第21話

 東京拘置所に、僕は移管された。十二月に入ったばかりの夕方である。

自分の気持ちが沈んでいるせいかもしれないが、護送車から降りた僕は、色のない景色だなぁと思った。本当に、鉛色という色はあるのだと思った。

草木は枯れ果て、葉を落とした鋭く尖った枝は、鉛色の空を突き刺すかのように木枯らしに揺れる。砂埃が僕の足元で勢いよく舞い上がり、深くついたため息でさえ強い風の音でかき消されてしまう。

見上げる建物も風景も、自分のせいで大切な人を亡くしたような、心に重くのしかかる黒い額で縁取られた遺影のように見えた。

冬の季節がそうさせるのか、僕の身体がブルッと震える。このモノクロの景色が不安でしょうがなかった。身体検査と入所の手続き、ここでの生活の説明を受けて房に案内された。

磨き上げられたチリひとつない幅のある廊下を刑務官と二人で歩く。

脇見はするな、前だけ見て歩けと言われた。

青白く廊下を照らす蛍光灯の光にやさしさはない。

この建物の中にも色はなかった。留置所がアットホームだとは言わないが、拘置所の中は、ピーンと張り詰めた冷たい空気を感じた。冷気に包まれた音のないシーンとした廊下に、僕と刑務官の足音だけが響く。

案内された房は三畳くらいの独居房だった。

ドアを開けると、枯草のようなにおいが鼻につく。正面には、錆ついた鉄格子のついた窓がある。窓の手前に、しゃがむと腰から下が隠れる程度の板が建てられたトイレがある。映画などで見る、ごちゃごちゃ大勢の人がいる雑居房だったら嫌だなぁと思っていたので、これには少し安心した。

無機質な部屋だ。体重を掛けると少し沈むような、疲れた感じの薄汚れた畳だ。

そこに、僕は腰を降ろしてシミだらけの壁をぼんやり見ていた。逮捕されてから、さんざんメンタルはやられてきたのだが、ここに連れて来られて、それにもとうとうトドメを刺された気分だ。

保彦や秀司は父親に伝えに行ったのだろうか?ここにはどれくらいいるのだろうか?弁護士なんて知り合いいないしなぁ、とにかく早く出たいなぁ……そんなことばかり考て、その夜も眠れなかった。

「保釈申請をするなら急いだほうがいいぞ。モタモタして正月を挟むと正月休みが入ってしまう。その分、小菅にいる時間が長くなるぞ」と刑期評論家の年輩ヤクザに教わっていた。

しかし、正月を挟むも挟まないも、僕にはどうしょうもできないのである。

自分ではどうしようもない、まな板の上の鯉だ。



 面会者が来たと刑務官から伝えられた。面会室まで刑務官が誘導してくれた。帰りは一人で房に戻れ、と言われたら拘置所の敷地が広いということもあるが、戻れそうもないくらいに迷路みたいな構造だ。

面会室と書かれたプレートが貼られた小部屋に入れと言われた。ゆっくりとドアを開ける。

桃子は先に入っていた。肩まである髪は少し明るく染め、十二月の風の中を歩いてきたためであろう、色白である頬も鼻もうっすらと赤い。

緊張からか、可愛いいはずのサンタクロースとトナカイの柄の手袋は握りこぶしだ。

一つ僕より年上の彼女の桃子が、ドアを開けた僕に目をやる。

アクリル板越しに彼女を見た。

ベージュのムートンのダッフルコート。真っ赤な大きなふかふかしたマフラーは、去年クリスマスに僕がプレゼントしたものだ。

「――痩せたね、哲ちゃん……」

「そ、そうか?今、ダイエット中だしな。それより、元気にしてたか?」

「それ、こっちのセリフだし」

不思議とあれだけ不安だらけで眠れない日が続いていたのに、彼女の前だと逮捕される前の僕になっていた。彼女は、拘置所に来るのは今日で二回目だという。面会時間があるということを知らずに、前回ここに来て門前払いを食らったみたいだ。門前払いを食らった帰りの電車の中で泣いちゃってさぁと笑った。

今回はちゃんと時間の確認をしてきたのだと誇らしげに話した。東京生まれの東京育ちの彼女が乗ったことのない電車に乗って、生まれて初めて降りた駅だという。

都内にこんな施設があることを初めて知ったともいう。そりゃそうだろうなぁ、まともに暮らしていれば、こんなところに用事なんかないもんなぁと、頷きながら僕も笑った。

僕もいっぱい彼女に話したいことはあったのだが、全然言葉がみつからなかった。刑務官が隣にいるのも気にはなっていたが、ただただ彼女を見つめて笑っているだけだった。

ライオンが放たれたマンションの片付けは終わっていること、あれだけグチャグチャにされたついでに、大掃除をして逆にピカピカにしてやったよ、と胸を張って彼女は笑った。

だが、笑えば笑うほど彼女の大きな瞳には、今にもこぼれそうなくらいの涙の膜が張ってくる。

「髭……伸びたね。哲の顔に髭は似合わないよ、髭ないほうがいいよ」

「――そうかぁ?なら、出たらすぐに髭剃らないとな」

僕はこの数週間、自分の顔をマジマジと見ていない。そっと、鼻の下や顎に手をあててみた。

「そろそろ時間だよ」

抑揚のない刑務官の声がした。瞬きを一度でもしたら、必ずこぼれてしまうくらいの涙の膜で、彼女の切れ長の大きな瞳はキラキラしている。

「出てきたらよぉ、焼肉おごったるわな!」

アクリル板越しの彼女は立ち上がってVサインをした。

限界を超えた潤んだ瞳からは大粒の涙があふれ、声を詰まらせ、震える声でにこりと笑った。僕と保彦と秀司しか使わない、僕らの地元の言葉を使って。



 僕は房に戻った。今の自分みたいに、疲れきった弱った畳の上であぐらをかいた。彼女の前で強がったわけでもないが、一人で不安だらけの昨日までの悶々としている顔ではなかったと思う。

彼女の顔を見て、なにか背中に芯が通ったような気がした。元気が出てきた。昼間は寒さもあるのだが、やることもなく退屈過ぎてシャドーピッチングや、いろいろなプロ野球選手のバッティングフォームのモノマネをして汗をかいていた。刑務官から「座ってろ!立つな!」と、何度も注意も受けた。

しかし、夜は眠れない。眠れないのだ。

消灯時間が早いせいもある。それもあるのだが、父親とここで会うことを考えていると夜が明けてしまう。

――なんて言おう?

――まずは謝るのが先か?

――どんな顔をすればいいんだろう?

昼間は考えないことも、夜になると頭の中をグルグルと駆け巡るのだ。



 面会者が来たと刑務官に呼ばれた。この前彼女が来た時と同じ道順で面会室に行った。緊張しながら伏し目がちに、僕はドアを開けた。

アクリル板の向こうに父親と弁護士らしき人がいた。

このとき、僕はどんな顔で父親を見ていたのだろう。目の前にいる父親の目は涙で真っ赤だった。生まれてこの方、あとにも先にも父親の涙を見たのはこの一度だけだ。顔を合わせたまま長い沈黙が続いた。時間を計っていたわけではないので、もしかしたら数秒かもしれない。

けれど、僕にはものすごく長い時間に感じた。

父親は、「なにをやっとるんや、おまえは?」という言葉を、きっと飲み込んでいたに違いない。

「――――痩せたなぁ、おい…… ――顔見れたで、まぁええわ。帰るわ」

その一言を言うと父親は立ち上がり、帰ろうとした。弁護士らしき人が、

「いやいや、瀬野さん。せっかく新幹線で来られたのに。哲也君?弁護士の宮西と言います。保釈の手続きは済んでいるので、もうじき外に出られますよ。では、また連絡しますね。瀬野さん、待ってくださいよ、瀬野さーんっ!」

父親を追いかけるように弁護士も出ていってしまった。僕は、幽体離脱とでもいうのか、一瞬で全身の力が抜けた。

セミの抜け殻のような身体でぼんやりひとり、そこに座っていた。だが、なぜか不思議なことに、父親の顔を見たことで僕の心のモヤモヤが一気に晴れた。

一言も話すことなく、謝るタイミングもなく、許されたわけでもない。父親がどういう気持ちでいたのかも知らない。なのに、鼻歌が出るくらい身体も気持ちもすこぶる軽くなっていた。「もうじき出られますよ」という宮西弁護士の言葉も相まってのことだと思う。

外に出られるのは、まだか?まだか?と思いながら過ごしていた時だ。

陽もどっぷりと落ちて今日もだめかぁ、明日かなぁと思いながら布団を敷き橫になっていた時だ。

「釈放だ。出る準備をしておくように」

鉄格子の外から刑務官の声が聞こえた。

ヨッシャーッ!僕は布団から飛び跳ねるように起き上がった。ヨッシ、ヨッシ、ヨッシと、今すぐにでも、踊りだしそうな自分の体を無理やり抑え込むような独り言が止まらない。

外に出ると辺りは真っ暗だ。

現金なものだ、十二月の風が全然寒くないのだ。護送車からここへ運ばれて来た時には、ブルブル震えていたくせに。自分で自分のことが少し可笑しく思えた。

そんな中、街灯の少ない東京拘置所の出口に一台のタクシーがエンジンをかけたまま止まっていた。暗闇の中でタクシーの後部座席のドアが勢いよく開いた。聞き覚えのある笑い声だ。

下手なスキップをしながら二人の男が踊りながら近づいて来る。

「哲!おつかれっーーー!」

タクシーのヘッドライトに照らされた、飛び跳ねる秀司と十二月の澄んだ夜空に向けて雄たけびを上げる保彦だ。

二人して僕の体を大声で笑いながらバチバチと叩く。

暗闇に赤く光るタクシーの料金メーターは八千円を超えていた。

「ヨッシャ!歌舞伎町で朝まで飲むか!今日は哲の出所パーティーやな。すいません、運転手さん。歌舞伎町までお願いします!」

秀司の声に、保彦も僕も笑った。

後部座席の僕たち三人の笑い声を乗せて、歌舞伎町に向けて弾むようにタクシーは走りだした。

 


 






 

 

 



 



 

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