第35話

  僕はこの話を滝ちゃんと杉ちゃんに話した。

店を辞めて10円ゲーム喫茶のオープンの準備に入ることを二人に伝えた。「凄いチャンスが舞い込んだね、人生わからないもんだなぁ」と二人は驚くように笑った。

だが、この与後社長という人はママが居る時といないときとでは別人みたいになってしまう。ママがいるときは男らしく威勢がいいのだが、僕と二人きりの時には風貌に似合わず、優柔不断というか煮え切らないというか、なかなか話が前に進まない。

ある日、僕はゲーム屋の物件を探しに不動産屋を回っていた。10円ポーカーゲームができる箱を探していると不動産屋の人間に告げて回っていたのだ。

そうすると【業種不問】とか【何業でも可】という物件を紹介される。

僕はどうしても一階にこだわっていた。一階ならここしかないと歌舞伎町の一番隅っこ、職安通りのすぐ手前の一階が空いているという。

十坪で家賃は百万円だ。違法な商売の開業可能な物件には最初からその箱にケツモチが決まっている場合が多い。不動産屋で家賃百万円とケツ二十万円だと紹介された。ケツ二十万円というのは、みかじめ料のことだ。

今では考えられないが、不動産屋でヤクザもセットで物件を紹介されるこのシステムは、さすが歌舞伎町だと笑ってしまう。

暴対法前のヤクザは、本当に身近にいたのだ。身近というと語弊はあるのだが。

身近でない人には、とことん身近ではない。それはもちろんあたりまえの話だ。

アングラな商売には、必ずヤクザはいるものだ。彼らなくして成立はしない。

俗に言う箱にケツが付いているという物件だ。

僕はどこの組織とも付き合いがなかったから良かったが、個人的に付き合っている組織の人間がいたら漏れなくケツがついてくる物件はめんどくさいだろうなと思った。

保証金五百万円、礼金百万円、仲介手数料百万円、前家賃百万円の合わせて八百万円だ。路面店とはいえ、通りから奥まったわかりにくい場所にあるこの店舗なら、通常であれば三十万円くらいだろう。

この頃、秀司はコマ劇場のすぐ近くのビルの地下一階十七坪を二百十万円で借りていた。ケツは二十万円、合わせて一ヵ月二百三十万円の10円ポーカーゲーム喫茶を営業していた。

スタッフ五人を雇って、それだけの固定費を払っても秀司のもとには七、八百万円の金が残る。

業種審査のない物件は割高だ。秀司の店の向かいにある二階の居酒屋は、業種審査のある物件である。三十坪で百七十万円だ。それでもさすが歌舞伎町のど真ん中の値段である。

彼の勤めていたシャレードは歌舞伎町で一番集客のあった有名店だが、百円ポーカーの人気に陰りが見えてきたのと、ボスのセコすぎる性格にみんながホトホト愛想をつかし解散したという。

シャレードにいた一騎当千のメンバー達はこの後、この狭い街の中で各々大活躍することになる。

僕はこの八百万の物件の話を与後社長に話すため靖国通り沿いにある『珈琲貴族』という喫茶店で待ち合わせをした。社長が指定する喫茶店は、珈琲貴族か新宿駅東口のアルタの横にある『カフェ・ド・ボア』という喫茶店だ。

珈琲貴族は店に入った瞬間に珈琲豆の香りに包まれる静かで上品な店である。

十月に入ったばかりの平日の午後だ。まだまだ日差しは強く昼間は暑いくらいだ。

僕は約束の十四時より少し早めに来て社長を待った。半袖のクリーム色の開襟シャツから毛むくじゃらの太い腕を出し、タオルで汗を拭きながら社長は現れた。

「いやぁ、暑いね、今日も。もう秋なのにな。いい物件あったかい?」

席につくなり、社長はオシボリで顔から吹き出る汗を何度もぬぐっている。

「お疲れ様です。毎日暑いですね。この物件でやろうかと思っているんですが」

僕は十坪で家賃百万円の物件のチラシを社長に見せた。

「ほー、全部で八百万かかるのか。なぁ、瀬野君。この八百万は俺が出すから残りの金、運転資金というのかな?それはもう一人、ママから金を出せる人を紹介してもらうとかできないかな?」

社長はアイスコーヒーをかき混ぜながら僕に尋ねた。

ここ何度か社長と会っているのだが、本当はこの話に乗りたくないのに、僕に無理矢理やらされているような言い回しをするときがある。僕もママも社長を騙すという気はサラサラない。僕は社長にもママにも店を出して良かったと言ってもらいたい。

もちろん、自分もこれを足がかりに大きくなりたいと思っていた。

歌舞伎町の中には、「クラッシャー」と呼ばれる店の立ち上げの時に金主から金を巻き上げるだけ巻き上げ、店が開店したらその先はどうでもいいという輩達も確かにいる。立ち上げまでが彼らのシノギになるのだ。

僕はそれとは違う。

このチャンスをモノにしたいと必死なのだ。

ここにママがいれば社長はこんな話はしてこないと思うのだが。

僕はなんとかこの話をキメたくて、社長の気分を損ねないようこの話が流れないように時間を掛けて進めてきた。この話があってから杉ちゃんに紹介された百円ゲームの店も辞めている。現在、僕は無収入である。

毎日歌舞伎町の中はもちろん、西口や南口の不動産屋も回っていた。

「――社長、もうこのゲーム喫茶の話止めにしますか?僕は一生懸命動いているんですが、社長が気乗りしていないみたいに感じるので。

でも友人のヤクザにこれから始める店の面倒を見て欲しいという挨拶は済ませてしまっているんですよ。これからこの話は中止になったということを一緒にそのヤクザに話をしに行きましょうよ。事務所もすぐそこにあるので」

元々セッカチな僕ではあるのだが我慢に我慢はしていた。

イライラしてきた僕は、もう、この話はいいや、面倒くさいという気持ちになっていた。

この話はママにもしていたが、「短気は損気よ! 自分から壊したらもったいないよ」と電話でママに何度か諭されてはいた。

あららら、とうとう哲也言っちゃったのか?というママのがっかりした顔が目に浮かぶ。

「いやいや、そういう話じゃないんだよ。

金主は一人より二人のほうが強力でいいかなと思っただけだよ。瀬野君が動いてくれているのは知っているよ。いいよ、この物件で。金はママに渡しておくから契約を進めちゃってくれ」

友人にヤクザもいないし、挨拶などもしていない。じゃあ、社長にそこへ行こうと言われたらどこに行こうかと困った、という話をママにしたら電話の向こうで彼女は大笑いしていた。

――だが、与後社長の優柔不断な性格や、はっきり断れない人の良さが仇となり後後彼にとって、とてつもない悲劇を生むのだ。



 無事契約はできた。契約はできたのだが契約する前にママから封筒を二つ貰った。一つは店舗の契約に掛かる費用の八百万円。もう一つの封筒には五百万円が入っていた。あとはこの五百万でなんとかしてくれと社長がママに手渡したそうだ。

最初の話では、たった二千万万でいいのか、と笑っていたのに。

内装、ゲーム機、看板、備品のすべてをこれでやってくれという話だった。

ゲーム屋のオープンは目がよく出るとか叩けるという噂を街に拡散させるために最初の設定は結構甘めにするものだ。

客を集めるためにニューオープン記念サービスもする予定でいた。

当然、金をばら蒔くことになる。宣伝費みたいなものだ。

ゲーム屋で売る商品は金だ。

僕は千三百万円という大金を初めてまじまじと見た。

大金には間違いないのだが足りないのだ。

これから始めることには全然足りない金額なのだ。

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