第30話

  カキーン!カキーン! 区役所通り沿いにある『オスローバッティングセンター』から小気味のいい打球音が聞こえてくる。

高級クラブ街とラブホテル街の境界線に、ジグゾーパズルでいう背景とは全く無関係のピースを無理やりハメ込んだような「こんなところに?」という不思議な絵面になるバッティングセンターだ。

昼間の区役所通りは人もまばらだ。

こんな時間に、フルスイングしてるのは、ついさっきまで酒癖のとことん悪い女のお相手をしていたホストのストレス解消、怒りのフルスイングに違いない。

毎晩この街では、酒と男と金と女が歌舞伎町というバーカウンターのシェイカーの中で振られ、ほどよくからみあっている。

気持ちよく酒を飲む者と、気持ちよく酒を飲ませる者。

このキャスティングが、時には交互に入れ替わってしまうことがある。

さんざん嫌な客の相手をして、ともすれば自分がその嫌な客になってしまう。

惚れさせた者と金をばらまく者は夜が明けるまで、この街では必ず勝者でいられる。日々起こる猛烈な熱さでむせ返るようなヘビーな出来事も、この街ではアルコールが蒸発するスピードよりも早く記憶から消えてなくなる。

金勘定から始まる恋愛ゲーム。

「愛している」という気持ちは、お金という単位でしか図れない。

哀しいくらいによくできた色恋のストーリー。

また夜が更ければ、「カンパーイ!」と何事もなかったかのように、酒のしぶきが勢いよく跳ねて散るだけである。




 今日、「春一番が関東地方に吹きました」とテレビニュースでやっていた。

まだまだ風は冷たく真っ青な三月の空と春が待ち遠しい、葉をつけていない木々が揺れる天気のいい午後だ。

杉ちゃんの紹介のゲーム喫茶で、僕は働くことになった。

区役所通りから脇に少し入ったビルの地下二階にある店だ。

ニューオープンで同じ時間帯で働く、僕と同い年だという滝内君と風林会館から明治通りに向かう途中にある『九州ラーメン』で待ち合わせをすることにした。初顔合せだ。

彼との出会いが、これからの僕の人生に大きく勢いをつけることになる。

「瀬野君ですか?」

「はい、滝内君ですか?」

餃子二枚と酢豚、八宝菜、回鍋肉とビール瓶を挟んで、僕たちは初対面した。

「本当に同い年?貫禄あるなぁ」

滝ちゃんは笑いながら、僕にビールを注いでくれた。

滝ちゃんは髪を真ん中から分けていて小柄で童顔、僕とは正反対な爽やかな大学生みたいな青年だ。僕の方もホントに同い年?と思ったくらい彼は幼く見えた。

四国にある指折りの有名進学校から大学受験のために上京してきた優等生である。

大学受験に失敗してそのまま予備校に通っていたのだという。

ある時、アルバイト情報誌に(喫茶店・時給千円以上・八時間一万円・勤務地・歌舞伎町)という求人を見つけた。

八時間で一万円も貰えるのか、と応募したところがポーカーゲーム喫茶だったのだ。歌舞伎町という街には、週末に東亜会館や東宝会館のディスコに夜な夜な遊びに来ていたから抵抗はなかったのだという。

しかし、働きだしたこのゲーム喫茶に来る客や、一緒に働いている今まで見たことのない大人たちのイカレっぷりに魅了されてしまったらしい。

毎日が非日常的であり、劇画の中に自分がいるみたいだったという。面白くてしょうがなかったのだと滝ちゃんは笑った。

この街のアンダーグランドな世界は、十八才の田舎から出てきた少年には刺激が強すぎるのだ。

歌舞伎町一丁目と二丁目の違いはあるが、僕と全く同じ感想だった。

毎日が衝撃の連続だった話を、ビール片手に僕に滝ちゃんが話し出した。

ひとり勤務の時間帯にだけ、なぜか強盗に入られるというオジサン従業員、しかも二回も。

自分で自分の身体をカッターナイフで傷つけ、壁に頭をぶつけたりしての狂言強盗だ。さすがに三回目は信じてもらえず店をクビになったという。

顔にあざを作り、肩や腕に適度にカッターナイフで傷をつけ、強盗にあうとなぜか眼帯をしてきて「申し訳ないです。頑張って抵抗したんですが、やられました……怖くて、怖くて」と、芝居がかった言い回しで、うなだれて話すイカレたオジサンだ。

「いくら金に忙しいからって、二か月に三回もやる?イカレてるでしょ?」と滝ちゃんは笑う。

「イカレてる」は滝ちゃんの口癖でもある。

もちろん当時、ゲーム屋強盗はしょっちゅう本当によくあった。

強盗に入られても店は警察に被害届けが出せないからだ。違法賭博店が被害届けなど出せるはずがない。ゴルフクラブや金属バットを強盗対策として準備してある店も結構あったのだ。

店の金を持ち逃げして飛んだイカレっぷりにもほどがある元従業員の話には、僕も足をバタつかせ、腹がよじれるほど笑ってしまった。

その男は滝ちゃんがその店で働く前にいた従業員だ。

店には回銭と呼ばれる金が店にもよるが、常時二百万から三百万は置いてある。

客に付ける金だ。その金をその男は持ち逃げしたのだ。

ゆくえをくらませていた持ち逃げ男が、ある時、ひよっこり店に顔を出した。

オーナーに話があるので、連絡を取って欲しいとのことだった。

滝ちゃんが連絡をして、オーナーと持ち逃げ男が同じテーブルについた。

これから殴り合いでも始まるんじゃないか、と滝ちゃんはハラハラしながら二人を見ていたという。

大柄で無口なパンチパーマのコワモテのオーナーは、高級そうな濃いグレーと白のストライプ柄のスーツをまとい、ソファの背もたれに思いっきり体重をあづけている。

大股を開き、口を怒りまかせに一文字に閉じ腕組みをしている。

袖から太い金のブレスレットをちらつかせながら、持ち逃げ男の謝罪の言葉に眉をひそめ、睨みつけながら言葉ひとつ発することなく黙って聞いている。

怒りのピークなのだろう。吸っていたタバコのフィルターを前歯で嚙み潰し、目尻を吊り上げ、額の血管が浮き上がり波打つのが見える。

テーブルに、おでこがつくくらい何度も何度も頭を下げ続ける持ち逃げ男。

やがて男はうつむいたまま、静かにポケットからくしゃくしゃにまるまったティシュを、テーブルに載せた。

「――気持ちですけん……受け取ってつこうさい」

金を持ち逃げしたケジメとして自分の小指を落とし、その小指をティッシュにくるんで店にやって来たのだ。そして、もう一度ここで働かせてほしいとお願いに来たのだ。ちなみに持ち逃げ男は千葉県出身である。

この男のイカレっぷりはハンパない、と滝ちゃんは笑う。

それを見た無口なはずのコワモテのオーナーは腰を抜かす勢いだ。

ふんぞり返っていたソファがひっくり返るほど小指から逃げるように飛び跳ね、

店内に響き渡る悲鳴のような大声で、

「ぎゃぁぁーー!きんも!きんもぉ!きもーっ!な、なっ、なんだよ!お前は!」

そう怒鳴りつけると、驚くような音をたててソファをひっくり返し大きな背中をエビのように丸め、小指から猛スピードでバックして尻もちをついた。

「ヤクザ映画の見過ぎなんだよ!この野郎!

そんな気持ち悪いモノ持ってくんなよ!だいたいお前は、千葉だろ!

なにが『気持ちですけん』なんだよ!盗んだ金はいらないから今すぐ出ていけ!

こっわ!こわいよーっ!なんだよ、こいつは!」

肩を落として、がっかりした顔で小指を見つめる持ち逃げ男。

顔面蒼白のコワモテのオーナーは、乱れる呼吸を整えながらその男を追い返したというのだ。そのあと、ぶるっぶる震える足取りでトイレに入り便器を抱えて、オエッ、オエッと嘔吐していたという。

その店の常連客はポン中(覚醒剤中毒者)が多く、毎日なにかしら事件が起こる。

たいして仕事をしていない日でも、バイトの帰りには必ず一万円を先輩店員から貰えたのだという。

もちろん月末に貰える給料とは別に、だ。このバイトが楽しくて予備校にも行かなくなり、ゲーム屋を転々とするようになった。

そんな時に杉ちゃんと知り合ったのだという。

職種は違うが僕と同じだった。この当時の求人誌には表の職種も裏の職種も同じように掲載されていた。

なにも知らずにアングラな世界に飛び込み、気味悪がってすぐに辞める人間と居心地が悪くなく、逆に楽しめてしまう人間と二種類いたと思う。

僕と滝ちゃんは間違いなく後者だ。

「ボッタクリってイカレてんなぁ。ある意味、肉体労働だね」

ビールを飲みながら、滝ちゃんは僕の話に笑いがとまらないみたいだ。

「いやいや、ゲーム屋もすごいね。頭のおかしい奴ばっかじゃん!」

僕も手を叩きながら滝ちゃんの話に驚くやら笑えるやらで、空のビール瓶がテーブルにどんどんと増えていく。

この街で日常的に起こる面食らう漫画みたいな出来事の多さにふたり、中華屋の椅子の上で笑い転げていた。

通りに面している僕たちのテーブルからは、白く曇った窓ガラス越しに外の景色が見える。

人の往来が忙しくなったように見える。サイレンのない赤色灯を光らせている動けなくなったパトカーが見える。さっそく、区役所通りが渋滞しているみたいだ。

今夜もこの街で、なにかがきっと起こるのであろう。

ランチタイムで入った僕たちは、陽が落ちて暗くなるまで語り続けた。

想像をはるかに超える出来事があたりまえのように連発する、大好きな歌舞伎町≪この街≫のことを。


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