第32話 戯曲
神話の時代、いくつもの世界を滅ぼした神々は一つの協定を結んだ。それはあらゆる世界への不干渉。彼らは世界を維持するために自らシステムへと変じた。
故に彼らは場当たり的にその力を使うことはできない。あくまでシステムとして、ルールに則り世界を観測しているにすぎない。しかし、世界に歪みが生じ、かつその責任が自分達にある場合、その歪みに対処するための最小限の干渉が可能になる。では最小限の干渉とは何か? これは状況によって異なるため明確なルールがない。というより彼らはあえてルールを作らなかった。解釈に幅を持たせ、下界で遊ぶための余地を残すために。つまるところ、下界への干渉とはシステムである彼らの唯一の娯楽である。
そして彼らのかつての兵器であった竜が、その枷に触れたのであれば、手を出す言い訳としては十分であった。
クライスの
「ぢがああああででどぅああああ」
白目を剥いたクライスが涎を垂らして奇声をあげる。上位の存在と通じることができるとはいえ、信仰もない神を降ろすなど自殺行為に他ならない。通常であれば強烈な拒絶反応と共に人格が崩壊し、魂が擦り減り肉体が崩れる。しかしクライスは今、ブルーの魔法の効果内にある。そのため精神を侵されながらも、肉体は再生を繰り返しなんとか形を保ち、神の器になるべく強制的に調律が行われる。
「あ、あ、うん、やっと声が出せた」
調律が終わり、不完全ながらも神の器になったクライスの口が動く。若者のような老人のような声が世界に響く。それが聞こえた瞬間、ブルーとローズ、そして竜以外の全ての生物が気を失った。
「おお、これはすごいね。蒼髪ちゃんの魔法は魂まで保護してるのか。これは紅ドレスちゃんの入れ知恵かな?」
神の声など普通の生物が聞けば魂に深い傷を残すことになる。それを避けるためにブルーの魔法は耐性のない全ての生物の意識を強制的に絶ったのである。そして神が言うように、この魔法はローズが細かい部分の設計を手伝っている。ブルーが守りたいと思った時、いかなる攻撃からも守れるようにと。
「ハハ、シュタリオンはまんまと嵌められたわけだ」
神が言っているのはローズが再現した原初の炎のこと。竜神はローズの言葉を鵜呑みにして必死になってこの炎を消したが、そもそもブルーの魔法で守られている民の魂が消耗することはなかったのだ。
「クライスくんだったかい? この器の魂さえも消えてないのか。とても優秀で……ひどく残酷な魔法だね。ねぇ、蒼髪ちゃん、キミ一体何者?」
「君こそ誰なの? さっきの人じゃないよね?」
神の言葉にブルーがいつものように応える。いやブルーは無意識であったかもしれないが、その声音はいつもより少しだけ険があった。
「……おいおい、ほんとにキミなんなの? なんで喋れるのさ?」
神はブルーの言葉、というよりもブルーが口を開いたこと自体に驚く。次元が全く異なる神の前で、言葉を発するなど普通はできない。実際、ローズや竜神でさえも金縛りにあったように動かなくなっていた。ましてや、お前は誰だと聞くなどあり得ない。
「え? あぁそっか、名前を聞く前に名乗らないのは失礼なんだよね。ボクはブルー。それで君は誰?」
ブルーは相手が自分の無礼を指摘しているのだと解釈し、改めて自己紹介をはじめる。
「アハハハハハハ!!! すごいねキミ!! あぁそうだね、自己紹介は大事だ。だけど、こちらの名前は教えられないんだ、ルールだからね。だから今は、『名もなき神』だと思っておいてよ。あぁ、ブルー君ちゃん、キミの名前はちゃんと覚えたからね」
名もなき神は、目尻に涙を溜めながら笑う。
「名も……なき神? 泣き神様?」
神の涙を見たブルーが勘違いをする。
「アハハハッ!! なんだいそれは!? キミほんとに面白いね! あぁ……だけど残念、もう時間だ。神が降りたんだ、なら物語はここまで。終幕だ」
ブルーの言葉に笑いながら、ついでのように神は終わりを告げる。
「裁定しようじゃないか! この場を収めようじゃないか!! 神らしく!! システムらしく!!」
神が大袈裟な演技で舞台に上がる。
「お、お待ちを……」
動くことのできない竜はそれでも必死に抗い声を出そうとする。
「ダメだよ、シュタリオン。賭けたんだろ!? 竜のくせに! このちっぽけな魔物に! 僕ですら見通せない、この正体不明に! なら、見届けろ。賭け金はお前の全てだ!」
神はシュタリオンに向け、手を翳す。シュタリオンの体が縮む。見えない力で強烈に圧縮される。ブルーの力を上回るその力によって竜は最終的に人の頭ほどの黒い球へと変わる。ダンジョンのコアに似たその黒い球体はゆっくりと空間を漂い、そして神の元へと還る。
「この場での僕の裁定は……シュタリオンの完全廃棄。これが一番楽だからね。嫌なら抗ってみせなよ、そのために出てきたんだろ?」
神は、シュタリオンだったものに片手を翳し、ブルーに問う。
「ボクには泣き神様の言ってることは、ほとんどわからないよ。だけど、ボクも失うわけにはいかないんだ、そのために出してもらったんだから」
右手を上げたブルーが集中する。
神が短く唱える。
「【消去】」
それは竜の完全なる契約者、真名を含めた全ての支配権を持った者にのみ許される最後の魔法。竜の存在そのものを消すと同時に関わった全てを消し去る、いわば自爆の魔法。人、街、国、竜神が守っていた全てが歪み、一瞬にして黒い球へと吸い込まれる。
世界が、消える。
白。
残されたのは、ただの白。
何もない白。
いや、
わずかな青。
その優しき青は決してあきらめない。
何もない空間に青い饅頭がぷにっと現れる。
次いで、紅。
その最強の紅は決して屈しない。
青い饅頭を優しく抱きしめるように、真紅のドレスが姿を現す。
「おめでとう……キミ達の勝ちだ」
白い空間に声だけが響く。
「感じるかい? 世界が元に戻ろうとしているのを。これがキミの力だ。完全なる無からの構築、まったく馬鹿げた力だ。せっかくだから、時間を限界まで引き伸ばしてみたけど、それでもおしゃべりを楽しんでいる時間はそれほどないみたいだね」
神が言うように少しすると、真っ白な世界に青の光が差し込み、ついで赤の光が差し込む。色が混じり、溶け合い、複雑な模様を描く。
「泣き神様はこれからどうするの?」
変わりゆく景色の中で、まだ半分ほど残っている真っ白な空間に向けてブルーが話しかける。
「聞いてくれるかい? ほんとはこのまま帰るつもりだったんだけど、残業決定だよ。そこの紅ドレスちゃんが、とんでもないことをしてくれたからね。どうせキミも喋れるんだろ? 声を聞かせてよ」
ローズはブルーの横に立つとブルーの上にぷにっと黒いカケラを乗せる。
「ふふ、バレていたのね。神って結構大雑把だから気づかないと思ったのだけれど。貴方、神のくせに結構繊細なのね?」
ローズはいつものように傲慢に、そして悪戯っぽく笑う。たとえ相手が神であってもその態度が変わることはない。
「……もう怖いよキミたち。僕の魔法に干渉しておいて気付かないと思ったの? それで、お目当てのものは手に入ったかい?」
「たしかシュタリオンだったかしら?」
「……信じたくないけど、もしかして名前ごと奪ったのかい? うわぁ調整するのめんどくさいよ」
神が消去を宣言したにも関わらず、名前すら消えていない。ローズは竜神の名前と魂のカケラを掠め取ったのだ。歪みを調整するはずが、ローズの干渉によってさらなる歪みが生まれてしまった。その結果、神が再度調整をしなければならなくなった。
「これじゃあ割に合わないよ。だから、紅ドレスちゃん、キミの名前も教えてよ」
「イヤよ」
「教えてあげないの、ローズ?」
「ローズっていうんだね、うんうん素敵な名前だね」
「……ダメよ、ブルー。あやしい神に名前を教えちゃ」
「あ、ごめんローズ。でも泣き神様ってあやしい神様なの?」
「ちょ、ブルー、その呼び方そろそろまずいかも。キミに呼ばれると存在が固定されかねないよ」
「ふふ、いいじゃない、可愛らしいわよ、泣き神様」
一つの世界の終わりと始まりの狭間で、神と魔王とスライムが戯れる。引き伸ばされた時間の中で徐々に世界が輪郭を取り戻す。色が混ざり、風が吹き、温度を持ち、元の姿へと回帰する。
「……そろそろ時間だね。じゃあ最後に僕から二つ、ご褒美をあげる。一つ目、『僕は知らない』」
「なんの話?」
「……さぁ? 神は会話が下手くそだからイヤになるわね」
「アハハ! それはその通りだね、喋る相手がいないんだもん! じゃあ二つ目、ブルーの魔法【小さな世界】、これを禁止する」
「へ? なんで!?」
「……」
「コレはとても優秀で、とても危険な魔法だ。もはや魔法とは呼べない。ローズ、キミはもう気づいているはずだ」
「……」
「そうなの?」
「そうだよ。だから枷を嵌めた。ちょうどシュタリオンの分が余ったしね。まぁ正直、キミたちにとっては気休めにしかならないけどね。でも、忘れないでほしいんだ、これはご褒美だってことを。だから感謝してほしいね」
「……」
「あ、うん、ありがとう?」
神の言葉にローズは無言を貫き、意味のわからないブルーは戸惑いながらも素直にお礼を言う。
「じゃあ、またね。キミたちの旅路にわずかばかりの祝福を」
神が去り、引き伸ばされた時間が元に戻る。何もなかったかのように世界が再構築され、ブルーの魔法の効果が切れる。
ローズもまたその姿が朧気になる。最後にブルーの体を優しく抱きしめ、耳元で「またね」と囁くと、その姿が蜃気楼のように消える。
人の姿に戻ったブルーの手の中には、ローズが神から奪った黒いカケラと、ローズの心臓のカケラである紅い石が残る。レイナが持っていた分が加わったことで、紅い石は少しだけ大きくなっていた。
目の前には倒れたままのレイナとクライスの姿。
ブルーは最初の約束を果たすために、二人が目を覚ますのを待つ。
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