第12話

 「――ヤクザだよ」

中であくびをしながら時計を見ていた坂口さんと、立ち上がって背伸びを思いっきりしていた店長は「へ?」と、あっけにとられた感じであった。

坂口さんは、「はぁ?ヤクザもん?またなんで?」と、リストから顔を出し、二人の客の顔を見て名刺を見直してと、二度見したほどである。

僕も初めての展開だ。なぜなら、引き屋がヤクザにバンを掛ける(声を掛ける)ことは絶対にないからだ。

声をかけようものなら、「誰に声を掛けているんだっ!なめてんのか!コノヤロー」!と、その場でボコボコにされるのがオチである。

ヤクザからすると、なめんじゃねぇぞ!みたいなかんじだ。引き屋は、ヤクザには絶対声を掛けることはない。

街の通りでずっと流れる人を見ていると、トッポイかんじのお兄ちゃんとヤクザでは、その人間の持っている匂いや雰囲気、顔つきで見分けがついてくるものなのだ。

僕でも例えば、紺のスーツにビジネスバック、髪は七三に整えられた公務員みたいな真面目に見える外見でも、どこか胡散臭い奴だな、なんの仕事しているんだろう?と感じることがある。無意識に人間観察をしているのだ。

「――しょうがねぇなぁ、ったく」

ボソッと呟きながら、女の子から名刺を店長は受け取った。淡いグレーのワイシャツに黒のスラックス。

淡いピンクのネクタイは、少し余裕をもたせて首元までしっかりとは、絞められていない。百七十センチはないくらいの、痩せこけた不健康そうな顔色の悪い店長である。

隙のない角刈りはいつも通りだ。

明細の書いてあるバインダーを片手に、フラフラと二人が座っているテーブルに歩いて行った。席についていた女の子たちは、席から離れて遠巻きに見ている。

女の子が座っていた背もたれのない、ワインレッドの丸椅子に店長はゆっくりと腰を下ろした。心配そうな困った顔で、坂口さんは店長の後ろに立っている。



 「お客さん、どっちの人だい?この名刺をきったのは?」

二人の顔をじーっと見ながら、ゆっくりと店長が尋ねた。パンチパーマのほうが先輩のようだ。

「俺だよ。なんか文句あんのかよ?」

パンチパーマの少年は腕組みをしたまま、ふんぞり返るようにして、まだニヤニヤしている。リーゼントの剃り込み少年は、体重を前にかけるように、まえかがみになり、空のグラスをぎゅっと握りしめたまま、坂口さんのほうをジッと睨みつけている。息をのむ女の子たちの不安の色が店内を包む。

静かに音楽は流れている。

「――おまえのところの親分は、六万七千二百円か?」

店長は、中腰のような姿勢で身を乗り出し、会計用のバインダーでふんぞり返っているパンチパーマの少年の頭をペシッと叩いた。

パンチパーマの少年はキョトンとしている。

リーゼントの剃り込みの少年は、あっけにとられた顔で、目を丸くして店長を見ている。

「おまえのところの親分は、六万七千二百円なのかって聞いてるんだよ!おぅ!」

低い声で、パンチパーマの少年を睨みつけながら店長がつぶやく。

「おい、おっさん、舐めてんのか、この野郎!うちのオヤジが六万七千二百円だと!おぉ!」

「じゃあ、これはなんだよ?この請求書に、なんで親分の名前をはっつけてくるんだよ!おまえ、そば屋に入って金払うときも親分の名前出してんのか?」

隙あらば、喉元に噛みつき引きづり回す野良犬の目に変わっている店長がいる。

「ふざけんなよ、おっさん!ボッタクリだろ?この店!金なんか払うわけねーだろ!なめんなよ!この野郎!」

パンチパーマが大声を張り上げた瞬間に、リーゼントの少年が立ち上がった。

「ボッタクリだぁ?おまえ、六万七千二百円、全額しっかり払ってからボッタクリだと言え!この野郎!おまえらから貰ったのは、たったの五千円だ!」

おもむろに店長は立ち上がり、また会計用のバインダーで今度はリーゼントの少年の頭をペシッと叩いた。座っとけ!この野郎!と言わんばかりに。

「いいかい、お兄ちゃん。カタギの店に遊びに来て、組の名前を出すことがどんなに恥ずかしいことかわかるか?お前と俺たちは、住んでる世界が違うんだよ。

持ち合わせの金が無いんなら、こんな名刺なんか出さずに金がない相談を、なぜ俺にしてこない? 名刺を出す相手が違うんだよ。全額綺麗に払ってから、うちのケツを呼んでヤクザの話をするのがスジだろうが?違うか?おまえ、やくざもんなんだろ?」

パンチパーマは黙ってしまった。

リーゼントの少年は、力なくソファに腰を落とした。

店長はバインダーに差し込まれた名刺をパンチパーマに返した。

「組の兄貴に、帰ってこのことを伝えてみろ。六万七千二百円の飲み屋の料金に組の名前を出したことを。それで、俺にこんな説教をされたことを。文句があるならいつでも連絡してこい。俺は、『プリティー&キュート ラブリー!スィート!ヘイ!ハニー! エンジェルクラブ』の八木沢だ!」



 そのまま、この少年二人から追加料金を貰うことなく帰した。心配そうに見ていた女の子たちも安心したように一日の精算を終えて帰っていった。

「おつかれーミエちゃん、リンちゃん、また明日頼むね!遅刻するなよ~」

女の子達も全員帰った頃だ。

「しっかし、ヤクザもんに見えなかったよなぁ。あれがヤクザに見えたら田舎のヤンキー、みんなヤクザだよな」

坂口さんは、店にある瓶ビールをグラスに注ぎながらつぶやいた。

「だから、タケちゃんもバンかけた(声をかけた)んだろうな。ありゃあ、やくざもんに見えねぇもんな」」

店長も帰り支度をしながらそう話していた。

そんな時、店の鳴らないはずのピンク電話が鳴った。この電話が鳴るのは新宿警察か歌舞伎町の交番からだけである。島さんや、僕達従業員が使う電話は、リストの中にある黒い電話だ。

「――もしもし」

僕が電話に出た。店長も坂口さんも帰り支度の手を止めて、僕を見ている。

「おい!責任者出せ!この野郎!おおおっ!こらっー!」

受話器からあふれんばかりの大音量だ。僕はドギマギしながら、店長に慌てて受話器を渡した。さっきのパンチパーマの少年達の組の人間からだ。

「――責任者の八木沢だ」

ガッガッガッガッと、僕たちにも聞こえてくるくらいのバカでかい相手の声が、店長の持つ受話器から割れ漏れる。相手のあまりの声のデカさに店長は顔をしかめ、受話器を耳から離した。そして、マイクみたいに受話器を縦に持ち直し、話をする部分に口を近づけて大声で怒鳴り返した。

「ふざけんじゃねぇぞ!逃げも隠れもしねぇよ、この野郎!歌舞伎町のど真ん中で待っててやるよ!さっさと来いよ!おおっ!こらっ!プリティー&キュート ラブリー!スィート!ヘイ!ハニー! エンジェルクラブの八木沢だ、この野郎!」

受話器を叩きつけるように店長は電話を切った。切ったらすぐにまた、凄い音を立てて稲妻が走るように電話が鳴り始めた。

「やばいよ!やばいって!店長!島さん探してくる!」

坂口さんのあんな俊敏な動きは見たことが無かった。坂口さんの全力疾走の姿など、想像もできやしない。そればかりか、『走る』という行為すら一生彼にはできないものだとばかり、僕は思っていた。

坂口さんは店長に叫ぶようにそう告げると、勢いよくドアを開けた。地下にある店から百キロ以上の巨体を揺らして、ドスンッ!ドスン!ドスンッ! と地響きを立てるかのように階段を走り登る。

何とも言えないにぶい音が、より緊迫感を増長させる。

「この野郎!上等だぁ!だから来いって言ってんだろ!喧嘩もなにも、あたりまえの話をしただけだろうが!ふざけんなよ!さっさと来いよ、この野郎!プリティー&キュート ラブリー!スィート!ヘイ!ハニ―! エンジェルクラブの八木沢だ!」

店長は受話器を叩きつけ、鼻から重く熱い息を吐きだしピンク電話を睨みつけている。普段は青白いその顔は、耳までもが真っ赤だ。

営業後の店内だ、音楽は消してある。エアコンのウィーンという音が聞き取れるくらい静かだ。つぎはぎだらけで呼吸をするような、重苦しい空気を吸い込むレンジフードの無神経な重低音が、やけに耳障りだ。

シーンとした静寂の中で、僕の心臓の音が店長に聞こえるんじゃないか、というほどバクバクと音を鳴らし、そのスピードを上げる。

「――クソガキがぁ……ぬぁぁぁ」

コメカミに野太い血管が浮き上がり、歯と歯を噛み合わせた状態で振り絞るような、声にならない声で店長はピンク電話に向かって唸っている。もはや野良犬ではなく、怒りで毛が逆立ち、鋭い牙で相手を一気にかみ殺してしまう、狂った狼の目に変わっている店長がいる。

また電話が鳴り始めた。

僕たちを、激しく恫喝するかのような鋭く尖った音で鳴り響いている。

チッ、と舌打ちしながら店長が電話に出ようと受話器に手を伸ばすと、その電話は取る前にきれた。

しばらくして、トン、トン、トン、と誰かが階段を降りてくる足音がした。

僕はフッと息を飲み、ビクンッと体が上下に揺れた。身体中に一斉に電流が走り、思わず背筋がピンと立つ。汗ばんだ手のひらで、拳を強く握りしめればしめるほど、恐怖で全身がロープでグルグル巻きにされたみたいに動けなくなってくる。呼吸のリズムが不規則になり、息を吸い込み、息を吐く、という作業に手間がかかってしまうほど、体中が緊張している。

僕の目の前にいる店長の体は小刻みに震えている。深く寄せた眉間のしわは、怒りの汗でギラギラと光っていた。瞬きひとつしない、その血走った眼は、どんな分厚い鉄板でさえも射貫いてしまうような、鋭い眼光でドアを睨みつけている。



 

 島さんの甲高い独特な笑い声が聞こえてきた。坂口さんの、鼻を鳴らす癖のある笑い声も聞こえてきた。ドアが開いた。

僕は、全身から力という力、すべてが抜け落ちた。ただただ、茫然と二人を見たままカウンターの中に突っ立っていた。

店長の肩が、大きく波打つように動いた。

やはり店長も、全身の力が抜けたみたいだ。

店長の怒りでゆがんでいた顔の筋肉がほどけ、口元が少しあがった。

首を天井に持ち上げ、ふぅーと大きく頬をふくらまし、ゆっくりと天井に向かって深く息を吐いた。

「八木沢ちゃーん!ブチキレちゃったんだって?金澤さんのところに電話入れたからもう大丈夫だ。しっかし、お客様の頭をペシペシするのは、いかんぞ!いかんぞぉー 八木沢君!」

なぜか、島さんは上機嫌だ。

グレーのアディダスのジャージに白のウインドブレーカー。今日は爽やかないでたちである。

「坂口から聞いたよ。ボンクラ共に、モノの道理を教えてやったんだろ? 痛快だよ!痛快!いいよぉ!八木沢君!」

よくやった!よくやった!と褒め称えるように、べたべたと店長の体に触れる島さんがいる。

「いいこと言いやがんな!八木沢ぁ!その通りだよ!って、島さん、嬉しそうでしたもんね!」

坂口さんも安堵からか、汗でテカテカと光る、肉まんのような顔から笑みが絶えない。 

「あのガキ共の、たかが名刺一枚で余裕ぶっこいたツラ見てたら、我慢できなくなっちゃってな」

店長は、狂った狼から野良犬に戻り、恥ずかしそうに言った。

「昔、ヤクザやってた人間ならそう思うわなぁ。ところで坂口よぉ、お前走れるんだな。こいつさぁ、すげぇ顔して俺のところまでダッシュして来るんだぜ。変な走り方してよぉ。転がるほうが、はぇーんじゃねぇか?

今、俺が着ているジャージやるから明日から走れ!その醜い着ぐるみを脱げ!脱皮しろ!」

島さんの、手足をバタつかせた坂口さんの妙な走り方をマネた姿に、みんな大笑いした。そんな時、ネクタイを少しゆるめた店長が、タバコの煙を大きくはき出しながら言った。

「島ちゃんよぉ。『プリティー&キュート ラブリー!スィート!ヘイ!ハニー! エンジェルクラブ』って店の名前変えてくんねぇかな?」  

「ん?なんでだぁ?」

笑っていた島さんは、驚いた顔で店長に聞き返した。

「『プリティー&キュート ラブリー!スィート!ヘイ!ハニー! エンジェルクラブの八木沢だ』って言い過ぎて顎が疲れたよ。店の名前がなげぇんだよ。

だいたい、『ヘイ!』」って、なにが『ヘイ!』なんだよ。いらねぇだろ、ヘイなんて」

「コノヤロー!『ヘイ!』は、景気付けだよ!合いの手みたいなもんなんだよ。絶対『ヘイ』は外さねぇからな!」

店長と島さんのやりとりに、みんなで大笑いしていた。

「瀬野ぉ、びびったろぉ?しょんべんチビってねぇだろうな」

島さんはタバコに火をつけながら、カウンターの中にいる僕に向かって笑った。

「びびったなんてもんじゃないですよ。島さんたちの足音にマジで泣きそうになりましたよ。怖かったです、ホント怖かったです」

そう言いながら僕も笑った。



 外は明るくなっていた。水墨画のような、群青の青の濃淡が織りなす空が一面にひろがる。数えきれないくらいの、さまざま色が重なり合ってできる梅雨空。

この街が飲み込んでいる、さまざまな色の人々の数くらいに。


昨晩から降っていた雨は止んでいるのに、雨の匂いがした。濡れた路面をなぞるように湿気を含んだ柔らかい風が僕達を覆う。歌舞伎町の夜明けには、ゴミとカラスと太ったネズミがよく似合う。

「タケ(引き屋)の野郎、ヤクザもんなんかうちによこしやがって。あいつの今日のバック分の五千円はナシだな。あいつの五千円で『大阪屋』のお好み焼きでも食って帰るか!」

上機嫌の島さんが、両腕をぐるぐると振り回し、クロールをする仕草で大阪屋のほうへ泳ぐように歩きだした。

「いいですね!あそこの豚玉うまいんですよ!ソース焼きそばもいいなぁ!腹減ったあ!」

島さんを先頭に、この街を泳ぐように三人が歩き出す。

坂口さんの、はしゃいだ声に、「だ・か・ら・おまえは、太るんだよ!おまえは水だけ飲んどけ!」と、みんなで大笑いした。


人っ子ひとり、誰もいない。

雨上がりの朝焼けの歌舞伎町。

ゴミをあさる黒々としたのカラスの群れの、大袈裟に相手を威嚇するような下品な鳴き声が街中に響く。

それが、この街の朝のBGMだ。

肩を揺らして笑う三人の後ろを、僕も笑いながらついて行った。







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