第6話
ドン!バァーン!ドカンッ!ガタンッ!
「痛いなぁ!腕掴むなよ!」
二号室からドアや壁にぶつかる鈍い音や、ミクさんの怒鳴り声が聞こえてきた。
「この店、ボッタクリだろ!ふざんけんな!帰るよ!」
客の怒鳴り声だ。部屋から出ようとしている客と、それを防ぐように帰さないようにしているミクさんがいた。
「胸触ったろ!五千円払えよ!払う前に触りやがって!キャミ伸びるだろ!手を放せよ!」
二号室のドアが半開きで、客とミクさんの上半身が重なりあいながら、半分くらい身体が部屋から出ている状態だ。有線が爆音なのは、この客の叫び声や怒鳴り声をかき消すためであった。
ただ、曲と曲の間の何秒かが無音になる。
その無音のときに、客の怒鳴り声や女の子の叫び声が素で聞こえてしまう。
この間が、なんとも言えない空気を店内に漂わせてしまう。
リストで高橋さんと僕が海釣りの話をしていたときのことだ。イナダがどうの、夜釣りのイカ釣りがどうの、と海釣りの話で二人盛り上がっていた。僕が腹を抱えて笑っている最中でもすぐに高橋さんは仕事モードのスイッチが入る。
瞬時に顔つきが変わってしまうのだ。
「哲ちゃん、仕事だ。よく見て覚えるんだよ。で、今は三号室にも客がいるから外でやるよ。俺の後ろに立っててね。――絶対に客を逃がすなよ」
――絶対に客を逃がすなよ
笑顔の消えた高橋さんと、このセリフに恐怖と不安で、頭の中が真っ白になっている僕がいる。
店内に他の客がいなければ二号室に入るのだが、他にも客がいると高橋さんと客のやり取りがすべて聞こえてしまう。だから、客を外に出す。
外と言っても階段を降りきった突き当たりの小窓の前だ。
「痛い!痛い!店長!この客、金払わずに帰ろうとしてるんだよ!」
「なに言ってるんだよ!一万円払っただろ!胸触ったくらいで、なにが五千円だよ!ボッタクリが!」
客とミクさんの間をこじ開けるように、高橋さんが二人の間に割って入った。
「お客さん、他にもお客さんがいるんだ。大声出さないでよ。外で話しましょうよ」
高橋さんが客の耳元でささやくように話かけた。興奮している客は聞く耳をもたない。高橋さんにも掴みかかる始末だ。無理やり客を外に出すとき、ミクさんがさっと高橋さんに寄ってきた。
「あいつ、二万は持ってるよ」
耳元で囁くミクさんの言葉に高橋さんは無言で頷き、ドアを開けた。
客は身長が百八十センチくらいある大柄な若いサラリーマンだ。
小窓を背に客は立っていた。高橋さんは身長百六十センチちょっとのがっちりとした、小柄で肩幅のあるオールバックのオジサンである。
僕は言われたとおりに幅の狭い急な階段の真ん中あたりで、両サイドの手すりを掴んで腰をかがめ重心を落とした。心臓が異常なスピードでバクバクしている。
唾が喉を通る音がしっかりと聞こえる。全身がブルブルと震えてくる。
今まで生きてきて一度もこんな経験なんてしたことがない。
この展開から先がなにも想像できない。
階段の中段から、下段にいる高橋さんの背中をただただ見ながら、ものすごく緊張していた。
「こちらへどうぞ」
高橋さんは優しく客に手招きをした。客は帰る気マンマンで高橋さんを突き飛ばして歩き出そうとしていた。ドアを閉め、外に出た瞬間である。
「ふざてんじゃねーぞ!コラァーー!」
高橋さんは階段を三つぐらい上がったところから客を睨み、怒鳴りつけた。
地下にある店なのだが、地上の通りにも聞こえるぐらいの大音響である。地下にあるので声が響くのかもしれないが、なにしろ凄い声だ。
高橋さんのこんな声を聞くのは初めてだ。
「勝手にうちの店に来て、なに文句言ってるんだよ!喧嘩でも売りにきたのか?
お前にこの店に来てくれって、誰が頼んだんだよ!おおおっ!」
高橋さんの驚くほどの大音量の怒鳴り声に帰る気マンマンの客の足が止まった。
「一万円払っただろ!ボッタクリだろ!この店よぉ!」
怒りと恐怖で興奮しているのであろう、客も裏返った高い声で叫ぶように怒鳴り、高橋さんにものすごい剣幕で詰め寄っていく。
「誰が一万円以上掛からないって言ったんだよ!どこに書いてあるんだよ、そんなこと。お前、最初に聞いたのか?追加料金のあるなしを。うちの一万円は、部屋の使用料とシャワー料金なんだよ。サービス料金は別なんだよ!」
客を見下ろすように高橋さんが怒鳴りつけた。
「普通は一万円で済むじゃないか?おかしいだろ!」
客も真っ赤な顔で怒鳴り返した。まぁ、客の言い分が一般的だと僕は思った。
腕を組みながら、声のトーンを少し落として高橋さんは話し始めた。
「その普通ってのは、誰の普通なんだよ?千円の焼肉屋もあれば一万円の焼肉屋もある。一万円の焼肉屋に入って、お前は『普段僕が食べてる焼肉は千円だから普通、焼肉は千円だろ!』って言って金を払わないのか?」
「お前、ラーメン屋に入って頼んだラーメンを食べてる途中に、味がいつも食べてる普通の味じゃないからって、食べかけのラ―メンを置いて金も払わずに店から出るのか?」
「だいたい歩いてるお前を空から網で被せるように、この店がお前にかぶさってきたのか?違うだろう。自分の足でここまで歩いてきたんだろ?自分の意思で入ってきたんだろ?
勝手に人の店に来てボッタリはないだろう。しかも、あんなか細い女の子にお前みたいなデカイ男が暴力まで振るいやがって」
高橋さんは声の強弱を付けながら続けた。
「一万円払うときに、初めての店なら追加料金があるのか、ないのかをちゃんと聞けよ。うちはこのシステムで十年以上やってる老舗なんだよ。ボッタクリだと?
ふざけるんじゃねーぞ、コラッ!」
ああいえばこう言う、みたいな客の言い分の揚げ足を取りながら、あなたに非があるという論調で話を進めていく。
なにしろ勝手に自分の足でこの店に来たんだろう、誰もお前に来て欲しいなんて頼んでいない、店のシステムすら最初に聞いてないだろう、挙句の果てに、あんなか細い女の子に暴力まで振るったなどと、高橋さんは繰り返していた。
僕は、うまいこと言うもんだなぁと思いながら高橋さんの背中を見ていた。
「お客さんも若いんだ。いろいろなシステムの店があることを知らなかったんだろ?
さっきの女の子のサービス料五千円と、それにあのキャミソール一万円もするんだ。あんなに強くお客さんが引っ張るから伸びちゃってもう着れないよ。合わせて一万五千円だよ」
高橋さんは、もっと社会を知らなきゃだめだと、アドバイスまでしていた。
客は納得しているようなしていないような、ただ自分にも悪いところはあったようなことを言い出していた。
そして、女の子に暴力を振るったことを詫びながら、帰って行った。
「店長! ありがとう!」
ミクさんがリストにやって来た。女の子が客から取った金額は店と折半になる。
本来なら男子従業員が取った金額の歩合は女の子にバックされない。
しかし、高橋さんは稼げない時は逆立ちしても稼げないんだから、と女の子達に男子が取った分も歩合で付けてくれていた。
追加料金で取った一万五千円の半分、七千五百円が日報のミクさんの欄に書き込まれた。基本的に個室の中で千円でも女の子達が取れば僕達の出番はない。
一万円だけで帰ろうとしたり、女の子と客が揉め出した時が僕らの出番になる。
歌舞伎町の猥雑なネオンの中に怪しい光を放ちながら、艶のある甘い匂いを漂わせる。まるで食虫花(食虫植物)のように大きな口を開けて静かに息を潜めて客を待つ、そんな店で僕は働き出した。
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