第13話

 1986年くらいから日本中がバブル景気に沸いていた。バブル崩壊と言われたのが1991年くらいである。ただ、歌舞伎町に関していえば、2005年くらいまでバブルの余韻が残っていたと思う。

アングラな世界しか知らないので、それがバブルの余韻かどうかはわからないのだが、手を変え品を変えでアングラ業界はその後も活気があった。

一番大きく変わったのは、2004年から始まった石原慎太郎都知事の歌舞伎町浄化作戦だ。これで多くの友達や仲間が歌舞伎町から去って行った。

グレーゾーンで生きている連中には生きづらい街になってきたのだ。

政治家・後藤田正晴が言った「正方形の真ん中に大きく円を書いた四隅」の隙間に法律の網が被さってきたのだ。

1990年代の歌舞伎町は無法地帯だった。

誰でも一攫千金が実現しそうな空気があった。なにかにつまづいて、ひっくりかえった人間でも逆転できる空気があった。

「あいつは死んだよ(金に詰まった)」とか「〇〇さんも、もうコジキだよな」と、噂好きな歌舞伎町の住人達が、真顔で言う「あいつ」と呼ばれていた人や「コジキだろ」と笑われていた人が、金無垢のロレックスを腕に巻きバカでかいピカピカのベンツに乗って復活してきた先輩を、何人も僕は見ている。

この街に初めて来たときに感じた、歌舞伎町ドリームが肌感覚として僕の中にしっかりと残っている。

チャンスがあれば、ちょっとしたきっかけさえあれば、現状なんていつでも引っくり返せるんだ、という強い気持ちが培われたのは、間違いなくこの頃の歌舞伎町があるからだ。

それは白髪頭の五十歳を過ぎても、なんら変わりはしないのである。




 『米田屋』で僕は少し遅い昼飯を食べていた。コマ劇場の裏の通りに『アマンド』という、スゥイーツ・洋菓子の店があった。その裏手の細い路地の中にある定食屋である。歌舞伎町に遊びに来ているだけの人には見つけにくい場所にある店だ。

L字のカウンター席だけの店で、座席は入ってすぐの左のカウンターに三人、縦に六人くらい座れる椅子がある。白衣を着た初老の店主が優しい声で迎えてくれる、こじんまりした僕のお気に入りの店である。

カウンターのガラスでできたショウケースの中には、コロッケや肉じゃが、ほうれん草の胡麻和え、ポテトサラダなどの美味しそうな惣菜がトレーに盛られ、きれいに並べられている。そこで僕は、サバの塩焼き定食にメンチカツを一品、とかを注文するのである。

 「おう、瀬野ちゃん、昼飯?」

この頃には、「おはよー」とか「おつかれー」と、言葉を交わす引き屋の知り合いが多くなっていた。昼、夜問わず、毎日歌舞伎町で会うのでお互い、よく見る顔だなぁと思えば自然に同業者だと分かり、自然に誰の店の人間かがわかるのである。

ボッタクリだと営業停止になったり名義人が変わったりで店名がコロコロとよく変わる。それに、やばくなると歌舞伎町内でさえも引越しをしてしまう。

ボッタクリの店は店名ではなく、社長の名前が屋号みたいなものであったが、その名前が本名かどうかは定かではない。

「おはよう、コンちゃん。あんま食事を取る時間が決まってなくてね」

引き屋のコンちゃんが、ごはんを食べに来た。

この店は歌舞伎町の住人しか来ることはない。

「瀬野ちゃんってさぁ、島ちゃんの店にいたでしょう?」

コンちゃんは、注文した生姜焼き定食を頬張りながら僕に聞いてきた。

島さんは僕が入店した頃から、毎日夜の十二時までに十五万円の支払いがあると聞いていた。

毎日夜の十二時までに十五万の支払いである。

それだけでも、月に四百五十万円の支払いだ。その支払いをして、大学生の彼女に車を買ってやり、運転が下手な彼女の車の修理にやれ、十万かかった、二十万かかったと嘆いていた。着ている洋服もいつもいいものばかりだ。

これは島さんに限った話ではない。

夜の十二時迄に十万円くらいの支払いのある引き屋なんて、特別珍しいものでもなかった。だいたいが、十日で一割。俗に言うトイチである。

金額が、百万、二百万円となってくると月一割とか月二割とかである。

その日の夜の十二時までに金ができなかった人たちには、『明け五分』という金貸しもいた。例えば夜の十二時までに七万円の支払いがあるところを、四万円しかできなかった。そんな場合は、残りの三万円を、明け五分でこの金貸しから借りるのだ。

借りた人間は、夜明けまで(朝六時迄)に三万千五百円で返すのである。

深夜十二時~翌朝六時までに三万千五百円を作るのだ。それでも、二、三人連れの客を一組決めれば、できてしまう金額ではある。

こんなハードな支払いをしている者でも、ポーカーで負けただの競馬で勝っただのという話で盛り上がっている。

ある組織の人間は、十坪たらずの土地の話に関わって一時間くらいで二千万万円になったという。時給二千万の仕事をしたことがある、と酒が入るとよく聞かされた。

派手に稼いで派手に使う。

また明日稼げばいいや、という誰も気がついていないバブルの中にいたのだ。

島さんの店では、だんだん日払いの給料が遅れ出してきた。

本当は、僕なら一万五千円貰える給料が五千円しかもらえず残りは待ってくれ、みたいな感じである。女の子たちも島ちゃんならしょうがないか?という人柄なのか、人望なのか給料がもらえてなくても誰も文句を言わず、毎日休まずに出勤していた。

しかし、その日は突然来た。閉店である。

坂口さんの話によれば、昼間にヤクザ三人に小突かれながら、さくら通りで島さんが車に乗せられるのを見た人間がいたのだという。

島さんはそれっきり歌舞伎町に現れなくなった。金に詰まったのだろう。

この街の新陳代謝は早い。

去る者も多いが、新たに入ってくる者も多い。

この繰り返しで、さして歌舞伎の村の人口密度は変わらないのだ。

この街での金は血液みたいなものだ。一般社会でも同じだと思うが歌舞伎町では即、死を意味する。なぜなら、歌舞伎町で金を稼ぐという行為が許されなくなるからだ。金に詰まるとこの街には入って来られなくなる。

街角に立つことさえ許されなくなるのだ。

――飛んで消えるか、消されて消えるか。

一文無しでこの街に来て、一文無しでこの街を去る。

アングラな世界ではよくある話だ。

「ええ、いました!いました。面白い人でしたよ、島さん。それより、コンちゃん、ビデオの客いたらお願いしますね!」


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