第23話

 歌舞伎町交番が、今の歌舞伎町交番の斜め前にあった頃だ。このくらいの時期から歌舞伎町の無法地帯ぶりがマスコミに取り上げられるようになってきた。

昏睡強盗や暴力沙汰、泥酔客のカードでのキャッシング等さまざまなニュースが流れていた。始末書というのは、料金トラブルで客が交番に駆け込むところから始まる。交番で客のクレームを聞いて、店側の人間を交番に呼ぶ。

そこで警察官立会いのもとで、店と客の話し合いで料金のトラブルを解決させるのだ。

社長の梶さんは交番に走られるのをすごく嫌っていた。この始末書が何枚以上貯まると、営業停止やガサ入れになると、いつも僕たちに話していた。ただ、いくら嫌ったところで交番に駆け込まれてしまうのだ。

この梶原さんという人は、今まで僕が見聞きしてきた歌舞伎町の社長とは全然違った。

なにがあっても絶対に客には手を挙げるな。逆に殴られておけ。殴られたほうが、こちらとしては都合がいい。

殴られた分だけ、必ず俺が面倒みてやるから安心して殴られておけ。

警察には低姿勢でいろ、反抗するな。

警察官に食ってかかっている同業者や酔っ払いを見るとよくバカにして笑っていた。警察を挑発して得することなんかなにもないと。

あいつら(警察官)も同じ人間なんだ、感情もある。好かれることはないが、嫌われるな。目を付けられるな。事件と感情は別物だ。

プライベートでは警察の厄介には絶対になるな、普段から警察に厄介になる仕事をしているんだから。

奥さん、彼女がいる人間でも、店の女は喰いまくって店を辞めないように店用に自分の女をつくれ、そうすれば、不安定な女の出勤もその子たちでカバーできる。

こんなことをしょっちゅうミーティングで話していた。店の営業が終わり、客が交番に駆け込み始末書を多く書いた日は「今日はご迷惑おかけしました。申し訳ありませんでした」と言って箱でリポビタンDを交番に届けるよう言われていた。

「おぅ、あんまり客をこっち(交番)にもってくるなよ」と受け取ってくれる警察官もいるのだが、「瀬野!この野郎!いつもこんなことしてるのか?贈賄でパクるぞ!」と言って受け取らない警察官もいた。

『ポケットベル』の登場で今までにないシステムも考えられた。店の外に『シキテン』と呼ばれる見張り役みたいな従業員四人が、通りに配置された。

ポケベルの登場は画期的であった。

引き屋に連れられて、客が店に入るときには必ず外から電話が入る。この連絡があるかないかはとても大きい。

というのは、先に来ていた客と店の入口で揉めている時に、それを知らずに別の引き屋が新しい客を店に連れて来る。新たに店に来る客と、揉めている客が鉢合わせをしてしまい、連れてきた客に逃げられることが多々あるからだ。

外から連絡が入れば、声のトーンを落としたり、瞬間的に客を静かにさせてキャッシャーの中に入れてしまう。

逆に客が帰るときには、店から外にいるシキテンのポケベルを鳴らす。そうすると、シキテンは店から出てきた客がちゃんと帰るかどうか、靖国通りまで尾行するのだ。

歌舞伎町の交番の方に向かって歩きだしたら、アフターケアでもするかのように、客に声を掛けるのだ。

客の足が止まらなければ、「ぼったくられたの?ひでぇことしやがんなぁ。俺が店に掛け合っていくらかでも、金を返すように言ってやろうか?警察なんかに行っても民事だから相手にしてもらえないよ」という正義の味方のような口ぶりで話かけるのだ。

靖国通りを渡って新宿駅の東口の交番に入られたらしょうがない。地方から遊びに来ていて、交番の場所が分からずに、タクシーで「新宿警察署まで」と言って新宿警察署に行かれてしまうのもしょうがない。

この頃の僕は、多いときには歌舞伎町交番から帰ってきたら東口交番、東口交番から帰ってきたら新宿警察署と一日に四、五回、と営業許可書を持って警察署巡りをしていた。

その頃の歌舞伎町交番は、入口のすぐ横に事務机が置いてあった。その机の後ろに簡単に区切られた狭い部屋が三つある。各部屋に小さなスチール製の簡単な机とパイプ椅子があり大人ひとりが座れる広さだ。

ここで僕が始末書を書くときには、警察官は座るスペースがないのでドアを開けたまま、体を半分部屋に入れた状態で横に立つことになる。

なぜか、料理を作るわけでもないのに、おたまや【精神注入棒】と黒マジックで書かれた六十センチくらいある竹製モノサシを少し太くしたような棒を手にしている。

警察官が僕の横に立ち始末書の文言をレクチャーするのだ。

「日付だろ?時間な。それといくら請求していくら取ったかの金額な。今度よぉ、料金ゴタ(料金トラブル)があったどうするよぉ?あと、反省の言葉な。『今度料金トラブルを起こしたら坊主にします』とかって書いとくか?」「いやぁ瀬野は、坊主くらいならって、簡単にしてきそうだから、歌舞伎町出入り禁止でいいんじゃないですか?」

別の警察官が、笑いながら口を挟んだ。始末書に書く文言は、彼らの言う通りに書くのが決まりだ。書いている最中に、おたまが僕の頭の上でバウンドするように、コンコンコンと殴られたり、警察官の虫の居所が悪いときは、「精神注入棒」と書かれた竹製のモノサシみたいなもので、背中をバシバシと思いっきり叩かれるのだ。翌日、寝返りがうてないほど、ミミズバレになることもある。

逆にこんな警察官もいる。引き屋に連れられて来ることなく、ふらりと三人の客が来た。体格のいい三人だ。

僕は一目でわかった。歌舞伎町交番勤務は四つの班があった。その中のひとつの班に所属している男達だ。今日は非番なのだろう、私服で飲みに来たのだ。店長はキャッシャーの中にいるから彼らの顔は見えない。三人は僕の顔を見ながらニヤニヤしている。三人を席に案内し、女の子達が彼らの間に座りお酒を作り出した。

「店長、今来た三人、歌舞伎のカラス(警察官)ですよ。どうします?」

店長は読んでいた愛読書の『週間実話』を閉じた。『週刊大衆』『実話時代』『実話ドキュメント』これらももちろん、彼のお気にいりの愛読書だ。

「へー、今日は非番なんだろうな。梶さんに聞いてみるよ。梶さんが、喜びそうなハナシだな。すげぇオ・モ・テ・ナ・シ・しそうだよな」

苦笑いしながら、椅子から立ち上がり、受話器を手にしてシキテンのポケベルを店長が鳴らした。

固定電話しかない時代だ。連絡が欲しい時に、外にいる欲しい相手から連絡がもらえるというのは、凄く便利なことであった。

僕はホールに戻った。二十時を回った頃だ。タバコの煙と、音楽と女の子たちの黄色い歓声。大勢の客たちの笑い声に合わせるかのように、シャンデリアから反射する幾多の色の光が天井で揺れる。今日もあたりまえのように大盛況だ。

三人の私服の警察官たちも、女の子に挟まれビール片手に、大いに盛り上がっている。

そこへ梶さんが行きつけの寿司屋から出前を頼んだ、大きな寿司桶に入れられた握りの盛り合わせ二つと、宴会で使うようなバカでかい、お頭付きの刺身の舟盛りを店長と僕とで、三人の座るテーブルへ運んだ。

歌舞伎町交番とできるだけ仲良くしたい梶さんの指示だ。

三人は満面の笑みを浮かべて手を叩き、女の子達はソファから腰を浮かし、ヤンヤヤンヤの大盛り上がりだ。

「おう、小湊。久しぶりじゃねぇか。なんだよ、そんな気を使わなくていいのに。

ちゃんと帰りに金は払うからよぉ。みんな、店長の奢りだぁ!遠慮すんなよ!食っちゃえ、食っちゃえ!」

三人は、すこぶる上機嫌だ。制服を着ている勤務中なら、絶対にお目にはかかれない超爆発的な笑顔のオンパレードだ。

いつも交番で、しかめっ面で怒っている顔しか見ていない僕は、両隣の女の子の肩に手を回し、大きく口を開け赤ら顔で笑っているこの警察官たちが同一人物とはなかなか思えなかった。

大きな桶に入れられた握りの盛り合わせ二つ、豪華なお頭つきの刺身の舟盛り、フルーツ、ビールをひとケース飲み干した。二時間くらいの宴を彼らは存分に堪能した。

「ごちそうさまぁ。いい女の子たち揃えてるんだなぁ。寿司もうまかったよ。今日は楽しかったよ。ありがとうな、はい、これ」

頬を赤らめ、気持ちよく酔っぱらっている三人は、ニコニコしながら店長に、お金を渡した。一人三千円、三人で九千円だ。

「小湊よぉ。金払ってんだから、全然問題ねぇからな。また来るよ、じゃあなぁ」

この三人がいる時の交番へ呼ばれることは、本当に楽であった。大体が交番の前で客と僕は、料金のことで言い争いみたいな形になる。

すると、この警察官は僕の胸ぐらをグイッと掴んで引きずるように、客から近い一番手前の個室に連れ込むのだ。

そして、僕の顔を見てニコッとしながら、「この野郎!お客さんに誤解させるような営業してるんじゃねーよ!おぉ!お客さんに謝れよ!こら!ふざけた営業してんじゃねぇぞ!こら!」と、拳で壁をバンバン叩きながら、客に聞こえるような大声で一人芝居をしてくれるのだ。その一人芝居を僕もニヤニヤしながら見ているのだ。

「旦那さん(お客さん)、このバカに厳しく注意しておきましたよ」

と、僕の頭に手をやり、無理やり頭を下げさせ、客の溜飲を下げてくれるのだ。

もう少しうまくやれよと、始末書を書かずに帰してくれるのだ。

料金トラブルはウチの店だけじゃなく、他の店でも数えきれないくらいあるであろう。

ぼったくり全盛時代である。毎日すごい数の客が交番にクレームを言いに訪れているはずだ。彼らの仕事はもちろん料金トラブルだけではない。道案内や酔っ払い、交通トラブル、喧嘩、など様々な事が日々この街で起きている。

街がお祭り騒ぎであればあるほど、いやが応でも彼らのフラストレーションは溜まってしまうのだ。



 「――ったく。あのガキ(警察官のクラ)、調子にのってんなぁ」

クラから電話があったことを出勤してきた店長に伝えた。白髪まじりのパンチパーマ、夜でも度付きのサングラスをしている小湊店長だ。

四十代半ばくらいの店長は松方弘樹の大ファンだ。眼が透けて見えるくらいの薄い茶色のサングラスをいつもしている。東映のヤクザ映画が大好きで、ヤクザが大好きな人だ。友人にヤクザも多い。

「歌舞伎(交番)で決めるって言われてもなぁ。後から梶さんに聞いておくよ。

ところでおまえ、弁当(執行猶予)持ってんだろ?あとどれくらいあるんだ?」

店長はタバコに火を着けながら僕に聞いた。

「あと二年くらいですかね」

「そうか、俺もゲーム(ポーカーゲーム賭博)でパクられて起訴うたれて弁当貰ったんだよ。去年で弁当が切れたんだけどさ。名義(逮捕された時にオーナーの身代わりになる人間)やってたからよ。

だいたいゲーム屋の相場だと、罰金刑をもらったら百万、起訴されたら三百万をパクられた連中にオーナーは出すんだよ。弁護士費用もオーナーが出すのがあたりまえだしな。そんな約束もしてたしな。

中には留置場に入った日から一日五万計算なんて店もあるけどさ。俺が出頭したあと、そのオーナーが飛びやがってさ。

面会も差し入れもなにもないからおかしいな、とは思っていたんだけどな。ふざけてんだろう?飛んだのを知ってから慌てて女房に弁護士の手配をさせて大変だったよ。自腹だぜ、弁護士費用も保釈金も。

まぁ、保釈金は戻ってくるけどな。

こんなの口約束だからなぁ。紙にしたら、信用してねぇのかって話になるし、そんな紙が存在してたらオーナーも嫌だろうしな。梶さん大丈夫だろうな?」

社長が「飛ぶ」という話は、この街に来た頃の僕は、すごく違和感を覚えた。

しかし、よく考えれば一般社会でも零細企業の社長の夜逃げなんてよくある話だ。やむにやまれぬ事情もあるのだろう。どうせ金に詰まって飛ぶのだから、違う街でまた仕事を探さなければならない。

ただこの街のアンダーグランドなところで活動をしていた時間は履歴書には書けない。

人生の年表を作るとしたら空白の欄ができるのだ。

五年いたら五年間が空白になる。

正直に履歴書を書くというなら五年間の勤務先は歌舞伎町となる。なんだ?勤務先が歌舞伎町って?そんな履歴書など書けるはずもない。

空白の時間の中に今、僕はいるのか?そんなことを僕は思っていた。

女の子達が続々と出勤してきた。彼女たちの笑い声で、一気に店の中は賑やかになり華やいだ雰囲気になった。

今日も忙しくなりそうだ。


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