第8話
1986、7年当時、アングラ業界で言えば歌舞伎町の中は、裏ビデオ、ポーカーゲーム、ボッタクリバー、ボッタクリヘルス全盛時代であった。
新宿駅の周りでは深夜になると東口のアルタから、カメラのさくらや、西口の小田急のあたりでトルエン(シンナー)の路上販売が始まっていた。
そこには、口元に拳をグーにして押し当てているお兄さん達であふれていた。
それを車で買いにくる若者達と車の窓越しに、オロナミンCの瓶のやりとりをしていた。今で言うドライブスルーみたいなかんじである。
その頃の歌舞伎町には、二百人とも三百人とも言われる『引き屋』『ポン引き』と呼ばれるキャッチがいた。
陽が落ちる頃になると出勤して来るホステスや風俗嬢が通りを颯爽と闊歩し、ヤクザは自分達の組の力を見せつけるかのように、身体を揺すりながら道幅いっぱいに広がってのっし、のっしと練り歩く。
若いサラリーマンやOLは美味しいお酒や料理、素敵な出会いを期待しながら、この街に繰り出してくる。大学野球やラグビーの試合のあと、明治大学や早稲田大学の学生は、映画館前の噴水広場で肩を組んで校歌を歌ったり歓声を上げたり、と本当に毎日がお祭り騒ぎであった。
ピンクのアフロヘアーに花束に覆われた異様な自転車、派手な衣装を身にまとい新聞配達をしている街の有名人タイガーマスクが、ピンクのマントをなびかせながら人混みの中を駆け抜けて行く。
大人のワンダーランドである歌舞伎町に、一方通行のごとく様々な種類の人間がどんどん吸い込まれていく。街の無数のキラキラしたネオンがスポットライトのように、通りを行き交う人々を、さながら映画の主人公のように照らし出していくのである。
急に今日、店が終わると高橋さんに言われた。十二月目前の師走を迎える街のざわつきは普段の比ではない。夕方の六時くらいのことだ。
「哲ちゃん、明日からの仕事でも探しに行くか?」
何の準備もなく求人情報誌を手にすることもなく、ビールでも飲みにいくか?という軽い感じで高橋さんが僕に向かって声をかけた。
「は、はい、お願いします」
僕はそう答えたものの求人誌も見てないし、なんの準備もしていない。こんな夕方から仕事探し?どこに?みたいな感じでいた。
コマ劇場からセンター通りを歩き最初の路地を左に曲がると、『スカラ座』という喫茶店がある。向かいは、『そば処加賀屋』、『つるかめ食堂』、そこを通り抜けると『王城』というお城みたいな建物の喫茶店があった。
その王城まで行く道中も、いろいろな引き屋に、「おつかれー」とか、「おはよー」とか高橋さんは挨拶しながら歩いていた。王城は、一階、二階とある。
二階へは自動ドアを開けて、すぐ左にある螺旋階段で行くのだ。一階は一般のお客さんが多いのだが、二階はこの街の住人だらけだ。
「誰かいるかなぁ?」
そんなことを言いながら高橋さんは、ぐるっとうねるようなカーブの曲線の手すりに手を置きながら、螺旋階段を登った。
二階には、麻雀や花札の卓上テーブルゲームがある。タバコのにおいと女性のキツメの香水がそこには漂う。パンチパーマにスキンヘッド。坊主頭にサングラス。
ソバージュヘアーに肩パッドの入った派手なスーツを着ている、細くて長いタバコをくわえたお姉さん達。
そんな胡散臭そうな面々が顔を上げ振り返り、階段を登り切った僕と高橋さんに視線を一斉に投げかける。
「おお!高橋ちゃん」
濃紺のジャケットに赤のネクタイ。髪はジェルでビシッと七三。顎がしゃくれ気味の顔の長い三十代半ばくらいの、背の高い男の人が高橋さんを見つけ声をかけた。
「いたいた、島ちゃん、おつかれ」
「江田、飛んだんだってな?馬でも相当いったらしいけど、五十万の無尽、二本飛ばしてるらしいじゃね?橋上さんのところの早い金もいってるらしいしな」
「さっそくその話かよ。島ちゃん、早いね。俺が今日、今さっき聞いた話をもうみんな知ってるの?江田っち、橋上さんからも金引いてたの?」
「橋上さんのところの若い衆が、ブーブー言ってたよ、さっき」
黒のベストに黒の蝶ネクタイのウエイターが、僕たちの注文を取りに来た。
「俺は、ホットでいいや、哲ちゃんは?」
「僕は、アイスコーヒーお願いします」
「島ちゃんも、こっちに座りなよ。お兄さん、この人の分もこっちの伝票につけておいててね」
高橋さんはウエイターに伝票を一つにするようお願いしながら、ポケットの中のタバコを探していた。
「高橋ちゃん、サンキュー。で、店は?」
島ちゃんは僕に顔を向けることなく、目の玉だけで僕の顔をジロッと見ながら高橋さんに尋ねた。
「店はしばらく休んで段取りついたら、中ちゃんがやるみたいだ。俺は一度あがるよ。でさ、島ちゃん。これ瀬野哲也って言うんだけど、島ちゃんのところでどうかな?」
高橋さんは僕にどうする?じゃなく、この島ちゃんという人にどうする?と聞いている。この島ちゃんという人がどこの誰かも、なにをやっている人なのかも僕は知らないのに。ボッタクリヘルスもそうだったが、アルバイトの採用という僕にとっては、とても大切で重要なことなのに、この街ではそうでもないみたいだ。
ただ、違和感はあるものの、このテキトーな感じが嫌いになれない僕がいる。
「ホントは高橋ちゃんに来て欲しいんだけどなぁ。高橋ちゃんのところにいたの?」
「はい、高橋さんのところでお世話になっていました」
「島ちゃん、この子は時間にも金にもキッチリしてて真面目だよ。使えるよ」
銀のスプーンで、二杯目の珈琲をかき混ぜたあと、島さんが顔を上げ口をひらいた。
「高橋ちゃんが、そこまで言うなら、明日からうちにくるか?瀬野ぉ。ボッタクリのクラブだけどな。店はすぐ近くだ。働く時間は夜の七時くらいから夜中の三時くらいだな。給料は日払いで一万五千円だ」
働く当事者の僕を抜きにして、どんどん話が進んでいく。
「哲ちゃん、この島ちゃんは面倒みがいいんだ。男前な性格してんだよ。やることなければやってみれば?仕事が合わなきゃ、辞めちゃえばいいし」
そう言いながら、高橋さんは隣の席に手を伸ばし、吸い殻で山になった灰皿と綺麗な灰皿を交換しながら、またタバコに火をつけていた。
今度は飲み屋のボッタクリか。だけど、この人も履歴書とか身分証のことを、なにも言わないよなぁ。年齢も、どこに住んでいるかも聞かないし。
もし僕が「山田」とか「田中」と名乗ればそう呼ばれるんだろうなぁ、と思いながら僕は宜しくお願いします、と伝えた。
「よし、じゃあ明日から頼むよ。で、高橋ちゃんは、これからなにやるの?」
歌舞伎町から出ていく高橋さんに興味津々の島ちゃんが、いろいろな質問を浴びせている。この話も明日には、いや今夜にはこの界隈のトップニュースとしてあっという間に広まるのだろう。
「少しゆっくりしてから、赤坂あたりで韓国の(あかすりエステ)でもやろうかな?
って、考えてんだけどね」
「ああ、高橋ちゃんのかあちゃん、韓国だもんな。本番ありかい?」
島ちゃんは、笑いながら高橋さんに聞いた。
「そんなわけねぇだろ。健全な店だよ」
いつのまにか店内は満席になっていた。天井の真ん中には、間接照明でキラキラと輝く大きなシャンデリア。赤、青、黄色の壁のあちこちにはめ込まれたステンドグラスの淡い光の前で、ゆらゆらとタバコの煙が揺れうごく。
タバコのにおいと香水のにおいのうえに、店内のお客さんが増えたせいで珈琲豆のいいにおいが加わった。耳を澄ませば、物騒な話も聞こえてくる。今夜、一儲けを企む大人たちのエネルギーで二階席は充満している。
店内に流れる有線から小泉今日子の「なんてたってアイドル」という歌が流れてきた。
「おっ、もうこんな時間だ。店に行かなきゃ。高橋ちゃん、頑張ってな。瀬野ぉ、明日から頼むぞ。だけどよぉ、キョンキョンってなんであんなに可愛いんだぁ?中山美穂もかわいいけど俺はやっぱキョンキョンだなぁ。瀬野ぉ、キョンキョンみたいな女の子引っ掛けてきてくれよ。連れてきたら、いくらでも金は払うぞぉ!」
そう言うと島ちゃんは、立ちあがりベルトをグッと持ち上げた。
そして、おしぼりをマイクに見立てて「なんてたって~ア~イド~ル♪」と節を歌って手を振り踊りながら、僕達を笑わせて螺旋階段を降りて行った。
「面白いだろ?島ちゃん。明るいんだよなぁ、いつも。アレは悪い男じゃないから安心していいよ。いいかい、哲ちゃん。悪い事をしていても真面目に生活しなよ。
ボッタクリなんてデタラメな事なんだよ。デタラメな事だっていうことは忘れちゃダメだよ。ただ、そのデタラメな事が、今はたまたま仕事になっているだけなんだ。
金のためだ。金残してこの街から出ないとな。リカじゃないけどさ。ヤクザだってそうさ、真面目に悪いことをする奴は必ず出世するんだ」
高橋さんは、灰皿にタバコを押し付けた。
「頑張れよ、哲ちゃん。この街には海千山千の連中も多いけど、稼げるぞ。俺は少し疲れちゃったけどな」
「ありがとうございました。高橋さんも頑張ってください」
僕と高橋さんはおもてに出た。十二月の風は冷たい。夜の風は、なおさら冷たい。
高橋さんは、寒い寒いと言いながら上着のボタンを一番上まで締め、その中にあずき色のマフラーをねじこんだ。
「じゃあ、哲ちゃん。ちょっと早いけど、良いお年を!ちょっとじゃなくて、メッチャ早いよな!」
両手を空に突き上げ、万歳するかのようなリカさんばりの大げさなゼスチャーで、
僕に思いっきり手を振る高橋さんがいる。歌舞伎町の夜がざわざわし始めている。
人の往来がじわじわ増えてきている。
王城の向かいにある『炉端焼き たぬき』から串焼きの醤油の焦げた、食欲をそそるうまそうな煙が夜空に舞う。華やかなネオンが灯り始め、街のざわめきに彩りを添える。
『歌舞伎町一番街』と彫り込まれた街灯に、丁寧に、丁寧に一本づつ明かりが灯されていく。まるで、これからこの街が熱狂の渦を巻き起こすライブコンサートが始まる前のカウントダウンみたいに。
僕は高橋さんの背中が見えなくなるまで深く、深くお辞儀をした。肩をすくめるのほどの冷たい風が、鼻の奥をツンツンと刺激する。
それでいて、その風は優しく僕の頬を包むようになでていく。
なんだか、十二月の街の喧騒が妙に心地よかった。
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