第11話

 暑い、寒いならまだ許せる。許せるというか、あきらめがつく。乾かない汗に全身がコーティングされる六月。一番苦手な蒸し暑い六月。深夜の三時過ぎくらいのことだ。外から坂口さんが帰ってきた。

この人は、ほぼ店内にいることなく店の前あたりの路上で、引き屋や島さんたちと立ち話をしている。客と揉める会計のときにだけ店に来るのだ。

天気が悪いときは店の中にいることが多い。リストと呼ばれる小部屋の中で、店長とカレンダーを見ながら話をしていた。

「暑いなぁ、暑い。雨降ってきましたよ、店長!」

そう言いながら、汗びっしょりの坂口さんが入ってきた。百七十センチ足らずの身長で、百キロは余裕である。全身ほぼ脂肪で、運動神経もゼロ。食っちゃ寝、食っちゃ寝を地でいっているような人だ。

白と黒のストライプのワイシャツはピチピチで、首が苦しい、と最近はネクタイさえしていない。三畳くらいのリストの中にもエアコンは効いているのだが、坂口さんが入ると一気に湿度も温度も上がる気がする。

「雨かぁ、時間も時間だしなぁ。島ちゃんなんか言ってたか?」

店長は、足を組みながら坂口さんの方にクルッと椅子を回転させた。

「四時くらいまで様子みるような事を言ってましたよ。ところで、さっき本日二回目の『後楽』の三色定食、食っちゃいましたよ」

コマ劇場の前に『後楽そば』という立ち食いそば屋があった。僕もこの店のラーメンが大好きでよく食べていた。オーソドックスな中華そばだ。この店の『三色定食』というのは、焼きそば、かやくごはん、温かいうどんかそばのオール炭水化物の定食である。この三つの組み合わせの定食に最初は驚いたものだ。定食というより、店にあるものをまとめて出しているだけだ。

坂口さんがこの部屋に入ると、酸素さえ薄くなるような気がする。

「こんな時間に食ったら、太るぞ。だいたい三色定食の一つで腹膨れそうなもんだろう?三つも食って、それを二回じゃ六食、食うようなもんだろ。言ってみれば二日分だよ、二日分。なんでそんなに食えるんだよ。サイコーだな。サイコーだよ、おまえ」

サイコーという言葉を使うところが違うんじゃないか?と、僕は笑ってしまう。

青白い、頬のこけた不健康そうな店長がタバコを吸いながら「ホント、サイコーだよ、サイコー」と、心のこもっていない声のトーンで、ぶっきら棒に繰り返す。

僕の横でふぅふぅ言いながら、吹き上がる汗を拭っている坂口さんも、なぜか誇らしげだ。彼の、つまみたくなるような突き出た腹を見ていると、本当は妊娠でもしてるんじゃないか? と思うほどだ。そんな坂口さんと店長のやりとりを聞きながら、僕が笑っていたときだ。

トントンと階段から人の足音が聞こえてきた。

「二名様ね!こんな時間だから大サービスだよ!一人、二千五百円!二人で五千円でいいよ。始発まで時間潰していってね!」

引き屋の元気な声と一緒に小窓から五千円が入れられてきた。金を持っていないことを引き屋も確認しているのであろう、店内で使う金がゼロでも五千円は引き屋のものになる。「すげぇ割引してきたな」と店長がにやつく。

僕は、慌ててリストから出て二人の客を奥のテーブルに案内した。

二十才前後の若い二人連れだ。

一人はパンチパーマ、一人は茶髪のリーゼントに剃り込み。カップルじゃあるまいし、一人は白のスラックスに赤と白のボーダーのニットシャツ。もう一人は緑と白のボーダーのペアルックだ。

まぁ、田舎のヤンキーか暴走族の少年みたいなかんじである。

「あー涼しい!気持ちいいっ!」と声をあげながら、偉そうに肩をゆすり、わざとらしくガニ股で歩き、冷たいおしぼりを顔にあてて席についた。

客を席に案内したあと、リストにいる店長に客の見た目や雰囲気を伝えるのも僕の仕事である。もう今日は客なんて来ないだろうと、たかをくくって寝ていた女の子たちを起こし、席につけた。

「田舎のヤンキーみたいなかんじですね。若いし、金は無さそうですよ」

僕は、リストにいる店長と坂口さんに伝えた。

「だろうな。今、客を連れてきたタケちゃん(引き屋)も金持ってないから半額にしたようなこと言ってたしな。こんな時間にコジキなんか入れてゴメンね、って謝ってたよ。まぁ、今日はこいつらで終わりだな」

坂口さんは、まだ誇らしげにおしぼりで額の汗をふいている。




 「―――どうせ、金なんか持ってねぇだろうなぁ」

くわえタバコの店長は電卓を叩きながら、会計の準備をしていた。汗のひいた坂口さんは風俗情報誌を見ながら、今の風俗の状況とお薦めの店を僕に一生懸命説明していた。この会計というのはメニューにある料金はそのままなのだが、店長の判断で客が注文した料理の数や女の子に飲ませたドリンク等が全然ないと客に請求する料金の数字ができない。

そんな時はテーブルチャージが一万になったり、二万になったり、チャームと呼ばれるお通しが一万になったり二万になったりするのである。それでも数字ができないと、サービス料が50%になったり、70%になったりと滅茶苦茶である。

僕も小鉢に入った、ひからびたカマボコ二枚で一万円には最初驚いたものだが、すぐに慣れてしまった。客は、なにも注文しなければ入口で払った飲み放題料金以外、一切かからないと説明されてやって来る。

「こんなもんだろうなぁ、どうせねぇだろし」

店長は、小さなバインダーに挟まれた明細に料金を書き込み、はしきれを切って僕に渡した。二人で六万七千二百円である。

僕はその会計の紙を持って、接客中の女の子に「お時間になります。宜しくお願いします」と、片膝をついて請求書を女の子に手渡してカウンターに戻った。



 「時間来ちゃったみたい。今日はありがとうございました」

女の子は、僕から渡されたメモ紙のような請求書を客に渡した。

L字テーブルの真ん中に女の子がひとり。反対側のソファに客が二人。二人の客の間にひとり、女の子が座っている状態だ。今まで笑い声が絶えなかった空間が一気に静かになった。

その請求書をニヤニヤしながら、大股びらきでソファの背もたれにふんぞり返るように、パンチパーマの少年は見ている。

リーゼントの剃り込みの少年は、傾けたグラスの底をコロコロとコースターの上で転がし、カウンターの中にいる僕を、剃りこんだ細い眉をつりあげ、生意気そうな顔で目を凝らしにらみつけてくる。

以前の僕であれば、怖くてビビッて逃げ出したくなってしまうのだが、慣れとは怖いものだ。「なんだ、このクソガキ!」と睨み返すことができるようになった。

パンチパーマの少年は、にやけた顔で腰を少し浮かし、白のスラックスの尻のポケットから財布を取り出し、中から一枚の紙を女の子に手渡した。

だいたいの客は請求された金額をさっと払って帰る客、話が違うと騒ぎ出す客、黙って立ち上がり慌てて逃げるように帰ろうとする客、さまざまなのではあるが、女の子にニヤニヤしながら名刺みたいなものを渡す客はいない。

会計時には客の反応に慣れっこの女の子の表情も硬い。名刺のようなものを一枚持って、女の子はリストに入ってきた。

少し、おびえたような顔で。

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