第4話
バイト先の喫茶店が閉店した。新しいバイトを見つけなければ、と求人情報誌の中から条件の良さそうな求人欄をハサミで切り取るだけで満足している無職の僕がいた。
そんな蒸し暑い八月の昼間、僕は歌舞伎町を何気なく歩いていた。
昼間の歌舞伎町は、とても静かだ。
おしぼり屋のトラックや酒屋の車、内装工事や解体業者、ごみ収集車などの業者関係の人たちばかりで、通行人といえば、朝までバカ騒ぎしてドロドロになってしゃがみこんでいる若者や、化粧の剥がれた酔っ払いの女がボロボロになりながらヨロヨロと歩いているくらいだ。
小便のにおいとゴミのにおい、酒のにおいが混ざり合い、昨晩この街で起きた悲喜こもごもの人間ドラマが、においに変わる時間帯でもある。
穏やかな昼間は、アスリートが最高のパフォーマンスを見せるために、ゆっくりと時間をかけてストレッチをしているような時間だ。
今夜、この街が全力で爆発するために。
西武新宿駅からコマ劇場に出る細い道に【ファッションヘルス・ウィン】という店があった。点滅電球がギラギラしたピンクの置き看板。当時は所狭しと、あらゆる道路わきにそんな看板が置いてあった。
そのギラギラした置き看板の電球に紐でくくられた、『男子従業員募集!月給四十五万円上!』と黒の太マジックで殴り書きのように書かれたダンボールが生暖かい風にユラユラとなびいていた。
人目にさらすなら、もっと丁寧に書けばいいのに、と思ったほどだ。
四十五万?本当に四十五万ももらえるのかな?
僕は地下にあるその店の前で足を留め、しげしげとその看板を見ていた。
――とりあえず、聞くだけ聞いてみようかな?
通りから地下にある、その店に続く急な細い階段がある。大人二人がすれ違うのは絶対に無理という幅の階段だ。
床のカーペットらしきものは、たぶん元は赤い色だと思うのだが、ところどころ茶色っぽくハゲかかっている。
確度のある急な階段を降り切った突き当りにに【30分 10000円】と書かれたプレートが貼られていた。その下に小窓があり、左側には塗装のはげかかった黒いドアがある。
僕は、ドキドキしながらゆっくりとドアノブを引いた。ドアを開けた瞬間、明るかった照明が落ち、流れていた音楽がいきなり爆音に変わった。スピーカーの音が割れるくらいのびっくりする音量だ。人の声が聞き取れないくらいの音量なのだ。
「いらっしゃいませ!」
ワイシャツの襟が異様に大きく、髪はオールバック。派手な和柄のネクタイにゴールドのネクタイピン。爆音に負けないようになのか、大声で叫ぶように肩幅のあるがっちりした小柄な四十代くらいの男性が、暗闇から僕に近づいてきた。
「――いや、外の募集の看板を見て来たんですけど!」
僕は爆音量に顔をしかめ、その和柄のネクタイの男性に聞こえるように耳元に近づき大声で話した。
「募集?お客さんじゃないのね!おーい!音、下げてくれ!」
その男性は、壁の向こうに聞こえるような大きな声で叫ぶように言った。
どうして、この店は叫ぶような大声でしか会話ができないのだろう?と思っているうちに照明が戻り音が静かになった。
店の中は、細長い間取りのようだ。1号室、2号室、3号室と書かれたベニヤ板で簡単に作ったような黒いドアがある。
それらを通り抜けて一番奥の隙間のようなところに並べられた、ところどころにシミのある、使い込まれたクリーム色のソファに座るように案内された。
隣の部屋から女の子達のキャッキャッした笑い声も聞こえる。
「君、いくつ?」
僕の向かい側に座ったオールバックの男性が、タバコに火を着けながら僕に聞いてきた。
「十八歳です」
「水商売や風俗の仕事の経験は?」
「ないです」
――えっ?もしかしてこれって面接?履歴書も持ってこなかったし、身分証もないや。どうしよう……
こんな展開を予想してなかった僕はちょっと困った。しかし、月給四十五万円がどうしても気になってしょうがない。
「あのぉ……質問してもいいですか?」
「どうぞ、なんでも聞いていいよ」
オールバックの男性は、眉間にしわを寄せながらも、なぜか笑顔だ。
「外の看板に紐でくくられたダンボールに月給四十五万円って書いてあったんですが、本当なんですか?」
僕が面接を受けていた隣の部屋に女の子達が待機していたのだと思う。
聞き耳を立てていたのだと思う。
「ダンボールだって!」
足をバタつかせているのか、その場で転がっているのかわかないが、隣の部屋でバタバタ動き回っている女の子達の大きな笑い声がこっちまで聞こえてきた。
「ああ、ポスターね。あれはポスターだよ」
オールバックの男性も笑うのを我慢しながら、ほほを膨らませ唇に力を入れ、ポスターだと言い張った。
僕としてはポスターでも、ダンボールに書いた落書きでもどちらでも良いのだが。
「本当だよ。月給四十五万円ってのは。うちは日給で日払い一万五千円だから、三十日出れば四十五万になるだろ。
今、早番を募集してるから、お昼十二時から夜の八時までだね。ああ、早番だと掃除もしてもらうから三十分前の十一時三十分から来てもらうことになるかな」
彼はタバコの灰を灰皿にトントンと落しながら話してくれた。今まで時給五百円とか六百円でバイトしていた僕には目が飛び出るような金額である。履歴書とか身分証を準備して来なかったことを後悔した。
「ガタイもいいし、面構えもいいね。明日から働いてみる?」
「え…… い、いいんですか?」
僕はびっくりした。彼は履歴書を持参していないことも、身分証を持参していないことも大丈夫だというのだ。面接みたいなものが始まって二十分足らずだ。しかも、採用が決まってから名前を聞かれたぐらいだ。
「俺は早番の店長の高橋って言うんだけど、君の名前は?」
「瀬、瀬野哲也です。宜しくお願いします!」
僕は、バネの弱ったへこみ気味のソファから慌てて立ち上がり、深々と頭を下げた。
「瀬野哲也君か。じゃあ、哲ちゃんだね。明日から宜しくね。ああ、そうそう。言い忘れてたけど、最初は見習い期間だから一日一万円ね。慣れてきたら一万五千円になるから」
僕にしたら明日から一万円でも全然嬉しかった。しかも日払い!すると隣のドアが
勢いよく開き、白のタイトミニスカートに黒のキャミソールを着た女の子二人が出てきた。
「哲ちゃんね!私たちも早番だから宜しくね。今日は来てないけど、あと二人早番の女の子がいるよ。すぐ飛ばないでね!前にいた早番の男子、すぐ飛んじゃったからさ」
飛ぶ?すぐ飛ぶ?どこに?
僕は、彼女達がなにを言っているのか全然わからないまま、彼女達にも挨拶をした。そうこうしているうちに、いきなり照明が落ち、静かだった店内の音楽が爆音に変わった。
「じゃあ、哲ちゃん明日からね。お客さん来たからさ」
「はい、宜しくお願いします」
僕がお辞儀をしている間に、高橋さんはそう言いながら急ぎ気味に入口のドアの方に向かった。高橋さんの「いらっしゃいませ!」という大きな声を背中で聞きながら、僕は地下からの階段を登った。クソという言葉の形容詞がつくぐらいの暑い夏だ。
一日一万円という仕事が見つかってウキウキしている僕がいた。
歌舞伎町のはずれにある、ちっちゃな風俗店。
ここからが、歌舞伎町というか、歌舞伎村というか、僕がこの街の住人になる始まりである。狭い歌舞伎町の中の独特なルールとかモノサシに驚きながらも、漂うように住み着いてしまうのだ。
これから起こるさまざまな出来事など知る由もなく。
名前も住所も年齢も、果ては国籍までも関係なく生活できてしまう街。
すべての人間を飲み込んでしまう街。
灼熱の八月の太陽が、地面をジリジリと熱く焦がしている。
立ち並ぶビルのコンクリートは、うかつに手を触れれば火傷するくらいの熱さだ。
ビルから放たれる熱も、アスファルトから放たれる熱も、吹き抜ける真夏の熱風も
クソ熱い歌舞伎町のエネルギーにさえ感じた。
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