔をしかめているのによーやるわ、と見ていたら、その煙の動きが速いのなんの。一時間前よりもずっと速い。


 そこでようやく、わたしは理解した。


 時の流れが違うだけではなく、置いて行かれている――。


 足元からすーっと冷えてくるような感覚。血が抜けてしまったみたいにふらふらする。


 このままここにいたら、わたしは人類の営みを早回しで目撃することになるだろう。紙芝居のように昼と夜は切り替わり、ビルは雨後の筍のようににょきにょき生える。生と死、想像と破壊、繰り返される光景……。


 遅くなった時の牢獄に閉じ込められたわたしがどこまで生き残れるものか、わたしにもわからない。だけど、スマホの充電の減りを考えると結構長いのではないか。


 ここから出ることも、死ぬこともかなわない。


「どうすりゃいいんだ」


「元気出して、心が負けたら終わりだよっ」


 耳元で発せられる先輩の声が、くじけそうな心を勇気づけてくれる。


 と。


 その声に交じって、何かが聞こえた。とぎれとぎれのメロディはどうやら「夕焼け小焼け」らしかった。ちなみにドームの外はすっかり真っ暗になってしまって、星空では夏の大三角が幅を利かせている。外は午後八時とかそのくらいではないか。


 スマホの時刻は午後五時ジャスト。というか、夕焼け小焼けのチャイムは午後五時にしか鳴らない。


 それなのに、スマホの向こうからはそれが聞こえた。


 いや、よく考えたらわかってしかるべきだった。


 疑うべきだったのだ。スマホの向こうは、ドームの外。時間が正常に流れている世界なのだから、それに従って声も早回しになっていなければおかしい。


 でも、命先輩の声は早回しにはなっちゃいなかった。


 それは、わたしと同じように、時の流れから独立していることを意味しているわけで。


「先輩、そっちは午後五時なんですね」


「あはは……」


 そんな声がスピーカーの向こうから聞こえてきた。


「うん、君とおんなじ時間にいるよ」


「ってことは」


「そ。君をその中に閉じ込めたのは私」


「どうしてそんなことを?」


「どうして?」その言葉には蔑視と怒りの感情がにじんでいた。「どうしてって、わかってないの?」


「わたしのせい、なんですか」


「君のせい。うん、君のせいだね。……だって気づいてくれないんだもん」


「気づく?」


 はあ、というため息が聞こえた。そのため息は重苦しく、ある種の諦観のようなものを多分に含んでいた。


「今回も気が付いてくれないんだ。これでももう、一億と二千回はくだらないのにさ」


「はあ?」


「わからないなら別にいい。私は何度でも繰り返せるから」


 ――君が気づいてくれるまで、私、待ってるから。


 その言葉とともに、ブツッと音がした。


 ツーツーツー。


 通話が切られた。わたしは、壊れたみたいに同じ音しか発さなくなってしまったスマホを茫然と見つめていた。


 話し相手がいなくなってしまったというのもショックだったけれども、それ以上にこの状況を引き起こしたのが命先輩だってことが何よりも驚きだった。


 その驚きも周囲の光景の変化に飲み込まれていく。


 パッと空が明るくなったかと思えば、急に暗くなる。まるで、ライトをオンオフしているみたいだ。違うとわかったのは、消えたり現れたりする太陽の位置が、微妙に変わっているから。ちょっとずつカーブを描いていっているといえばわかりやすいだろうか。


 それも次第に線のようになる。車の流れもまた赤の線となった。


 時の流れは今や、ずっと加速している。


 最後には何もなくなった。


 人の姿も車も、建物も何もかも。


 地上には荒涼とした大地が広がっているばかり。天には、星々が相も変わらず浮かんでいたが、それも線にしか見えないものだから何が何だかわからない。


 ただ、北極星だけが不気味に光を放っていた。


 わたしの膝が勝手に折れた。倒れても誰も反応してくれない。


 わたし一人だけが、この地球という大地に取り残されてしまった。


 その事実を認識するよりも早く、わたしをわたしたらしめる理性の糸がぷつりと切れて、世界は闇に包まれた。

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