第24話

  二十時を過ぎたあたりから、早くも超満員だ。ぎゅうぎゅう詰めの客と、女の子たちの笑い声。タバコの煙と「カンパァーイ!」という声があちこちのテーブルから聞こえてくる。

店の中は早くも大盛り上がりである。この天国のような状態から一時間後には地獄のような時間が待っていることは誰も知らない。厨房のヤマちゃんは、注文に間に合わないのでフルーツの作り置きをラップにかけて、大きな冷蔵庫の中にいくつも並べていた。

厨房にはリストと繋がっている電話がある。ヤマちゃんが果物を切る手をやすめ、電話を取ってホールに立っていた僕に店長が呼んでいる、と声を掛けた。

「さっきの二人連れのコジキ、交番に行ったみたいなんだよ」

店長が、あきれたような驚いた顔で僕に伝えた。

「さっきのって、あの若いサラリーマンですか?二人で七千円しか持ってなかった奴ですよね?歌舞伎(交番)は相手にしますかね?」

「――今日、クラ(警察官)がいるだろ?めんどくせぇ一日になりそうだなぁ」

顔をしかめる店長の声に、ふぅーと大きく、僕はため息をついた。



 案の定、早速クラから電話が来た。

「瀬野よぉ!もうリーチじゃねぇかよ?待ってるからよぉ!早く来いよ、この野郎ぅ!」

電話口のクラは、街のざわめきと勝負をしているかような怒鳴り声で僕を催促する。あのモヤシ野郎の二人連れだ。

会計前にこの二人連れの席についていた十九才のリナが足をバタバタさせながら、ムカツク!ムカツクッ!と頬を膨らませ、怒りながら僕の方に駆け寄って来た。

「瀬野君、あのモヤシコンビ、メチャクチャイジメてやってよ!飲み放題五千円の元を取らなきゃと、バカみたいにガブ飲みしてるんだよ、こんなやっすい酒を。

でさぁ、話は質問ばっかでさぁ、大学はどこ?なんでこんなバイトしてるの?こんなバイトをしてるってこと親は知ってるの?もしかしたら彼氏に内緒にしてる?彼氏に言えないようなバイトしてる彼女なんて俺はいらないなぁだって!

そんなこと言いながら身体中ベタベタ触ってくるしさ。風俗で自分がイッちゃった後にヌイてくれた女の子に、『親が悲しむから、こんな仕事今すぐ辞めなさい』と説教始めるクソジジィとおんなじだよ、クソモヤシ野郎!

お前なんかと付き合うわけねーだろ!『こんな仕事』って、ところに遊びにくんじゃねぇよ。

歌舞伎町じゃあ、偏差値より握力や腕力が強いほうが認められるんだよ!ねぇ?そう思わない?瀬野君!あーっ!ムカツク!ファックユーファックユー!」

可愛い顔をしているのに中指を立てながら下品な言葉を連発している。

お怒りモード全開中のリナに偏差値より握力はないと思うけど、分かったから落ち着いて、と僕がなだめた二人連れだ。

僕は許可書を持って外に出た。コマ劇場の前にいたシキテンの谷さんが小走りで僕に向かってきた。

それにしても今日もすごい人だ。コマ劇場の前には電話ボックスが四台ある。どれもデートクラブのチラシがびっしり貼られている。外から中が見えるように透明なガラスの箱で出来ているはずの電話ボックスの中は、ピンクチラシがびっしり貼られ、外からは膝下くらいからしか見えない。

コマ劇場を背にして前方をみれば、左に立ち食いそばの『後楽そば』、右にパチンコ屋の『モナミ』がある。

大きく派手な真っ赤な電飾看板が点滅して辺りを照らしている。ジャラジャラとパチンコ玉の音と叫び声のような店内放送が外まで聞こえる。どちらも大盛況のようだ。人で溢れかえっている。

「入会金無料!一時間八百円!新宿の女は気が短いぞ!それ!リンリンリンリンリンリンハウス!」昼夜関係なく流れている、大音量のテレクラの宣伝アナウンスをもかき消すほどの通りを歩く人々の笑い声や歓声だ。

「瀬野ちゃん、さっきの二人連れ、七千円だろ?『歌舞伎町じゃあ七千円なんてボラレたうちに入らないよ、交番に行っても相手にしてくれないよ』って散々話はしたんだけどさ、足が止まんなくてね。

騙された、騙されたってすごい剣幕でさ。早速飛び込まれちゃって、申し訳ない。今日、クラでしょ?」

ベルトにつけたポケットベルを気にしながら、谷さんが申し訳なさそうに頭を下げた。

「いや、いいですよ。あの客、誰が連れて来たんでしたっけ?」

「スーさんじゃないかな?」

「スーさんか、コジキは勘弁してもらいたいですよね」

「まぁね。スーさんにしたらコジキ入れてもメシ代くらいにはなるしね」

溢れかえる雑踏の中で、営業許可書を抱えた僕は少し伸びをして歩きだした。



 ――しようがない、行くか。

コマ劇場を背にして右に歩き出すと正面にマクドナルドがある。のぞき部屋なんかもある。

角のスポーツ新聞やエロ本、風俗雑誌を並べている本屋を右に曲がる。左には『パチンコ屋のオデオン』コマ劇場の正面玄関が右にあり、左には広場と『ミラノ座』がある。

立ち食いそば屋の『コマそば』を通り過ぎると『東宝サウナ』と『ロッテリア』がある。

『ムーランドール』や『クラブハイツ』『サウナフィンランド』、『ディスコゼノン』『ナパJ』『GBラビット』、各テーブルに電話がついてる『テレフォン喫茶マジソン』。

『コパボウル』のフルボリュームの宣伝アナウンスもかき消されるくらいの人の声だ。まさに、人、人、人である。

人混みをかき分けて交番に向かう。モヤシ野郎の二人と警察官三人が交番の入口でなにやら話をしている。今日はちゃんと帽子を被ったクラが腕組みをしながら仁王立ちして僕を睨みつけている。

「おい、瀬野。お前のところのお客さん、ハナシが違うとここに来てるぞ。話をしろ」

一人の警察官が手招きをしながら僕に言った。

「どうもすいません。先ほどのお客さんですね。どうされました?」

「どうされましたか?じゃねーよ!話が全然違うじゃねぇかよ。五千円以外一切掛からないって話で来たんだよ。なにが御一人様六万六千円なんだよ!騙しじゃねーかよ。ふざけんなよ!」

店ではブルブル震えていたくせに交番に来ると威勢がよくなる客は多い。僕の顔に唾がかかるくらい顔を近づけて怒鳴っている。

「それは先ほども説明しましたよね。

紹介された人は当店の人間じゃないってことを。六万六千円と言いますが、お客さんから頂いたのは二人で七千円ですよ。御一人様三千五百円ですよ。店のシステムがわからなかったということでサービスしたじゃないですか?」

「――請求すること自体が騙しだって言ってるんだよ!なんであんなクソみたいな店で酒を飲んで二人で十三万なんだよ!おまわりさん、どう思います?」

僕より二、三つ年上くらいの真面目そうな、スーツを着た若いサラリーマンだ。酒をガブ飲みしたせいで一人のほうは呂律も回っていない。

「うーん、旦那さんさ、お店の料金のことにはこちらからはなんとも言えないんですよ。ただね、二人で一万七千円ですよね?

歌舞伎町で一人八千円やそこらで、女の子のいるお店でお酒を飲むのは難しいですよ。しかし、店に入るときの説明が違うんですもんね?」

一人の警察官が客に優しく丁寧にそう話していた。

「瀬野、早く話をまとめろよ、この野郎ぅ」

胸を張り腕組みをしたまま、仁王立ちのクラは顎を上げる仕草をしながら僕に呟いた。

「お前ら、こいつらとグルか?誰から給料を貰ってると思ってるんだよ!俺たちの税金だろ?俺らがお前らを食わせてやってるんじゃねーか!こんなクソみたいな店、なんで潰さないんだよ!」

モヤシコンビの呂律が回っていないサラリーマンの方が、いきなり優しく話している警察官に喰ってかかった。

ここで(交番)一番言ってはいけない禁断のフレーズだ。酔った勢いもあるのだろうが、この言葉を吐く酔っ払いは結構多い。お前らは税金で食っているんだろう、という警察官を見下した頭の悪いフレーズである。

ただ僕にすれば、客にこの禁断のフレーズを吐いてもらえると非常にありがたい。

梶さんじゃないが警察官も人間である。感情がある。

この言葉で警察官の僕に対する怒りの熱量があっという間に冷めるからだ。それを聞いた二人の警察官は、苦々しい顔で、すーっと交番の中に戻っていった。

眉間に深いしわを寄せた、パッツンパッツンの制服を着た仁王立ちのクラが、力の入った一重瞼の鋭い眼光でモヤシ野郎二人を睨みつけている。

――クラ、おまえなら言える。こいつらになにかガツンと言ってやれ!普段通りのおまえで十分だ!と僕は心の中でクラのケツを叩いた。

「――ふんっ、食わしてやってるだとぉ?まぁいいや。おい、瀬野!この客、どうすんだよ!俺らも暇じゃねぇーんだよ!」

交番で話をつけるときは、結局「いくら、いくら返してくれ」という金の話になる。店からは客が払った金のここまでは返してもいい、という金額を渡される。

要はその金額までで、客と話をまとめて来いということだ。もちろん返さないに越したことはない。

店長から面倒くさいから七千円、丸めて顔にぶつけてやれ、と七千円渡されてきた。クラから睨まれている一人のサラリーマンはさすがに「食わせてやっている」は言い過ぎだろうと、酒で赤くなった顔が青くなり、ソワソワしている。

「おまえさぁ、こんな人を騙す仕事してて恥ずかしくねぇの?こんな仕事しかねぇのかよ。中卒かぁ?」 

呂律の回っていない、もう一人のほうが僕のほうにフラフラと詰め寄ってきた。

七千円返してもいい、と店長から渡された七千円は絶対に返さないと決めた。

「中卒だろうとか、どんな仕事なんていうのは、今は関係ないでしょうよ!」

クラの大きな身体が、酔っ払いのサラリーマンと僕の間に割って入った。彼の大きな声に、交番の中に戻っていた二人の警察官も勢い良く飛び出してきた。

クラの大きな身体と交番の中から二人出てきたことで、交番の前は客二人と警察官三人と僕とでモミクチャになった。野次馬もどんどん集まってくる。

なぜか大ゴトになってしまったような雰囲気に、僕に詰め寄ってくるサラリーマンの連れのほうが、「もう大丈夫です!帰ろう、帰ろう!」と、呂律の回っていないサラリーマンの手を、慌てて引っ張っていた。

交番の前で僕と客と警察官がゴチャゴチャしているときに、他店でボラレタという二人組のサラリーマンが来た。シャツもはだけ、ひとりはハンカチで鼻をおさえている。

「すいませーん、コマ劇場の近くの店で飲んでいたんですけど、ボッタクリみたいなんですよ。払え、払わないで揉めていたら殴られちゃって。ワイシャツは破れるし、ボタンは取れちゃうし」

ヨロヨロとした足取りで、僕とクラの前に近づいてきた。

「お店の名前わかりますか?」

「初めて行った店だし名前はちょっと。――連れて行かれたんですよ、客引きに」

「わかりました、今からその店に行きましょう」 

「確か、五階だったかなぁ?六階だったかなぁ」

「大丈夫ですよ。安心してください。大体察しはついてますから」

クラは、その客二人と話をしながら足早にコマ劇場の方に歩いて行った。

僕は、丁寧な口調で人と会話しているクラを初めて見た。

こんな奴でも、ちゃんと丁寧な言葉を使えるんだなぁと思った。

まだ一日が始まったばかりだ。

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