第9話

 この頃の僕の生活と言えば、寝るのがだいたい朝の六時くらいだ。目を覚ますのが、十五時、十六時なのだが、僕にとっては朝だ。六畳もないようなワンルームマンションのベットで目を覚ます。

寝に帰るだけの、九階の僕の部屋のカーテンは何日も開くことはない。眼下には山手通りが走り、その向こうには新宿中央公園。その先には建設中の『新宿グリーンタワービル』が見える。二十八階建ての超高層ビルだ。

この頃から西新宿の超高層ビルの建設ラッシュが始まる。

カーテンを開けると、久しぶりに見る太陽の光の眩しさに、僕の目が一気に奪われてしまう。

眩しくて目を閉じ、しかめっ面からゆっくりと目を見開くと、建設中のグリーンタワービルの背が、また高くなっている。

このことに毎回、「うっ!」と後ずさりをして同じくらいのテンションで驚き、毎回、同じ思考回路で、てっぺんに乗っかっているクレーンは、どうやってあそこまでもちあげたのだろう?なんてことを、いつも思っていた。そのことについて、調べてみるほどの興味はないのだが。




 起き上がってテレビをつける。ラークマイルドをくわえながら、冷蔵庫から缶コーヒーを出す。僕の起きてからのルーティーンみたいなものだ。

起き抜けでタバコを吸いながらボーッとテレビを見ていた。後藤田正晴という政治家がコメンテーターとなにやら話している。僕は、『カミソリ後藤田』というネーミングがなぜか気にいっていて、この人がテレビに出ているとチャンネルを止めてよく見ていた。彼の功績も選挙区もなにも知らないのだが、ボンクラの二十歳の僕が、なるほどなぁ、いいこと言うなぁ、と思いながらよく見ていた。

テレビの中で後藤田正晴が、

「いいですか?正方形を思い浮かべてみてください。そのマスいっぱいに円を描いてみてください。そのマスいっぱいに描いた円が法律なんだな。円の外の四隅にわずかな隙間ができるでしょう。その狭いところで生業を立てている者もいるんだなぁ。

この四隅でしか生きられない人間もいるんだよ。その四隅でなにか問題が起これば、そこにまた新たに法律の網をかける。なんでもかんでも法律、法律じゃあ生きにくくてしょうがないでしょう」そんな話をしていた。

タバコを吸いながら、この狭い四隅で僕は生きていくのかなぁと漠然と思いながらテレビを見ていた。

今の時代、この四隅で生活している人と円の中で生活している人の住み分けがなくなっているような気がする。二十年位前に『闇金』や『システム金融』と呼ばれるものが世間を騒がせ、法律まで改正された。

僕の先輩で三十年近く街金をしている人がいる。その頃、僕に会うたびに彼は言っていた。

「哲よぉ、日陰で暮らしてる人間は表に出ちゃダメなんだよ。今、ヤミ金やってるバカなガキどもがギャアギャア騒いで表に出てきているだろう。だから、今までにない法律もできるし、面倒くさい規制も入る。表に出る仕事なんかじゃない、ってことがわかんねぇんだろうな。日陰者はこっそり隅っこで稼いでりゃいいんだよ。目立って得することなんかなにもねぇんだからよぉ。日陰者っていう言葉はもう死語かぁ?」

苦虫を噛み潰した顔で、僕によくそう話していた。

四隅で暮らしているという感覚が昔と今では違うのだろうなと思う。ネット社会、街の至るところにカメラが設置してある、いわゆる監視社会だ。

いい悪いは別にして、人と人とが安心して暮らせる社会じゃなくなったのかもしれない。まさかそこまでしないでしょうという事件や、それをやったらオシマイだよ、という価値観が失われてきているのかもしれない。

だから、こんなことまで法律がいるの?そんな条例までないとダメなの?というギスギスした社会になってきたのだ。窮屈な社会が出来上がってしまったのだ。

あの頃は、今では、信じられないくらいおおらかな時代であったことは間違いないであろう。その時代に生きていた人達のモラルや、善悪の価値観が概ね合致していたのだろうと思う。




 島さんの店は、さくら通りから少し脇に入った雑居ビルの地下一階にある小さな店であった。グレーのタイル張りの階段を降りる。

ドアを開けると小さな小窓があり、小窓の裏には店長が座っている。小窓の反対側に、もう一枚ドアがある。ドアを開けると、茶褐色のカウンターとワインレッドのソファが平行に壁に沿ってはめ込まれ、縦に長い店だ。

クリーム色の丸テーブルが四つあり、天井には所々、長さの合ってないガラス玉のシャンデリアが、だらしなくぶら下がっている。

女の子は常時、五、六人くらいだ。飲み屋のボッタクリの場合、女の子の見映えやその子のテクニックは関係ない。会計はすべて男子スタッフがするからだ。

引き屋は通りで声をかけ、一人飲み放題五千円で客を連れてくる。五,六人のグループだと千円くらい割り引して連れてくる。

この最初の飲み放題五千円は全額引き屋のものになる。店側は店内でいくら取れるかが勝負だ。店内で客が使った料金の二割が引き屋のものになる。

例えば、二人連れの客が最初に五千円づつを払って一万円。店内で八万円使ったとなると、最初の一万円と八万円の二割、一万六千円で合わせて二万六千円が引き屋の収入になる。

引き屋は基本、店の専属ではないので客から金をいっぱい取ってくれる店に連れていきたがる。

店も客からいっぱい金を取るという噂が流れれば、どんどん引き屋が客を連れてきてくれる。この街の噂は光より早い。客が使った金額と店の人間が言う金額が違う、例えば客は五万使ったのに、店の人間は一万しか取っていないと引き屋に話す。最初の五千円と店内で一万円なら七千円が引き屋の収入になる。これが店内で五万円だと一万五千円が引き屋の収入になる。

店が客から取った金額を誤魔化しているという噂が流れれば、誰もその店に客を連れていかなくなる。激暇になりすぐに店は消えてなくなる。

店内に入ることができない引き屋がどうして、店内で客が使った金額が本当かどうかの確認ができるのか?

引き屋のネットワークは凄い。また、個人個人で客引きをしているのだが仲間意識が強い。

自分が入れた客は、店内で「話が違う!五千円以外お金は一切かからないと説明を受けた!」と、間違い無く店員ともめにもめているのだ。

その客を入れた引き屋本人は、客と会わないようにどこかへ姿をくらましている。

「話が違う!騙された!」と、カッカしながらその店を紹介した客引きを探している客に、わざと仲間の引き屋が声を掛けるのだ。

「お兄さん!もう一軒いかがですか?」

声をかけた引き屋の方は、最初からこの客を店に連れて行こうだなんて思っていない。ボッタクリにあってカッカしているのも知っている。

「五千円飲み放題」なんて同じセールストークなどしようものなら、トバッチリを食う羽目にもなる。なので、ストリップ劇場とか本当に存在している明朗会計の有名な風俗店の紹介をしながら話かけるのだ。

「もういいよ!今、客引きに紹介された店で七万もとられたよ!歌舞伎町はやっぱり怖いよ。そんなことより、あいつどこにいったんだ!」

「七万も!マジですか!客引きの言うことなんて信じるからですよ。アイツらの言うことなんて嘘ばっかりなんですから。よかったら店名だけでも覚えて帰ってくださいよ。今度、歌舞伎町に来たら是非当店をご利用ください。本当に明朗会計ですので」

店から出てすぐの客に声をかけるのだ。

大袈裟に言う客もいると思うが、三人、四人と抜き打ち的に聞くとそんなに大きな違いはない。逆に引き屋に客をどんどん連れてきてもらうために、金の取り方がエスカレートしてしまう店もある。

騙された客が、カッカしながら自分に声をかけた引き屋を探すのだ。

店側からは「文句があるならここへ連れてきた、その人間に文句を言え!うちの店はあんな男は知らないから」と、必ず言われているからだ。

引き屋も喫茶店なんかで時間を潰しながらもう大丈夫だろうと、自分のエリアに戻ったところでさっきの客が戻ってきて、「話が違うじゃねーか!この野郎!」と、引き屋に飛びかかるのだ。そんな怒鳴り声が聞こえたら、あっという間に通りにタムロしている引き屋たちが集まってくる。その数に慌てて逃げ出す客や、向かっていって大勢の者にフルボッコにされる客。しつこい客になると、翌日にまた来て引き屋ともめている者もいた。

当時の歌舞伎町での喧嘩が多いというニュースやイメージは、九割はコレである。

一般の人同士が喧嘩になることはまずない。

酔っ払った若者同士の喧嘩はちょくちょく見かけたことはあるが、ヤクザと一般人の喧嘩など見たことがない。

なんの得にもならない喧嘩など、ヤクザがするわけがないからだ。

せいぜい、支払いの遅れたアングラな業界で生きている人間や、ヤクザと関わって仕事をしているグレーゾーンの人間を、人目に触れないところでボッコボコにぶん殴るくらいだ。この街の中のことがわかれば、全然怖い街ではないのである。




 島さんの店で、僕はカウンターの中で最初に出すお通しやメニューにあるアタリメやチーズサラミ、野菜スティク、フルーツ等を調理する仕事をしていた。

僕が出勤をすると、店はいつも綺麗に掃除され、テーブルにはミネラルとグラスと灰皿が丁寧に並べられている。いつ営業してもいいような状態になっている。

店長の八木沢さんが全部終わらせてくれているのだ。

十九時くらいから女の子が出勤してくるので、僕は十七時時半くらいには出勤しているのだが、いつもすべて終わっていたのだ。

「店長、いつもすいません。何時に店に来てるんですか?」

「いいよ、いいよ、気にするなよ。家も近いし暇だからさ。それよりこれから『エ二イ』に行くんだろ?そのあと、『サンペイ』で掃除機を買ってきてくれよ」

エニイとは、歌舞伎町の中にある二十四時間スーパーである。向かいには『焼肉のいこい』という店があった。当時はエニイ、塩田屋、サンペイストアでしか買い物をしたことがない。

コンビニなんて一軒もなかった。コンビニと回転寿司は歌舞伎町の家賃では儲けがでないんじゃないか? とよく言われていた。

僕は、ほぼ毎日エニイに仕入れに行っていた。

――また?また掃除機かぁ。三週間位前に買ったばかりなのになぁ、とそんなことを思いながら、エニイの買い物のあとサンペイで掃除機を買って店に戻った。

この店には、八木沢店長と坂口さんという人がいた。

八木沢店長は、四十代前半くらいの頬のこけた、口髭を生やした角刈りの見るからに不健康そうな顔色の悪いオジサンである。坂口さんというのは、逆に体重百キロは余裕である巨漢で三十代前半くらいのパンチパーマ、いつも汗をかいている笑顔のかわいい人の良さそうなおデブちゃんだ。

「店長、掃除機買ってきました」

僕は店に戻るなり新しい掃除機を箱から出して、古いというか?故障したという、まだ全然新しい掃除機を箱に詰め直してゴミに出した。

「掃除機、すぐぶっ壊れるんだよな。よぉ瀬野、もう少し高いのを買ったほうがいいんじゃねぇか?サンペイに文句でも言ってやるか?今度、一番高いやつ買ってすぐぶっ壊れるようなら文句のひとつも言わなきゃいけねぇな」

店長は、リストと呼ばれるところでタバコを吸いながら笑っていた。

この掃除機、僕は一度も使ったことがない。

店に出勤すれば、すべてセットが完了しているからだ。

床はもちろん、テーブルから椅子、壁に掛けられた鏡までピカピカになっているのだ。見かけによらず真面目な人なんだぁ、店長にばかりさせていたら申し訳ない、僕も頑張らないといけないなぁと、最初の頃はそう思っていた。

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