第20話
僕が逮捕されたことは、秀司も保彦も彼女も知らない。知らないというより多分逮捕されたのだろうとは思うが、どこの警察署にパクられたのかがわからないのだ。
一日や二日ならともかく、一週間も十日も音信不通状態になっているのだ。
マンションの合鍵を持っている秀司や彼女にしたら、ライオンが暴れ回った僕の部屋の惨状を見れば一目瞭然である。
僕は留置所という環境にも慣れて、同じ房の中の人達ともよく話をするようになった。
「兄ちゃん、なにしてパクられたんだ?」
真っ黒なスエットの上下を着た、五十代くらいのでっぷりとしたごましお頭の丸坊主。見るからにヤクザという年輩の男に話し掛けられた。
「裏ビデオですよ」
「ほー、ビデオかぁ。儲かってたのか?どこでやってたんだよ?」
「駅前のアルフィンズマンションです」
「なんだ、あそこでやってたのか?うちのシマ内じゃねーか?挨拶に来てねぇだろ?ビデオなんか、すぐにパイだよ。すぐ出れると思うから出たら挨拶に来いよ」
組織名と事務所の場所、彼の名前も聞いた。
もちろん出たところで挨拶に行く気もないのだが。
房の中の人間は、弁護士でも裁判官でもないのに僕に前科がないことから起訴はない、罰金刑だ、すぐに釈放だ、と口々に言っていた。
歌舞伎町の住人同様、「たいしたことはない、たいしたことはない」と、笑っていた。
口を揃えてみんなが言う「たいしたことはない」は、子供が膝を擦りむいて初めて見る赤い血と、感じたことのない痛みに大騒ぎしているのをすでに経験してきた大人が、「たいしたことはない」というものなのだろうなと思った。
「たいしたことはない」と言えるほどの逮捕歴があることが全然羨ましいとも思わないのだが。
すべてが初めての経験で流れが全然わからなく不安が募るばかりだ。大半の人間はこんな経験などすることなく人生を終えるので、当たり前と言えば当たり前なのだが。
ため息ばかりついている僕に年輩のヤクザが教えてくれた。
「兄ちゃん、たぶんそろそろ出られると思うぞ。検事調べで地検に行った連中が帰ってきたら、この鉄格子の扉の前をよく見ておきな。
地検からお前の結果も持って来るから。
扉の前にお前の私物と靴が並べられたら出られるよ」
房の中の連中の相談や刑期の予想みたいなことを、この年輩のヤクザはよくしていた。
前科を聞いて「今回のは、四年はもらうんじゃねぇか?」とか「ダブルの執行猶予は厳しいぞ」とか「裁判で心証さえ良ければ刑期を短くできるかもしれないぞ」と、犯した犯罪と前科前歴を聞きながら、もっともらしい刑期を予想するのだ。
なぜか聞いている皆が納得するような説得力もあった。僕は、刑期評論家みたいなこの年輩ヤクザの言葉に一喜一憂していた。
それを聞いてから地検から帰ってくる連中の時間ばかり気にしていた。だが、来る日も来る日も僕の私物と靴が並べられる日がこない。
落胆している僕のことが気になったのか、年輩ヤクザが担当に声を掛けた。
「担当さん、この子宛の連絡は来ていないのかい?」
忙しそうにしていた担当は、一度留置所から出ていき半紙みたいなものを持って、また戻ってきた。
「ん?おお、これだよ、これ。起訴だよ」
わら半紙みたいなものを僕に見せた。なにやら文字が書いてあったのだが、一番下に赤いインクで【起訴】という判が押してあった。僕には法律の知識などまるでなかった。世間話の中で「罰金」とか「起訴」とか「執行猶予」とか「懲役」とか、言葉では聞いていても、今ひとつしっかりと理解できていなかった。
ただ、罰金と起訴の違いは、なんとなく理解していた。
――起訴。
その文字を見てひどく落ち込んでしまった。
僕は刑期評論家の年輩ヤクザにすぐに聞いてみた。「罰金だから安心しろ、すぐに出れるさ」と、なぜか僕を励ましてくれていた年輩ヤクザも驚いた様子だ。
「たかが裏ビデオで起訴かぁ。重いなぁ。お前がオーナーだからなのかなぁ?ビデオ屋の従業員なんて罰金ですぐ出てきてるのになぁ。おまえ、弁護士は?」
よくドラマや映画で弁護士が来るまで取り調べに応じない、とか弁護士を呼んでくれ、などというシーンを見ることはあるのだが、僕の頭の中にはそれまで「弁護士」などというワードは、これっぽっちも出てこなかった。
「――弁護士って?僕が探すんですか?」
がっかりしてうつむいてばかりいた僕は、思わず顔を上げた。
「あのな、お前が起訴を打たれたってことは、もうお前の身柄は法務省なんだよ。
担当に言って、外にいる人間と連絡を取らせてもらえ。これからお前は未決で小菅(東京拘置所)に行くことになるんだよ。
裁判を待つことになる身だ。小菅で裁判を待つのか、外で待つのか?外で待つなら保釈申請を弁護士に頼まなきゃいけねぇしな。保釈金もかかるぞ」
身柄が法務省?裁判?弁護士?保釈申請?保釈金?
なんだか、たかが裏ビデオだと思っていたことが、すごく大ゴトのようになってきたような気がしてきた。
なぜか、この年輩ヤクザが頼もしく思えた。
浅黒い肌に頬から耳たぶにかけて、ハデな一本線の刀傷のある顔。
左小指の爪がなく、ふた関節指が短くなっているヤカラヤカラしている外見でも、なぜか賢そうに見えた。
このヤクザが言っていることは本当なのか?と思いながらと担当に外部との連絡を取りたいと伝えたらすぐにOKが出た。秀司と彼女にすぐに連絡をした。この頃は携帯電話など、もちろんない時代だ。よく使う電話番号の十や二十は頭の中にあった。
今じゃスマホの登録番号を押すだけなので記憶にある電話番号など一つもない。せいぜい実家くらいなものだ。
――起訴、裁判、保釈、保釈金 ――弁護士。
その夜もまた、全然眠れなかった。
「おい、面会が来たぞ。ありゃ、お前の兄貴分か?」
担当さんが鉄格子越しに僕に伝えた。
面会室に行くと、保彦と秀司がいた。わざわざ田舎から保彦も来てくれていた。二人とも胡散臭い。
そういう僕も十分胡散臭いのだが。
こんなところに来るのに、なぜか秀司は目いっぱいドレスアップをして来たのだ。初めてのデートにでも行くみたいにビシッとキメて来た秀司に、「この男だけは、しょうがねぇなぁ」と、僕は笑みを浮かべた。
元々、理由はよくわからないのだが、なぜか冠婚葬祭が大好きな男だ。儀式みたいなものに気合が入るのだろう。
警察署の、ましてや留置所に儀式もなにも、あったものではないのだが。髪はキッチリとムースでサイドバックに固め、金縁の眼鏡に口ひげは丁寧に整え、しわひとつない真っ黒のスーツに、鮮やかすぎるピンクのシャツ。
腕にはギラギラとロレックスが光っている。
とても二十二、三才には見えない風貌だ。
保彦は保彦で、アーミー服に、黒のムダにテカテカと光る黒の革ジャン。左手首にはぶっといゴールドのブレスレッドにべっ甲柄のサングラス。
少しは二人とも場所をわきまえろよ、と思いながらも、すごく嬉しかった。
二人の顔を見て本当にホッとした気持ちになった。
「哲、お疲れ。起訴かぁ。保釈するにしても身柄引き受け人がいるわなぁ」
「哲のところのおじさんやおばさんに、今回のこと連絡した?」
「いつからここにおるんや?」
二人も僕に聞きたいことは山ほどあるであろう。僕も伝えたいことや、聞きたいことが山ほどある。しかし、限られた時間である。
両親に、特に父親にはこの事件のことを知られずに保釈できないものか?このことが僕にとっては一番重要課題であった。
家出同然で東京に来て六年、一度も実家には帰っていない。母親とは電話で話すことはあっても、父親とは話をしたことがない。
高校に入学した頃から「高校をすぐに辞めたい」という僕と、「大学まで行け」という父親。「普通の就職や普通の生活になんの魅力も感じない」という僕と、「普通が一番、普通の暮らしのなにが悪い」という父親。僕と父親の間がギクシャクしていた。まともに口をきくことさえなくなっていた。
「普通」という言葉が僕は大嫌いだった。
父親からすれば、お前の言う「普通じゃない生活」というのは、こうして逮捕されることなのか?拘置所の檻の中で泣きべそかくようなことをしたくて家を出たのか?という話になるのではないかと思った。心配性な父親を悲しませたくない。しかも六年ぶりに顔を合わせるのが、東京拘置所の檻の中というのはなんとしても避けたい。二人にその話をした。
「結婚でもしてれば奥さんでもええんやろうけど、柄受けは親族がベストやろうしなぁ」
「保釈金や弁護士のこともあるし、哲の親父さんに言わずにってのは難しいやろ?」
二人はそんな話をしながら、「哲也が言いたくないなら、俺らで哲也の実家に行って親父さんに会うか?こんな話を親父さんに伝えにいくのは、俺らも嫌やなぁ。どんな顔して行けばええんや」と話し込んでいた。
ガキの頃から僕の両親とも顔を合わせている二人だ。申し訳ない気持ちいっぱいで、僕は彼らを見ていた。
僕は房に戻ると、刑期評論家の年輩のヤクザに父親のことと、今帰っていった友人二人のことを話した。
「少しは友達の顔を見て落ち着いたかい?だけど、おまえは親にも周りの人間にも愛されて育ったんだなぁ」
僕の顔を見ながら、しんみりとした顔で年輩のヤクザは呟いた。彼の経験上、親から愛されて育った悪ガキは一線を越えないという。どこか大事なところで、ここから先は、というところで親の顔が浮かんでブレーキがかかるというのだ。
「暴走族のガキどもや、不良少年がみんなヤクザにはならないだろう?ヤクザまでいっちゃうのはごく一部だよ。そのごく一部のヤクザになった奴でも十年、二十年やれる奴はもっと少ない。大半は消えていくよ。
育った環境ってのは大きいんだよ。親の愛情ってのは、形として目に見えるわけじゃないが、身体の中にしっかり根を張るように宿るんだろうなぁ。まぁ、俺は親の顔なんて知らずに育ったんだけどな。ナハナハッ!」
僕に、まともないい話をして照れくさいのか、年輩ヤクザは耳から肩の上に思いっきり手のひらを激しく上下させ、せんだみつおのモノマネをした。僕にモノマネを見せたことを後悔しているのか、にこりともせずに真顔で僕の視線をそらした。
「安心しろ。お前の親父さんもいきなり五十才を過ぎたわけじゃない。十代、二十代、三十代と男の人生を歩んできたわけだ。当然、今のお前ぐらいの年齢もあったわけだしな。わかってくれるさ。いい機会じゃねぇか?仲直りをするいいタイミングだよ」
今度は、せんだみつおのモノマネをしなかった。鼻から耳たぶを繋ぐように長い刀傷のある、顔だけで十分恐喝ができるイカツイ顔の年輩のヤクザが凄くいい人に見えた。
「ああ、それとな。お前の刑期は懲役十ヶ月、執行猶予三年くらいだろう。初犯だということと、おまえとこれから仲直りするであろう親父さんがくれている、おまえへの愛に懲役一年のところを二ヶ月刻んでみたよ。言ってみればサービスだな。サービスしといたよ」
僕を見て、刑期評論家の年輩のヤクザは黄色い歯を見せて、ニカッと笑った。
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