第10話
ある日のことである。
「――おい、瀬野、掃除機持って来いっ!早くっ!」
薄いブルーのワイシャツのボタンを三つくらいはずして、袖を肘までまくっている、少しイラだった店長の声だった。
「あぶねぇ、あぶねぇ、営業始まる前で良かったよ。朝一(出勤してすぐのこと)で吸い込むと一日は大丈夫なはずなのによぉ。なんだよ?今日は?」
そう言いながらソファと同じワインレッドの床のカーペットから湧き出てくる水を掃除機で吸っていたのだ。
僕は、この三ヶ月くらいで四台か五台、掃除機を買いに行っていた。
買いに行くのも面倒くさいし、そんなに壊れるものなのかなぁ?と思いながら掃除機を買いに行っていた。しゃがんで掃除機のヘッド部分をはずし、湧き出てくる水で大きなシミになっている床に、一生懸命ホースを押し当てている店長の後ろ姿。
……週に一度は散髪に行っているらしい、一寸の乱れもない隙のない角刈り。
後頭部からうなじに続く黒から肌色へ変わる美しいグラデーションは、見る気がなくても否応なく僕の視界に入り込む。
――こ、こいつ。……いつも掃除機に水を吸わせていたのか!
思わず、僕は「こいつ」というフレーズを心の中で呟いてしまった。
腰をかがめて掃除機を引き寄せ、「ったくよぉ!ナメてんなぁ、コノヤロー」と、広がるシミをにらみつけている店長がいる。
僕の足元で、懸命に掃除機に水を吸わせている店長の背中を、驚きが止まらないまま僕は見ていた。
――な、なんなんだよ?この人。頭、おかしいんじゃねぇか?掃除機を使って水を吸わせてる奴なんか見たことねぇぞ。
――掃除機に水……ダメだ、笑えてくる。
店長が床に向かって文句を言えば言うほど、笑いが止まらなくなってきた。
その声もだんだんと、尖った大きな声に変わってきている。そのうちになぜか、店長の髪型にも僕は気になり出してきた。
どうしてこんなに、隙のない角刈りを維持しているのだろう?
今時、角刈りなんて流行ってないしなぁ?
週一の床屋って、考えてみらすごいことだなぁ。
どうして?なんで?そんな余計なことまで考え始めるともうダメだ。
我慢できない。
「すいません、トイレに行ってきます」と店長に声をかけ、一目散にトイレに駆け込み,ドアを閉めた。ブホッ、ズズズズズッ、ブホッブホッと掃除機が頑張って水を吸っている音が、トイレの中にいても聞こえてくる。
水を吸い込んでいくことに大喜びしている店長の笑い声も、しっかりと聞こえてくる。トイレの中で、声を殺して僕は大笑いしていた。
「おいぃ、瀬野ぉ、ちょっといいか?」
島さんが、珍しく営業が始まる前に店に来た。僕はカウンターの中の厨房で仕込みをしている手を休めてホールに出ていった。
四月とはいえ、夕方は冷える。
島さんは黒のジャケットとパンツのピアスポーツの上下を着ていた。
この頃は、『ピアスポーツ』※洋服のブランド を着たアウトローな人達が歌舞伎町中に溢れ返っていた。大きな茶色の皮の鞄から、ゴソッと茶封筒を取り出した。
その中には日報とか領収書が入っている。島さんは、どっかりとソファに腰を落とし、テーブルの上に数枚の領収書を僕に差し出した。
「ちょっと聞きたいんだがよぉ。二、三週おきくらいにサンペイの領収書あんだろぉ?この三万二千円とか、三万六千円ってなにを買ってるんだぁ?」
――島さんも、これからものすごく驚くことになるのだろう。
僕が「掃除機です」と答えることはもちろん知らないし、そんなことを言うなんて露ほどにも思わないはずだ。
三度のメシよりギャンブルが好きな島さんが、競艇でこれまで経験したことのない大奇跡が起きたという、買ったばかりの金無垢のロレックスの腕時計を腕から外して、愛おしそうな顔でニコニコしながらハンカチで磨いている。
「――掃除機です」
「掃除機?――……そ、掃除機?」
「はい」
「――これ、全部?……全部、掃除機?」
「はい」
ロレックスから僕に視線をあげた島さんの顔は、眉間にしわをよせ、口をすぼめ、少し小首をかしげた、驚きと理解できない不思議な感情が入り混じったものだった。
僕もたぶん、こんな顔をしていたんだろうなぁと思った。そう思い出すと、フツフツとまた笑いがこみあげてくる。
僕は告げ口するつもりもないし、自分から言うつもりもなかったのだが、社長から聞かれれば答えないわけにはいかない。
なぜ、こんなに掃除機を買うことになってしまったのか、という説明を島さんにした。深いため息と、少し語気を強めて、あきれるような声で僕に呟いた。
「八木沢、もう来てんだろぉ?呼んで来いぃ」
向かいの通りに、勝手に他人の自転車の荷台にまたがり、のんきにかっぱえびせんを胸にかかえ、引き屋と笑顔で話をしている店長がいた。
白いワイシャツの上から黒のダウンジャケットを羽織っていた店長は、僕の呼びかけにかっぱえびせんを片手に、足早に店へ向かった。
「よぉ、島ちゃん。今日早くね?気合入ってんねぇ~」
ジャケットを脱ぎながら店長は椅子に腰掛けた。僕はカウンターの中に戻り、仕込みの続きをしながら、二人に目をやっていた。
店内は営業前なので音楽は流れていない。
照明も落としていないのでとても明るい。
「――八木沢、お前、掃除機をとっかえひっかえしてるらしいじゃねぇか?」
あきれたような声の中に、島さんの怒りを感じる。
「島ちゃん、とっかえひっかえだなんてやめてくれよ。女じゃねぇんだからさ。
ただの掃除機だよ。やめてくれよ、照れるじゃねぇか」
なんのためらいも、ごくごく当たり前のことのように笑いながら店長は答えた。
――照れる……この場に及んで……照れる。
僕は小学生の時からそうなのだが、笑っちゃダメだという環境に置かれると、普段なら聞き逃す言葉や見逃す動作が、ものすごくおかしく見えたり聞こえたりしてきてしまう癖がある。笑うのを我慢すればするほどツボに入ってしまうのだ。
頼むから二人ともまともな会話をしてくれよ、そう思いながら深く深呼吸をして、
カウンターの中で作業を続けていた。
「…………おまえ、バカだろ?」
島さんは真顔で店長の顔を見やり、突き放すような声で言った。その一言に、僕はすぐにカウンターの下へ慌ててしゃがんだ。
僕が思っていたことをそのまま口にしたからだ。
おかしくておかしくてしょうがなかった。
カウンターの下にしゃがみこみ、右手の親指と人差し指で汗ばんだコメカミを押さえ目を閉じ、歯を食いしばり、震える身体で笑いを噛み殺していた。
「掃除機に水を吸わせる奴なんて、見たことねぇぞ!コノヤロー!おまえ、バカだろ?おまえ、ホンモノのバカだろぉ!」
大声で怒鳴りまくる真っ赤な顔の島さんの唾が空中を舞う。
「おいおい、ただの水だぜ、島ちゃん。汚水とかじゃねぇんだぜ」
よくわからないのだが、ソファのひじ掛けに体重をあづけて、いたって冷静に言葉を返す、店長がいる。
――ホンモノのバカ
僕のしゃがんでいた腰は、床にじりじりとずり落ち尻がつき、体操座り状態となった。おでこを膝につけ、左の手のひらでチカラいっぱい口元にフタをして、声が絶対でないよう顎を引き、顔を伏せた悶絶状態に入っていた。
「掃除機で水なんか吸っちゃいけねぇんだよ!水が綺麗とか汚いとか関係ねぇんだよ!小学生でも、わかんだろうよぉ、そんなことぐらいよぉ!おおぉ!バカかよ!
あぁん、はっきり自分の口で言ってくれよ!バカなんだろ?なぁ、おまえはバカなんだろうよぉ!あぁん!」
島さんは元々が地声の大きな人だ。
やっかいなことだが、自分の声の大きさに自分が触発されて、どんどん怒りが増していくのはいつものことだ。
興奮してくると、メチャクチャなことをまくし立てる、これもいつものことだ。
怒りが頂点に達すると「バカ!」を連発すること、これは、ほぼほぼ定番中の定番だ。
「おい!瀬野!コノヤロー!おまえもおまえだ!このバカにそれぐらい教えてやれよ!おまえもバカか?あぁん!おまえもバカなんだろ!わかったな!コノヤロー!」
僕の腹筋は、ピクピクしたままだ。背中は汗びっしょりで、笑い疲れて、体はまだ震えている。けれど、何事もなかったかのように腰から落ちたカウンターの下から、すくっと立ち上がった。
今、島さんの顔を見たら吹き出してしまう。
視線をカウンターに落としたまま、「……は……い」と、返事をするので精一杯だった。
「二度と掃除機なんか買うんじゃねぇぞ!バカどもが!わかったか、コノヤロー!」
島さんはジャケットを脇にかかえ、無言で佇むドアにさえも「バカか!どけ!コノヤロー!」と怒鳴りつけ、ドアを蹴り倒すような剣幕で怒りながら出ていった。
僕は、カウンターの中から島さんを見送り、店長を見た。
すると、店長はいつの間にかさっきのかっぱえびせんの袋を抱え、ポリポリと寂しそうに頬張っていた。
「よぉ、瀬野。人に向かってバカっていう奴が、バカだって、ガキの頃、教わんなかったかぁ?なぁ」
普段は、なににでも噛みつきそうなギラギラした野良犬のような目をしているくせに、島さんから怒られたときにだけ見せる、シュンとした子犬のような瞳。
しょんぼりした肩を落とす姿は、これだけの奇人っぷりをまざまざと見せつけられても、なぜか、僕の同情を誘う。
カウンターの中から店長の座る席に行く。
「僕も、そう教えられました。今日も一日、宜しくお願いします」と、静かに声をかけ、暖かいお茶をそっとテーブルに置いた。
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