第36話

 職安通りの手前、歌舞伎町の一番隅っこにその店はある。通りに面した細い通路の突き当たりの一階だ。分厚いガラスで出来たドアを開けると左側に和式のトイレ、その横に一人しか入れないキッチンカウンターがある。

なんだか和式のトイレを懐かしく眺めてしまう。

蛍光灯は剥き出し、壁紙はところどころがめくりあがっだ薄汚れた灰色である。

ゲーム喫茶というより廃業しそうなオフィスか倉庫という感じだ。

従業員がいないならと杉ちゃんから和泉さんという人を紹介された。

僕よりも十才年上の元ホストだ。元々酒が飲めない体質で酒の飲みすぎで体調を悪くしたらしい。酒を飲む仕事はもうしたくなくて知り合いのゲーム屋で働いていたとのことだった。

「瀬野君、こんな感じでどう?」

僕と和泉さんは『アドホック』で買ってきたカッティングシールやホワイトボード、アクリル板等で店の中のポスターやステッカーを作っていた。

中古で集めた10円ポーカーゲーム機十台、看板や椅子、冷蔵庫、ホットボックス、その他いろいろな細かい買い物で社長から渡された運転資金の五百万円は残り百万円ちょっとしか残ってない状態だ。内装を施す資金に余裕はなく十坪の正方形にゲーム機を十台並べただけだ。

「いいんじゃないですか?正面に貼っちゃいましょうか?」

僕と和泉さんで正面の壁に【前日】【本日】の卓番ごとに区切られた4カードのホワイトボードを貼り付けているときにドアが開いた。

「おい、いつからこの店始めるんだ?おお!哲やないか!」

僕はボードを貼り付けながら、声がする入口のドアを見た。木船さんだ。

木船さんとは秀司のいたシャレードで働いていた従業員である。ボスが地元で集めたパチンコのゴト師グループの中の一人だ。東京にパチンコのゴトで来たのだが、そのままボスが始めたゲーム屋で働くようになった人だ。

シャレードにはよく遊びに行っていたのでそこで働く従業員とは友達みたいな感じになっていた。僕より四つ年上の先輩で地元では有名な不良少年だった。

このゴト師グループは地元の不良少年の中でも強力なメンバーで構成されていた。

「お疲れっす!シャレード終わって今なにやってるんですか?」

「アニや秀から聞いとらんか?ヤクザだよ、ヤクザ」

木船さんは、照れ笑いを浮かべながら僕に話した。

アニとは秀司と同じ時間で働いていた財布持ち(店長)のことだ。

このアニと呼ばれる理由は地元では知らない人間がいないくらいの極悪兄弟の兄のほうだからだ。弟のほうは現役のヤクザで懲役ばかりでほとんど社会不在状態が続いている。

ゲーム屋、ホスト、引き屋からヤクザになる人間も多かった。引き屋をしている頃は僕のことを「瀬野ちゃん、瀬野君」と呼んでいたのに、ヤクザになった途端「オイ、瀬野」と急に上から目線の呼び捨てに変わる人間もいた。

そんな人間の共通しているところは、出世しなさそうなタイプが多い。あと、けつを割るのがはやい(物事を途中でやめてしまう)。これは案外当たっている。

「この箱、ウチが面倒みとるから困ったことがあったらなんでも言ってこいよ。うまくいくとええな。頑張ってな!」

木船さんはそう言って僕に名刺を渡した。



 なんとか10円ポーカーゲームの店がオープンするところまでたどり着いた。

店の屋号は全力で上まで駆け登る願いを込めて【ダッシュ】と名付けた。

『ティールーム・ダッシュ』という置き看板を通りに出した。

四角の置き看板の真ん中に【10円】とういう文字をマルで囲んだイラストのシールを大きく貼り付け、その上にティールーム、その下にダッシュという文字のシールを貼り付けた手作り看板である。

僕と和泉さんの二人でのスタートだ。二人で二十四時間は開けられない。

僕は十二時~翌朝五時、和泉さんには十七時~翌朝五時の十二時間でお願いした。

僕は店に十七時間いることになる。ママからは身体壊すから勤務時間を短くすれば、とよく言われていた。

しかし、不思議と自分の店だと思うと全然苦にならないのだ。

自分の部屋であれこれ考えて寝られないより、店の中にいたほうがなぜか落ち着く。印刷屋で作ってもらった電柱に貼るポスターも、以前なら面倒くさいなと思いながら言われるがままテキトーに貼っていたものも、自分の店だと思うと一人でも客が来るようにと心を込めて丁寧に電柱に貼れるのだ。

中華屋の前の電柱に、僕が心を込めて貼ったポスターをその店の店員が剥がして店まで持って来たときのことだ。

「迷惑なんだよ!剥がしても、剥がしてもベタベタと。今度、ウチの前の電柱に貼ったら警察に行くよ!」

と怒鳴り込まれたこともあった。

僕は一生懸命心を込めて迷惑行為をしていたんだな、と思うと目の前で怒り心頭の店員のことが可笑しくってしょうがなかった。

とにかく暇だ。客など来やしない。来るのはニューオープンを狙う『ガジリ』と呼ばれるヤクザばかりだ。昼から十七時までは僕一人だ。

真っ昼間の歌舞伎町の一番隅っこには、人っ子ひとり歩いていない。

見かけるのは酒屋の軽トラックか、昨晩の宴の余韻であるかのような山積みのオシボリを車に詰め込む業者くらいなものだ。

そんなドンヨリした昼間の空気を切り裂くかのように、勢い良くドアを開ける男がいた。四十代くらいのパンチパーマで、派手なゴルフウエアを着た男だ。

「オイッ!大変だよ! すぐそこまで警察が来てるぞ!一軒、一軒、捕まえに回っているみたいだ!早く看板を下げて店の鉄板を閉めろ!急げ!急ぐんだ!」

飛び跳ねるように異常に興奮した状態の男がドアを開けて大声で叫んでいる。

僕は「わざわざありがとうございます!」と言いながら、おもての通りまで小走りで行き、「手伝ってやるよ!」というパンチパーマの男と一緒に置き看板を下げ、店の中にしまいこんだ。

「早く、鉄板も締めてお前も逃げろ!ヤバイぞ!ヤバイぞ!捕まっちまうぞ! 

おい、財布を俺に預けておけ!警察に没収されるからな。お前、うちの事務所知ってるだろ?後から事務所に取りに来い!さぁ、早く財布を渡せ!」

鉄板の鍵を閉めている僕の隣で、その男は身体を激しく動かし、財布を早く渡せと怒鳴りながら催促しているのだ。

まるで運動会の花形、リレー競争でもするかのような手を差し出し下半身は走り出している状態だ。

「――いや、財布は大丈夫です!自分で持って逃げますから」

「なんだ、この野郎!俺の事知らねぇのか?信用してねぇのか!おおっ!コラッ!」

駆け足をする仕草なのか?目はギラつかせ、奇声を上げながら汗びっしょりで手足をバタつかせ、とにかく激しく身体中を動かしている。

腹の突き出たパンチパーマが、流れる音楽を無視してクネクネと自己流で狂ったように踊るブレイクダンスみたいだ。

滝ちゃんではないが、イカレっぷりがハンパない。

「いや、信用してないわけじゃないです!後から事務所のほうにも連絡します。

ありがとうございました!助かりました!」

僕の御礼の言葉などには聞く耳もなく、どうだ!これでもか!というくらい奇妙な踊りを、僕の間近で延々と見せつけている。瞬きひとつせずに、僕から目線を外さない

この男の額に光る汗が本当に不気味だ。

こいつは、クスリでも身体に入れてるんじゃないか?と、段々怖くなってきた。

「勝手にしろ!この野郎!」

踊り疲れたのか、そう大声で叫ぶと男は通りに出ていった。

この店は細く長い通路を歩いて表の通りに出る構造の建物だ。男は凄い勢いで通路を走り、おもての通りに出た。

僕も男を追うように小走りでおもての通りにでた。

男の背中が見える。

けだるそうに、すごすごとポケットに手を入れて歩く、男の背中が見える。

――詐欺だ。店員をバタバタと慌てさせて財布を渡させる寸借詐欺だ。

この奇妙な芝居をあの男は一日何回くらいするのだろうか?

あの踊りだけで、生計を成り立たせているのだろうか?

そもそも成功することなどあるのだろうか?

「――あぁあ、こんなのしか来ねぇのかぁ……」

僕は慌てて閉めた鉄板に鍵を差し込み、薄暗い通路の天井を仰ぎ、大きくひとつため息をついた。


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