第16話

 この頃の僕は、朝十時~夕方五時までボッタクリヘルスで働き、そのまま自転車でボロアパートに戻り電話線を差し込んでビデオ屋を開けていた。

アパートは一階に四部屋、二階に四つ部屋があった。二階に登っていく階段の手前には、鍵もついてないクリーム色の塗装が錆で剥げかかった郵便受けがある。

絶対に触りたくないような赤茶けた錆でボロボロの手すりと、焦げ茶色に錆び付いた鉄板剥き出しの階段を登ると、靴を脱ぐスペースがある。正面突き当たりに一部屋、そして、僕の部屋の並びに三つ部屋があった。おそらく二階に住んでいるのは僕一人だ。

部屋には試写用のテレビ二台、ソファーベット、スチール製の本棚が二台。そこに仕入れた裏ビデオを並べていた。冷蔵庫もない。もちろんエアコンなどあるはずもない。夕刊紙に『ビデオ 二本一万円』と広告を出していた。西新宿から二本五千円で仕入れたものを一万円で販売していたのである。

僕はここを住居も兼ねていたので、寝るときは電話線を抜き、ビデオの営業を始める時は電話線を差すことにしていた。電話線を差したままだと、時間に関係なく電話が鳴ってしまうからだ。

歌舞伎町の中は、昼間でも引き屋がウロウロしている。昼間なので、ボッタクリバーは営業していないのでボッタクリヘルスに客を入れるのだ。

いくら景気が良くて人の流れがあっても、稼げない引き屋はいくらでもいるものだ。そんな引き屋に、僕は「夕方六時から裏ビデオ一本五千円で卸しますよ」と声を掛けていたのだ。歌舞伎町の中の定価は一本一万五千円、二本セットで二万円である。飲み屋やヘルスになかなか客を入れられない引き屋にしたらとても楽な仕事だ。ビデオ屋から出てきた客に

「お探しのビデオなかったですか?うちは一本一万円でご用意できますよ」と声を掛けるだけである。「品物は間違いない」とそこだけ念を押せば、客からしたら欲しい作品は一本だけという人も結構多い。

引き屋も騙して客を捕まえるわけではないのでビデオを売ってから逃げ隠れする必要もない。僕に注文の電話を入れれば自転車で十分もかからずにビデオが届く仕組みだ。

引き屋にしたら、一本売れば五千円の儲け。二本売れれば一万円の儲けである。だいたい売れ筋がわかるので、その作品だけを僕からまとめて買う引き屋も出てきた。

だんだん仕入れのコツも解ってきてオレンジ通信とかのビデオ雑誌の特AとかAとランク付けされた作品を仕入れていれば大丈夫だった。資金的にも余裕がなくマニアックな作品は用意できなかった。



 ある春の夕暮れ、強かった日差しは影を落とし冷たい風が吹いている中、僕はビデオをよく売ってくれている引き屋五人と、帰る準備をしながら店の近くで立ち話をしていた。もうしっかり歌舞伎町の住人のようである。

しかし、このあと歌舞伎町のルールをきっちりと教え込まれることになる。

夕刊紙を見て電話してくる客より歌舞伎町からの注文のほうが早い。「今日もバンバン売ってくださいね!」みたいな話をしていた時だ。前方から僕が勤めている、ボッタクリヘルスの店のオーナーの藤間さんが歩いてきた。

この人の実兄二人は違う街でヤクザをしている。色落ちした水色のジージャンのデニムの上下。白のTシャツにプラチナのネックレス。茶髪のサラサラヘアーに日焼けした肌。

三十代半ばくらいの、ボッタクリヘルスの社長には見えない風貌だ。

パンチパーマにロレックス、喜平の金のブレスレッドの三点セットがこの街で大流行している時に、藤間さんはコルムという高級腕時計をしていた。ボクシングジムにも通っていて、華奢だがマッチョだ。暑い季節の時には冗談を言いながらTシャツをめくって、割れた腹筋を良く見せてもらったものだ。

いつもは夜の十時過ぎくらいに売上を取りに来るぐらいで、夕方に帰る僕と顔を合わせることはほとんどなかった。

「おはようございます!今日は早いですね」

僕は、引き屋達との立ち話を中断させて藤間さんに駆け寄り、いつものように挨拶をした。

「お疲れさん。瀬野、ちょっと話があるから付き合えよ」

僕の顔を見て、顎を斜め上にしゃくり上げ、なにか機嫌が悪そうな感じで歩きだした。その機嫌の悪い背中を追いかけるように僕も歩き出した。

狭い路地裏の焼き鳥屋、寿司屋、ポーカーゲーム屋を通り抜けると花道通りに出る。右側には、風林会館があり、一階には『パリジェンヌ』という喫茶店がある。

昼間はガラーンとして人もまばらなのだが、陽が傾き始める頃ともなれば、ヤクザとホステス、悪だくみに頬を緩ます、この街のグレーな住人だらけの喫茶店だ。

何度か発砲事件もあったことで有名になった店である。ニュースになっていないだけで、店内ではヤクザ同士の怒鳴り合いや、取っ組み合いの喧嘩、双方の組員何十人が店の前に集まり、怒号が飛び交う場面などには、ちょくちょく出くわしたことのある歌舞伎町のど真ん中にある広々とした喫茶店だ。

ワインレッドのソファーに深く腰掛け足を組み、藤間さんはイライラした顔で口を尖らすようにタバコをくわえ、火をつけた。

「お前、裏ビデオさばいてんだろ? 歌舞伎町のルール、知ってるよな?この野郎。タカシさんの若い衆から聞いたよ、お前が引き屋使ってビデオを売ってるのを。おい!舐めてんのか!この野郎!」

藤間さんの吐き出したタバコの煙が、僕の顔にまともにかかる。それぐらい顔を近づけて話す藤間さんの言葉が、僕の全身に突き刺ささる。

店内は満席に近く、ホールを走り回るウエイトレスの女の子も忙しそうだ。そんなざわめきの中にいるのに、僕の耳にはなにも入ってこない。僕は膝に両手を置き、顔を上げることができなくて、注文してもらったアイスコーヒーだけを見ていた。

「――すいません……」

「お前さ、パチンコの景品替えの時に懲りてねぇのか?」

藤間さんが言うパチンコの景品替えの話は、ほんの少し前の話だ。

僕がビデオ屋の店員と店の近くでいつものように立ち話をしている時だ。すぐ近くにパチンコの景品交換所がある。そこのおばちゃんは、十一時~十四時の三時間は毎日休憩を取るのだ。おばちゃんは鍵を締めて出掛けてしまう。その間、景品交換所は閉店となる。それでも、パチンコの客はそんなことは知らずにやってくる。

「なんだよぉ?交換所閉まってるじゃん」「参ったなぁ、時間ないのに」

そんなことを言いながら立ち去る客をよく見ていた。僕は、ビビビッとひらめいてしまったのだ。休憩時間の間だけ、このパチンコの景品を七掛けで買うことを。

景品には三種類あった。透明のマッチ箱みたいなものの中に金のコインが入れてあるものが一万円、サイズが少し小さくて銀のコインが入れてあるものは五千円、もっと小さい長細いシャープペンの芯ケースみたいなのは三千円である。

景品交換所が休憩時間中に来た客に、こんな風に僕は声を掛けていたのだ。

「どうでした? 今日勝てました?」

「まあまあだよ。えぇ!閉まってるの?」

「十一時~十四時まで休憩時間なんですよ。景品見せてもらっていいですか?」

僕は客から景品を見せてもらい「景品交換所で換金したら二万五千円だけど、急ぎなら僕が一万八千円で買ってもいいですよ」と、告げるのだ。次の予定があるサラリーマンとか、もう一度ここに戻ることが面倒くさいと思う客、三割も取られるなら出直すという客もいれば、二割に負けてくれという客もいる。

そんなこんなで休憩時間中に十五万円くらい客から買うときもある。三時間で四万円くらいが僕の小遣いになる。休憩が終わり、交換所のおばちゃんが戻ってきて僕が景品を差し出すと「あらっ、今日はすごいねぇ」と僕から景品を買ってくれるのだ。

僕は、雑居ビルの隙間に立て掛けてあった、ガタガタのパイプ椅子を二つを拾ってきた。そして、椅子の座面からクッションのほつれが顔を出すひとつのパイプ椅子を机に見立てて、交換所の入口で客を待つようになった。

景品交換所のおばちゃんも、「行ってきまーす」と、僕に声を掛けながら、ニコニコした顔で、鍵を掛けて出ていくのである。

今日も十万超えそうだな。今週すごいなぁ。パチンコ屋、大放出中なのかな?今日あたり、自分でも打ってみるか。そんなことを思いながら、僕が景品を触っていると、遠くから二人のヤクザが歩いてきた。

昨日降った雪が路地裏の日陰の部分には残っているが、路面は乾いている天気のいい一月の午後のことだ。この街で通りにヤクザがいることなんて特別珍しいことではない。

この頃の僕の着ている洋服は全て『赤いカードの丸井』である。もちろん分割払いだ。ピアスポーツを扱っているマルイはなぜか中野店だけだった。月末には八万円くらいマルイの支払いがある。歩いて来るひとりが着ている洋服は、僕がマルイで凄く迷って買わなかったものだ。やっぱり、あの上下いいなぁ、今度買おうかなぁ。でも支払いがまた増えるしなぁ、と思いながらぼんやりと見ていた。知り合いなら挨拶をするくらいだ。

僕自身、自分の事だとは思っていないので、テーブルに見立てたパイプ椅子に景品を並べ、数を確認していた。しかし、僕の方を睨みながら歩いて来るのだ。誰も歩いていない狭い路地裏の小路。遠くからでも、二人の視線を痛いほど感じる、違和感を覚えるほどに。

二人は僕の前で立ち止まった。

「よぉ、お前、ここでなにしてんだよ?」

パンチパーマに薄いブルーのサングラス、ピアスポーツのグレーのジャンパースーツを着た三十代後半くらいの上背のあるヤクザが、椅子に座っている僕を見下ろすように尋ねた。

「……なにもしてないです」

僕はすぐに立ち上がり、震える声で答えた。

もう一人の柔道でもやっていそうな丸坊主のガタイのいい眉毛のない男が「じゃあ、これはなんだよ?おい」と、台の上にある景品を鷲掴みにして、僕の顔にグイグイと押し付けてくる。

「なんだよって、聞いてんだよ!この野郎!おらっー!」と、言うが早いか、景品が並べてあるパイプ椅子を思いっきり蹴り上げた。

拾ってきたパイプ椅子は、いともたやすく形が変わり、客から買った景品は、バラバラとそこら中に散乱した。

「――どうもすいません!景品交換所が休憩の時だけ、交換に来た客から景品買ってました。申し訳ないです!」

僕は、ふたりのヤクザの革靴のつま先が見えるほど、深く頭を下げた。

「よお、お前、藤間社長のところで働いてる人間だろ?このこと社長は知ってんのかよ?」

思いっきり頭を下げている僕の頭の上で、ヤクザの声が聞こえる。

「いいえ、社長は知らないです」

蹴り上げられ、飛び散った景品が、僕の足元に広がる。

「今すぐやめろよ、この野郎!この椅子もすぐかたづけろ。いいな、もう二度とするんじゃねぇぞ!」

僕の中では、時間のない客に景品の本当の金額を伝え、手数料も三割取るけどそれでもいいか?と、確認を取っているので、悪いことをしているという意識は全然なかった。

客も助かるし、僕も儲かる。

だが、これは僕がする仕事ではなかった。してはいけないことだったのだ。殴られなくて済んだのは、藤間さんの店で働いていたからであろう。

この街のルールと、どこかで繋がっている人間関係。そこで生まれてくる金と恩義の貸し借り。この街で初めてボッタクリで働き始めた頃の、日給一万円で喜んでいる僕ではもうなくなっていたのだ。



 喫茶店の入口付近に僕達は座っていた。僕は入口の大きな観葉植物が二つ並ぶ自動ドアに背を向ける格好だ。入ってくる人間は、藤間さんには見える。顔見知りのヤクザやホステスも多い。藤間さんは、僕に話をしながら、入口を見てニヤッと笑って手を軽く振ったり、黙礼したりしていた。

「いいか?裏ビデオとかパチンコの景品買いとかって、この街でお前がさわるシノギじゃねぇんだよ。そんなシノギをしたいなら、いくらでもヤクザ紹介してやるぞ。お前、俺の兄貴達がヤクザやってんのって知ってるよな? 俺は兄貴達を見てて無理だと思ったんだよ。プロは無理だなって。お前、プロになるか?」

僕はうつむいたまま黙っていた。

「――ったく。瀬野さぁ、俺が頭下げに行くときは、タダじゃねぇんだぞ。しっかし、お前も次から次によくやるよなぁ。いいか?もう次は知らねぇからな。裏ビデオさわるなら歌舞伎町の外でやれ。いいな。この街を舐めんじゃねぇぞ、この野郎!」

藤間さんは伝票を持ち、隣の席の人に笑いながら声をかけ、挨拶するようして出ていった。

やっと店内のざわめきが耳に入るようになってきた。

店内には、BaBeの『I Don't Know!』が流れていた。二人組の女の子が歌う大好きな曲のひとつだ。普段なら体でリズムをとり口ずさむその歌も、今の僕の前では素通りをしてしまう。

ふぅーと、ひとつ息を吐きながら、ゆっくりとポケットの中のタバコを探した。

また藤間さんに迷惑をかけてしまった。

うまく言葉にはできないが、この街のことが、やっとわかってきたような気がした。 



 僕の目の前には、ストローさえ挿していないアイスコーヒーがある。グラスが今の僕みたいに、いっぱい汗をかいているような、水滴だらけのアイスコーヒーだ。

その中で、氷が溶けて水とコーヒーが綺麗に分離していた。

ひとつのグラスの中で、白と黒にはっきり分かれている。

ひとつの街の中に二つの世界がある。

僕はなぜか、本当の歌舞伎町の住人になれたような気がした。





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