第3話  

 午前二時も過ぎると、この店の客の流れも始発まではのんびりしたものになる。

店内には始発を寝て待つ客がチラホラいる程度だ。

「笹塚で安い貸しスタジオみつけてさ!」

「ルイ―ドのオーディション曲、やっぱバラードがいいかな?」

「高円寺のお笑いライブのチケット、誰かまとめて買ってくんねぇかなぁ」

ホールに立つ手持ちぶさたのバイト仲間たちが、今の自分の立ち位置を熱く語っている。僕もカウンターの中から、珈琲豆の整理やグラスを磨きながらその話に加わっていた。

そんな時、何気なく窓の外に目をやるとオカマのユリさんの姿が見えた。

三十代半ばくらいのがっちりした体格、黒髪が肩までかかるカツラを被ったユリさんだ。桜の開花宣言に合わせたのか、ピンクの水玉模様のスーツにふくらはぎの筋肉が際立つ黒の網タイツ。網タイツを履くと、ふくらはぎがチャーシューみたいに見える。

盛り上がる頬骨、無駄に多いつけまつげ。ファンデーションで顔が真っ白なうえにタラコのような真っ赤な唇。

笑いのツボがさっぱりわからないのだが、とにかくよく笑う明るい人だ。この人が笑いだすと、僕もなにがおかしいのかわからないのだが、釣られて腹を抱えて笑ってしまう。ここで働きだしてから、一番最初に名前を覚えたオカマちゃんだ。

女装というより、変装に近いと僕はいつも思っていた。

そんなユリさんが、店の前を行ったり来たりしているのが窓から見える。

時折、店の中をのぞき込むような仕草で、立ち止まったりもしている。

そして、意を決したようにドアに付けてある大きな鈴を、からぁーんと鳴らした。

バイト連中は、立ち話をやめて振り返り「いらっしゃいませ!ユリさん!」と声をかけた。普段なら笑顔で僕たちに手を振りながら登場するユリさんなのに、今日はなぜだか表情が硬い。緊張したおももちで店に入ってくるなり、ホールでオシボリを用意しているイケメンのアイドル歌手志望の高木君の前にすたすたと駆け寄っていく。

「――き、きっ、気にいるかどうかわかんないけど、……よかったら使ってみて」

そう言って、ぴょこんと軽く頭を下げて伊勢丹の紙袋を伏し目がちに手渡した。

僕たちみんながびっくりして見ている中、頬を赤らめ恥ずかしそうにドアを開け、

ガニ股のユリさんは逃げるように外へ飛び出して行った。

その場にいた僕を含めた他のバイト仲間が、「高木君、なにもらったの?見せて、見せて」「ユリさん、高木君のことが好きなんじゃない?」「こりゃ告白だな!」

店が暇だったこともあり、バイト仲間が高木君を囲んで口々にはやしたて声を掛けた。やや緊張気味の紙袋を手にした高木君は、

「――ユリさんいい人だけどさぁ……おっ、俺、無理だよ」

そうつぶやきながら、恐る恐る紙袋を開けた。

ピンクのリボンに包まれた箱の中には、茶色と白のストライプ柄の皮でできた高そうな長財布が入っていた。

「いいじゃん!センスいいかも、ユリさん」

「伊勢丹で買う財布なんてすげぇー高級品なんじゃね?高木君、よかったね!」

「もう付き合うしかないんじゃないの?」

皆、勝手なことを言いながら高木君を冷やかしたり笑ったりと、その場は大いに盛り上がっていた。

僕たちの盛り上がりとは裏腹に、困った顔をした高木君は財布の中を開けると苦笑いは瞬時に消えさり、深く眉をひそめた。

財布の中には十万円が入っていたのだ。

それと、可愛いピンクのハートマーク柄のメッセージカードも入っていた。

「早く歌手になれるといいね。応援しています。大好きです。 ユリ」

バイト仲間達の冷やかしていた笑い声が、一瞬に消えた。急にその場がシーンとなった。

「――これ、このお金どうしよう……こっ、怖い、怖いよ。怖いよ、俺」

茫然と立ち尽くす、高木君のコメカミに光る汗と耳まで真っ赤な顔。

少し涙目で微かに口元がひくついているのを無理やり押さえ込むように、口を一文字に固く結んでいる。

恐怖でおののく高木君を、真剣に心配そうに見つめるバイト仲間達。

告白されて本気で怖がっている高木君を見て、なんなんだよ、この展開は、と僕はおかしくておかしくて笑っちゃいけない!と、ひとり奥歯を強く噛み締めて、みんなを見ていた。

妙に体格のいい、変なカツラを被った女装しているオジサンからいきなり本気の告白をされる。真面目でシャイなイケメンの高木君が耳まで赤くして、怖くてブルブルと震えている。まるで天敵に狙われて震えている小動物みたいに。

危険物でも手渡すかのように、すぐに逃げるようにガニ股で飛び出していくユリさんの振り乱した黒髪と大きな背中。目の前にいる無言のバイト仲間達。

このムチャクチャな展開にコントを見ているようで、肩を震わせながら笑うのを僕は我慢していた。

その日から高木君はバイトに来なくなった。

このことがあってからユリさんも街角に立ってはいたが、僕達の店に姿を現すことはなくなった。



 ある雨の日の夜、いつもどおりの歌舞伎町の喧騒の中、傘をさしてあの日と同じ水玉模様のスーツと黒の網タイツ姿で通りに立っていたユリさんとすれ違った。

すれ違いざまにユリさんと目があった。照れくさそうに苦笑いしたユリさんに、僕は軽く頭を下げた。ユリさんは今にも泣き出しそうだ。

クシャクシャになった顔を隠すように、スーツに合わせたピンクの水玉模様の傘をさっと顔の位置まで下ろした。

ピンクの傘が街のざわめきの中で小刻みに揺れている。

濡れた路面に、赤や青の点滅を繰り返す電飾看板の光が反射して、にじむように揺れている。ユリさんの前を行き交う多くの人々の真ん中で、ピンクの傘がブルブルと震えている。

告白したことで、財布をプレゼントしたことで高木君がバイトを辞めたことはもちろん知っているだろう。

気持ちを伝えたい、伝えたからどうなる?伝えたあとの気まずさや、もしかしたら伝える前のように笑いながら話すことができなくなるかもしれない。

男女問わず誰でも経験したことがあると思う。

片思いのままのほうがいいんじゃないか?という葛藤を。気持ちを伝えることにすごく悩んだのだと思う。迷って悩んで迷って悩んで、やっと伝えることができたのだと思う。

 ――ユリさん、泣いてるの?後悔してるの?

もし後悔をしているのなら、そんな後悔しなくていいよ。

伝えなくて悶々とするよりは全然マシだよ。

心の底から人を思うことって言葉にしたくなる。結果の良しあしじゃなく、すごく勇気がいるんだけど伝えたくなる。自分の気持ちを。

こうなることが予想できたのに、言葉にしたくなる強い気持ち。

あのとき笑うのを我慢するのに必死だった僕なのに、なんだかとてもせつなくなった。小雨が降る夜、こんな気分の時でも、いつもと変わらない賑やかすぎる歌舞伎町一番街通り。出勤時間に間に合うよう、僕はバイト先に向かった。


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